きょうは「最大の恵み」というタイトルでお話したいと思います。ローマ人への手紙もいよいよ終わりに近づきましたが、この終わりの部分でパウロは、この手紙を書き送った目的なり理由というものを、ここでもう一度説明しています。その理由については既に1章8~15節のところで触れてきましたが、ここではその内容をもう少し詳細に説明し、その計画が実現するように、このローマの教会の人々に祈りの援助を要請しているのです。その計画とはどんなことだったのでしょうか?それは、異邦人に福音を宣べ伝えるということです。彼は神から恵みを受けた者として、異邦人の使徒として召されそのために熱心に主に仕え、聖霊の助けによって、エルサレムからイルリコに至るまで、宣教のわざを続けてきました。その結果、ローマ世界の東半分においては、なすべき務めを果たしてきたので、今度はイスパニヤにおもむき、残りの西半分においても福音を伝えたいと願っていたのです。そうした伝道の計画をローマ教会の人たちに伝え、そのために祈ってほしかったのです。パウロにとっての最大の喜びは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることでした。神様がそのために自分を用いてくださるということが最大の恵みだったのです。
それは私たちも同じではないでしょうか。私たちが救われた目的は私たちを通して、他の人々に神の救いのみわざを宣べ伝え、キリストの救いへと導き、神の栄光を映す反射鏡のような生き方をすることです。私たちはそのために救われたのです。であれば、私たちもパウロのようにイエス・キリストの福音を宣べ伝えることを最大の喜びとしながら生きる者でありたいと願わされます。
きょうは、このパウロの宣教の精神から三つのことを学びたいと思います。まず第一のことは、パウロに与えられた使命です。それは神の祭司として、異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とすることでした。第二のことは、それを成し遂げた力です。それはキリストのしるしと不思議をなす力、聖霊の力によるものでした。第三のことは、その使命に対してパウロがどのように答えていったかです。パウロは、福音が語られていない所に福音を伝えるという開拓者精神で仕えました。そうした宣教の情熱が、美しく実を結んだのです。
Ⅰ.祭司の務めを果たす(14-17)
まず第一に、14~17節までをご覧ください。ここには、パウロに与えられた使命がどのようなものであったかが記されてあります。それは、異邦人に福音を伝えるということでした。
「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵にみたされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。」
パウロは、14節のところで、「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」と言っています。パウロは、これから語ろうとしていることをローマの聖徒たちに語るにあたり彼らを責めるような口調や態度ではなく、彼らを認めていることから始めています。人が強められるために一番重要なことは、その人が認められることです。人は認められるときにすべてのことを立派に成し、命までもささげる忠誠心と犠牲心を発揮するのです。パウロはまさにこの原則を用いて、彼らを認めることから始めているわけです。それは何とかして彼らに、これからパウロが語ることをよく理解してほしいという願いがあったからだと思います。その願いとは何しょうか?それは神の福音を宣べ伝えることについてです。16節には、
「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」
とあります。パウロが受けた恵みとは何でしょうか?それは神の祭司として、異邦人に福音を伝えるということでした。それは彼らを、聖霊によって聖なる者として、神に受け入れられる供え物とするためです。
皆さん、私たちは恵みというと、何か物質的な祝福をたくさん受けることとか、行く先々で道が開かれるようなことを考えがちですが、最大の恵みは、自分の口をとおして救い主イエス・キリストの福音を伝えることができることです。もちろん、物質的に恵まれたり、私たちの人生の道が開かれることもすばらしいことですが、イエス・キリストの福音を伝えられることは最高の恵みなのです。私たちがこの地上で体験できる最もすばらしい恵みは、このキリストの福音を宣べ伝えられることなのです。この使命のために神様が自分を用いてくださるということ以上に、大きな恵みはありません。パウロは、テモテへの手紙第一1章12~16節のところで次のように言っています。
「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」
パウロが、キリスト・イエスに感謝をささげているのはなぜでしょうか?それはキリストが、彼をこの務めに任命して、彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼は以前は、神をけがす者であり、クリスチャンを迫害するような者で、神の敵として歩んでいました。まさに罪人のかしらのような人間だったのです。その彼が、神のあわれみによって罪が許され、キリストの福音を宣べ伝える者にされました。それこそ、ことばに言い尽くせない恵みだと、パウロは感激に溢れて告白しているのです。
