ローマ人への手紙15章1~6節 「心を一つにして」

きょうは、「心を一つにして」という題で、お話したいと思います。今、読んでいただいた箇所は、14章の続きです。14章のところで、パウロはローマ教会には信仰の強い人と弱い人が摩擦を起こし教会の中でいろいろな問題を起こしていましたが、それにどう対処したらよいかを語ってきました。きょうのところには、そうしたパウロの願いは祈りになって溢れていることがわかります。5,6節をご覧ください。ここには、

「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

とあります。教会の一致という問題はきわめて重要な問題です。それは教会がキリストのからだであるからです。パウロは、12章から始まる信仰生活の実践について語ってくる中で、この問題についてかなりのスペースを割いて語ってきましたが、その締めくくりにおいても、この問題を取り上げて説明を加えました。

きょうは、この教会の一致について三つポイントでお話たいと思います。第一のことは、信仰の強い人は、弱い人の弱さをになうべきです。第二のことは、それが可能になるのは、聖書が与える忍耐と励ましによってであるということ。第三のことは、その目的です。教会が一致するのはどうしてなのでしょうか?それは神の栄光のためです。心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえられるためなのです。

Ⅰ.弱さをになう(1-3)

まず第一に、力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきです。1~3節をご覧ください。

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。」

1節の「力のある者」とは、14章でいわれているところの「信仰の強い人」のことです。このような人たちは旧約聖書の律法から完全に解放されている人たちのことで、キリストの恵みによって自由にされたと信じていた人たちです。一方、力のない人たちとは、信仰的にとてもナイーブな人たちで、食べ物や日に関する規定からなかなか抜け切れていない人たちで、こういう人たちは、イエス・キリストを信じても、なおそうした規定を守らないと救われないのではないかと考え、そうでない人たちを見てつまずいてしまうような繊細な信仰を持っていました。ここでパウロは、「私たち力のある者は」と言っていますから、自分は力のある人たちのグループに属していると認識していたことがわかります。そして、このように力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきであって、自分を喜ばせるべきではないと言いました。これが信仰の原則です。力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきであるということです。この「になう」ということばは、「自分のものとして受け入れる」という意味です。弱い者の弱さを自分の弱さと思って共に背負うことです。その最もよい例は、主イエスです。3節には、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。」とあります。これは、キリストの受難のことです。キリストはご自分が強い方として、弱い者の弱さを負ってくださいました。イザヤ書53章4~6節には、

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

とありますが、イエス様はご自分の肉体をもって弱さをになうということがどういうことなのかを示してくださいました。私たちの悲しみを代わりに背負ってくださり、私たちのすべての罪を引き受けられたのです。キリスト、ご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、弱い者の弱さをになわれ、代わりに背負ってくださったのです。キリストが歩まれた地上での生涯を見ると、キリストはご自分を喜ばせるようなことは、ただの一度もなかったことがわかります。キリストは多くの奇跡をなさいましたが、ご自分のためになさったことは一度もありませんでした。五つのパンと二匹の魚で五千人の人たちの飢えを満たされたのもご自分の飢えを満たすためではなく、群衆の飢えを満たすためでした。キリストは寝食を忘れて、病人をいやし、悩み苦しむ人々の求めに答えられました。そうしたキリストの模範を見るとき、私たちも自分を喜ばせるために生きているのではなく、弱い人の弱さをにない、その人たちを喜ばせるために生きるべきであることがわかります。これが、力のある者、強い者に与えられている使命です。

皆さん、神様はなぜ皆さんに健康を下さったのでしょうか?それは、健康でない人の弱さをになうためです。なぜ経済的、物質的な祝福を与えてくださったのでしょうか?それは、ぜいたくをするためではありません。それによって人々を助けるためです。なぜ信仰の賜物を与えてくださったのでしょうか?その賜物によって他の人たちに仕えるためです。これが力のある者に与えられている使命なのです。

中には、隣人を喜ばせるために自分の喜びを犠牲にしなければならないのなら、信仰生活ほどつまらないものはないでしょう、と言う人がいますが、そうではありません。私たちの喜びというのは、実は与えることによってもたらされるものだからです。ルカの福音書6章38節には、

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

とあります。人を図る量りで、自分の量り返してもらえるのです。よく宣教師の生涯を見ると、本当に苦労が絶えません。私も宣教師のはしくれのようなことをさせていただいてみて、そのことがよくわかります。自分の生活を捨てて宣教地の人たちに仕えることは、並大抵の忍耐でできることではないのです。なのに宣教に携わった方々がよく口にする言葉は、「宣教は喜びです」という言葉です。大変苦労したのに、大変な犠牲を強いられたのに、なぜ「宣教は喜びです」と言えるのでしょうか?人を量る量りで、自分も量り返してもらえるからです。与えなさい。そうすれば、与えられるのです。人々は量りをよくして、押しつけて、揺すり入れ、あふれるまでら、あなたのふところに入れてくれるでしょう。自分のものを注ぎ出すと、枯渇するのではなく、かえって潤されるというのが神の国の原則なのです。