皆さん、用いられることが祝福です。神様は、自分よりも育ちも良く、頭も良くて、人格的にも立派な人を差し置いて、私を用いてくださるとしたら、それこそ恵みではないでしょうか。
私は牧師になって28年になりますが、なかなかそのように思えないことの方が多くて悩みました。福音を語ってもあまり反応がなく、救われる人はまれです。自分が理想としていることと現実とには大きなギャップがあったりします。いったい何のために召されたのかと悶々とする時がある。 そんなことを考えていたあるとき、ずっと長い間忠実に主にお仕えしたきたある方の前でボロッと愚痴ってしまったのです。「ほんとうにこれで良かったのかなぁと悩む時もあるんですよ。あの道、この道と、いろいろな方法で神様に仕えることができたんじゃないかなあっと思うことがあるんですよ。・・・」みたいに。 するとその方がこう言われたのです。「あらまあ、いろいろな道もありますけれども、牧師さんとして仕えられることが一番神様に喜ばれることですよ」と。 私はそのことばを聞いたとき、もやもやしていた目の前の霧がパッと晴れ渡るかのように、はっとさせられました。ものすごく励まされたのです。そうだ、神様に仕えられる。神様に用いられることが最大の祝福なんだ・・・と。
どんなに自分は偉いんだと威張っても、どんなに自分は多くのものを持っているんだと胸を張っても、神様に用いられない人がいます。逆に弱くて無能で何も持っていないにもかかわらず、神様が用いる人がいます。これが恵みなのです。それゆえ私たちは神様に用いられるとき、感謝しなければなりません。自分がどれだけ多くの賜物を受けたかを感謝するのではなく、神様にいただいたものをもって、神様の栄光のために用いられているという事実を喜ぶことが大切なのです。
それは私たちがそのために召された者だからです。16節を見てください。ここに、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています」とあります。ここには私たちクリスチャンの身分というものがどういうものなのかが書かれてあります。それは「祭司」です。「祭司の務め」とは何でしょうか?ペテロの手紙第一2章9節を見ると、
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。」
とあります。ここに「王である祭司」とあります。神様は私たちを王である祭司として呼ばれました。祭司がすべき最も大きな仕事は、神にいけにえをささげることです。そのいけにえとは何でしょうか?そうです。異邦人です。それを私たちに適用して言うならば、それはまだ救われていない人たち、ノンクリスチャンたちだと言うことができます。礼拝をささげるときにノンクリスチャンたちを連れて来て神様の民にすることが、いけにえをささげるということです。多くの魂に伝道してイエス・キリストの御前に彼らを連れて来ること、これが最高のいけにえであり、神様が最も喜ばれることなのです。それは、私たちの家庭のことを考えてもわかると思います。家庭の中にあって、どんな時一番喜びを感じますか?新しい生命が誕生する時ではないでしょうか?それは家庭にとって一番大きな喜びなのです。それは教会も同じで、教会に新しい生命が誕生し、同じ信仰と同じビジョンを共有するようになるとき、喜びに溢れるようになるのです。それがなかったら教会は寂しいものです。どんなに集まってパーティーをしても喜びがありません。新しい生命を迎える感激と無縁だからです。祭司とは、そのようにノンクリスチャンを連れて来て、神の民として、いけにえをささげる人です。その神の祭司として、イエス・キリストが救い主であることを証しするために、私たち一人一人が呼ばれているのです。牧師だけではありません。牧師も信徒もすべての聖徒にです。このことを神学用語で「万人祭司主義」と言います。万人が際しです。すべての聖徒が神の祭司として、この務めを果たしていかなければなりません。
皆さん、悪魔が教会を倒そうとするとき、どのようにして倒そうとしているかご存じでしょうか?悪魔は教会を倒そうとするとき、まず少人数の人だけが走り回るようにし向けるのです。ある一部の信徒だけが伝道して、あとは自分の信仰だけを熱心に磨いていればいいと思わせるのです。そしてその人たちを疲れ果てさせ、落胆させ、意気消沈させるのです。何をやっても駄目だ、日本の宣教は難しい・・・と。しかし、それはまちがいです。伝道は特別な働きではなく、すべての聖徒たちにゆだねられている務めなのです。将軍が一人で戦っても、戦争には勝てません。戦争は総力戦なのです。イエス・キリストを自分の救い主と信じるすべての人が一緒に戦ってこそ、はじめて悪魔を退けることができるのです。このキリストの兵士が、教会の中に何人いるかです。教会にとって大切なことは、教会にどれだけの人が集まっているかということではなくて、どれだけの人が福音宣教に向かっているか、そのために遣わされているかということなのです。そして、私たちはみなこのために遣わされている神の祭司なのです。これがパウロにとっての最大の関心事であり、恵みだったのです。
皆さんはどうでしょうか?皆さんにとっての第一の関心事は何でしょうか?神の福音を宣べ伝えることでしょうか。それとも、自分のことでしょうか?すべての人がパウロと同じ人生を歩むわけではありません。しかし、パウロが信じ、パウロを導き、パウロの人生に目的とヴィジョンを与えられた神は同じ神です。であれば、私たちの関心事は同じものであるはずです。神の祭司としてその務めを果たしていこうとすることと無関係ではないはずなのです。
Ⅱ.御霊の力によって(18-19)
次に18~19節を見てみましょう。
「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」
ここには、パウロがどのようにして異邦人伝道を成し遂げていったのかが書かれてあります。「キリストはことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」その結果、彼はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えることができたのです。イルリコというのはアドリヤ海の東側でマケドニヤ地方の上の方、今のユーゴスラビアのことです。エルサレムからは直線距離にして1,500キロ以上はあります。彼は、エルサレムから始めて、そうした地方に至るまで、キリストの福音をくまなく伝えたのです。そればかりではありません。23節を見ると、「今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを希望していた・・・」と言っていますが、イスパニヤまで行こうと計画していました。イスパニヤというのは今のスペインのことです。当時の世界の西のはずれです。今日のように交通機関が発達していなかった時代に、まあ、よくもこんなに福音を伝えることができたものだと感心しますが、いったいその力は何だったのでしょうか?それはキリストの力によるものでした。キリストがことばと行いによって、また、しるしと不思議によって、さらに御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。それはパウロの力ではなかったのです。キリストがパウロを用いて、ご自身のみわざを成し遂げてくださったのです。
「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
聖霊があなたがたの上に望まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、力強い主の証人となることができる。その行く先々で、しるしと不思議を行ってくださいます。福音が伝えられる現場では、こうしたこうしたみわざが現れるのです。
使徒の働き13章には、パウロとバルナバがアンテオケ教会から遣わされてキプロス島に渡りましたが、そこで魔術師エルマと戦ったことが記されてあります。パウロの話を聞いていた総督セルギオ・パウロが神のことばを聞いていると、彼を信仰の道から遠ざけようとして、邪魔をしました。するとパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、「あらゆるよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができないようになる。」と言うと、たちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は見えなくなってしまいました。この出来事に驚いた総督は、主の力ある教えに驚いて信仰に入ったのであります。
ルステラではどんなことがあったでしょうか。生まれつき足のきかない人がすわっていましたが、どのようにしてかわかりませんけれども、彼がパウロの話を聞いていると、パウロは彼にいやされる信仰があるのを見て、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」というと、彼は飛び上がって、歩き出したのです。驚いた群衆は、パウロとバルナバがギリシャの神ゼウスとヘルメスだと思っていけにえをささげようとしましたが、パウロがあわてて、そんな馬鹿なことはやめてください。私たちも皆さんと同じ人間なんですよ。このようなむなしいことを捨てて、天と地を造られた行ける神様を信じてください、というと、大勢の者たちが信仰に入ったのです。
第二次伝道旅行ではどんなことがあったでしょうか。あれはピリピでの出来事です。占いの霊にとりつかれていた若い女奴隷から悪霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人たちがパウロとシラスを訴えて牢屋に入れてしまいました。にもかかわらず、パウロとシラスが獄中で祈りつつ、賛美の歌を歌っていると、奇跡が起こりました。大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち全部の扉が開いてしまったのです。それを見た看守は、「もうだめだ」と思って自害しようとしましたら、「自害してはならない。私たちはここにいる」というパウロとシラスの超えが聞こえたので、恐る恐るひれ伏しながら、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言ったので、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言って、彼の家族全部が救われました。