Ⅱ.聖書の与える忍耐と励ましによって(4-5)

それにしても、力のある人が力のない人たちの弱さをになうことには苦労が伴います。いったいどうしたらこの使命を果たすことができるのでしょうか。次に、そのために何が必要なのかを見ていきたいと思います。4,5節をご覧ください。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」    パウロは、キリストについてしるされてある旧約聖書(詩篇)から引用すると、その聖書の効用について教えています。つまり、聖書は私たちに忍耐と励ましを与え、希望をもたらしてくれるということです。皆さん、いったい私たちは何のために聖書を読むのでしょうか?そこに書かれてあることによって忍耐を励ましをいただき、希望を持つためです。

私たちの信仰生活は、いつも苦難にただ耐えているというようなものでないことは確かなことです。しかし、教会の一致を保ち続けていくためには、忍耐が必要なのは言うまでもありません。互いに言いたい放題のことを言い、したい放題のことをしていて、それで一致が保たれるはずはないのです。それは夫婦関係を見てもわかるでしょう。夫婦は互いに「フーフー」言いながらも、時には言いたいことがあってもそれをじっとこらえ、それが必ずしも自分の考えややり方と違うものであっても理解したり、受け入れたりすることによって、そこに一致が生まれてくるものです。それができなかったら、そこには混乱と破壊しかありません。

しかし、ここで「忍耐」と言われていることは、ただじっと耐えているという意味ではありません。この「忍耐」というのは、解決の力をもっている人が、その解決をもたらしてくれることを期待して待つことを意味します。その忍耐を与えてくれるものが聖書のみことばなのです。   また、弱っている人が慰められ、励まされて、力づけられるには、その人のかたわらにいて、励ますことが必要です。何もしなくても、ただ一緒にいてくれる、かたわらにいてくれるということが大きな励ましであり、慰めです。何も言わなくてもいいのです。何も言わなくても、共にいることが励ましです。その慰め、励ましを与えてくれるのがみことばなのです。

弱い人にとって大切なのは希望を持つことです。彼らが気落ちし、失望する時、彼らを励ますためには、希望を持てるようにする以外に解決の道はありません。ではその希望はどこから与えられるのでしょうか?聖書です。聖書が与える忍耐と励ましによって、希望を抱くことができる。ですから、5節には「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」とあるのです。

皆さん、私たちの人生には、苦しみや、悲しみ、痛みや、試練がごまんとあります。しかし、そのような中で私たちが経験するのは、神様が忍耐と励ましを与えてくださるということです。そのことを誰よりも経験したのはこのパウロ自身でしょう。彼はキリストを信じ、キリストの福音を宣べ伝えたことで、石で打たれたり、牢屋に入れられたり、鞭で叩かれたり、盗賊の難、同族の難、難破の難など、あらゆる困難に遭いましたが、そうした困難の中で、彼は神様が忍耐と励ましの神であることを深く知りました。どんな状況の中にも、神は志を立て、それをなさしめてくださるということを知ったのです。

皆さん、それは私たちも同じなのです。私たちの家庭の中に教会の中にも、言葉では言うことのできない困難や苦しみがあるでしょう。しかしながら、忍耐と励ましの神が、私たちを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださるのです。一致を与えてくださいます。

Ⅲ.神の栄光のため(6)

では、それはいったい何のためでしょうか?強い者が弱い者を受け入れ、一つの心を持つのは、何のためなのでしょうか?それは、神の栄光のためです。6節をご覧ください。

「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

皆さん、私たちは何ために互いに同じ思いを持ち、心を一つにし、志を一つにするのでしょうか?それは私たちが声を合わせて神をほめたたえ、神を証しするためです。私は説教しているうちに、いつの間にかそれが祈りになっていたということがありますが、ここでパウロも、いろいろと書いて、いろいろなことを語ってくる中で、それがいつしか祈りに変わっています。いや、祈らざるを得なかったのです。

「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

パウロの祈りは、教会が一つになることです。いろいろな人がいてもいい、いろいろな背景や考えを持った人がいてもいい、しかし、根本的には同じ思いを持ち、心を一つにして、声を合わせて、神をほめたたえ、神を証しするような、そういう教会になってほしいという願いがありました。それが祈りになったのです。

それは、イエス様の祈りでもありました。ヨハネの福音書17章21節には、「父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」とあります。イエス様は十字架を前にして、弟子たちに、はらわたをさらけ出すようにして話してから、わたしと父とが一つであるように、教会がイエス様と一つ、教会員が一つになるようにと祈られたのです。それは、このことによって、神様がいらっしゃること、福音が本当だということ、イエス様が救い主であるということを、この世が信じるためです。信じて永遠のいのちをいただき、そうして、父なる神様の栄光が現されるためです。教会が一つであるということは、それほど力があることなのです。

ところで、この「心を一つにして」ということばですが、これはローマ人への手紙の中にはここにしか使われていないことばです。しかし、このことばは実は、使徒の働きの中には何回も何回も出てくることばなのです。そして、この「心を一つにして」ということばが出てきた時に、そこに驚くべき神様のみわざと祝福が溢れ、教会が進展していったことがわかります。たとえば、2章46,47節には、

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

とあります。彼らが心を一つにして、毎日宮に集まり、家々で喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していたとき、すべての民に好意を持たれ、毎日救われる人々が仲間として加えられていったのです。また、4章24~32節を見ると、生まれながらの足なえをいやしたことでユダヤ教当局に捕らえられていたペテロとヨハネが解放されたとき、彼らが心を一つにして、神に向かって、祈ったとき、集まっていた場所が震い動くほど聖霊に満たされ、大胆に神のことばを語り出したとあります。また5章12~13節を見ると、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが行われましたが、そのとき、みなは心を一つにしてソロモンの廊にいました。ほか人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、そうした人々でも、彼らを尊敬していたとあります。聖徒が心を一つにして祈り、心を一つにして神をほめたたえるときに、そこにものすごい神の栄光が現されるようになるのです。

初めて教会に来られた方に、「きょうの礼拝はいかがでしたか?」と尋ねてみると、ほとんどの人がこう答えられます。「明るくて、いい雰囲気です。また来たいと思います。」「いや、なかなかいい話だった」とか、「説教で教えられた」ではないのです。雰囲気が良かったとか、明るく、温かい感じだったという印象が残るのです。先日、修養会のご奉仕で来られた大友先生も、そのプロフィールを見ていたら、小さい時からの夢であった造船会社に入り、そこで設計の仕事をするようになって満足はしたものの、心の底からの満足が得られないでいたとき、電柱にはってあったキリスト教会の集会案内を見て教会に来られたわけですが、「初めての聖書の話は全然わからなかったが、そこに温かいものを感じて、そして教会に通うようになり、イエス・キリストを救い主として受け入れた」とありました。やはり、温かいものです。言い換えると、教会にこの温かいものがないと、人々は長続きしないということになります。この温かいものはどこから生まれてくるのか?心を一つにして、声を合わせて、主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるというところから生まれてくるのです。

使徒の働き13章の出来事は、パウロにとって忘れることができない事だったでしょう。1~3節です。

「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」

パウロはその時アンテオケ教会でご奉仕していました。バルナバがパウロを引き出してくれました。バルナバは、「慰めの子」という名前の由来のごとく、ほんとうに傷ついた人を慰め、励ます賜物がありました。かつてバリバリのパリサイ人で、クリスチャンを迫害していたパウロを信用し受け入れるクリスチャンが少ない中で教会から信頼されていたバルナバは、このアンテオケ教会の建て上げのために彼を連れてきたのです。そこにはいろいろな人たちがいました。まず「ニゲルと呼ばれるシメオン」です。「ニゲル」というのは現在のニグロのことで、肌の色が黒かったことを表しています。おそらく、アフリカ系の黒人だったのでしょう。それから「クレネ人ルキオ」です。使徒の働き11章20節をみると、この人たちはステパノの迫害のことでフェニキア、キプロス、アンテオケと進んできましたが、それまではユダヤ人以外にはだれにも、みことばを語らなかったものの、このアンテオケに来てからは、彼らはギリシャ人にも語りかけたので、ギリシャ人をはじめ多くの異邦人も主に立ち返りました。キリストの弟子たちが、このアンテオケで初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったのは、彼らの影響が大きかったでしょう。その他、国王ヘロデの乳兄弟でマナエンという人もいました。これはヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスと同じ宮殿で育てられたという意味です。今でいうと皇族の一人といった感じです。かなり高い身分の出身でした。そういう人たちがいたのですが、彼らはそうした社会的地位や身分を越え、信仰によって一致していたのです。そうした彼らがパウロとバルナバを世界宣教へと送り出しました。こうしたことは一流の人物がいるからできることではありません。気のあった仲間がいればできるということでもないのです。そうした人たちが信仰によって一つになり、人間的な偏見や障害を乗り越えて、初めてできることなのです。このアンテオケ教会には聖霊による一致がありました。ですから、彼らが心を一つにして祈っていたとき、聖霊が、バルナバとサウロをわたしが召した任務につかせなさい、という声を聞いたのです。そして、彼らはその声に従って送り出したのです。教会が心を一つにして祈ったとき、そこに大きな神様のみわざと栄光が現されたのです。

どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにしし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。神にご栄光がありますように。そのために、私たちは互いの弱さを負い合いながらその弱さをにない、心を一つにして、声を合わせて、主をほめたたえたいと思います。