やがてローマに向かう船が難破して、奇跡的に救い出され、マルタ島についた時も、パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出て来て、彼の手にとりつきましたが、「何だこの蛇は」と言ったかどうかわかりませんが、パウロが火の中に振り落としても、何の害も受けませんでした。
使徒の働きを見ると、こうしたしるしや奇跡は山ほど出てきます。まさに、イエス様が言われたように、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)
宣教の現場にはこのような主の力あるみわざが現れるのです。なぜなら、宣教は御霊なる主の働きによるものだからです。ある人々は、このような奇跡は二千年前に終わったと言います。しかし、福音を携えていくところには、確かに奇跡が起こるのです。今も南米で、アフリカで、中国で、インドネシアで、世界中の至るところでこうしたしるしや不思議をなす力によって、福音がものすごい勢いで広がっているのです。使徒の働きに記されているすべてのわざは、今日も福音が宣べ伝えられる所で、私たちを通して行われるのです。それはこの日本でも例外ではありません。みことばが宣べ伝えられるところではどこでも、このような神の力が現れるのです。それがパウロの宣教の力だったのです。
Ⅲ.開拓者精神(20-21)
最後に、こうしたパウロの異邦人伝道の原動力について見て終わりたいと思います。20~21節をご覧ください。
「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」
「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝える」とは、それは異邦人の世界のことで、まさに世界宣教のことです。また、「他人の土台の上に建てないように」とか「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる」というのは、文字通り開拓伝道のことです。パウロは、こうした世界宣教と開拓伝道のヴィジョンに燃えていました。今日のように交通機関が発達していなかった時代に、よくもまあこんなに大きなヴイジョンを持つことができたものだと感心させられますが、もっと驚くべきことは、実際に彼はそれを達成しようとしていたことです。こうした彼の開拓者精神はどこから出ていたのでしょうか?それは、彼がいつも神の見地から物事を見、何が神のみこころなのかを考え、そこに生きようとしていたからではないでしょうか。それが自分にできるかどうかではないのです。神のみこころは何なのか。そしてそれが神のみこころならば、何としてもそれを達成しなければならないという情熱から出ていたことだったのです。テモテ第一の手紙2章4節には、
「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
とあります。神のみこころは、すべての人が救われて真理を知るようになることです。まだキリストの福音を聞いたことのない人たちが聞き、神を知るようになることを望んでおられます。そのためにどうあるべきなのかを求めた結果がこれだったわけです。今、私たちに求められているのは、こうした神様の目で物事を見、それを行っていくということではないでしょうか。
戦後、この日本にどうやって福音が伝えられてきたかご存知ですか?そこには多くの宣教師たちの汗と涙と犠牲によってです。日本が戦いに破れ、精神的に虚脱状態に陥っているとき、多くの宣教師たちが来日して、意欲的に福音を伝えてくれたことによってです。 その先駆者となったのがF・B・ソーリーという宣教師です。ソーリー宣教師は、1948年に来日し、焼け跡の東京の街角に立ってエネルギッシュに福音を伝えたと言います。アコーデオンをかなでながら歌を歌い、通訳を用いて説教しました。 東京での宣教の働きを終えると、今度は和歌山に移って意欲的に天幕伝道を始めました。「どうして和歌山なんですか?温泉があるからですか」と泉田昭先生が冗談に尋ねると、ソーリー宣教師は、にっこりと笑いながらこう言ったと言います。「調べてみると、日本でクリスチャンが最も少ない地方は富山県と和歌山県であることがわかりました。富山県ではカナダから来た宣教師たちが伝道することになったので、私たちは和歌山県で伝道することにしたのです。」 何というスピリットでしょうか。戦後日本の宣教は、こうした開拓者精神に溢れた宣教師たちによって、福音が伝えられて行ったのです。 イギリスからやってきていたP・ウィルスという宣教師は、「キリストを信ずれば、馬があんどんをくわえたような、長い不景気な顔をした人でも、かぼちゃのように、きびしょのように、にこにこした笑顔に変わります」と巧みな日本語で、熱心に語ったそうです。馬があんどんをくわえたような不景気な顔をしている人でも、イエス様を信じると、かぼちゃのような顔になるなんて、すごい表現だと思うんです。イエス様を信じると、私たちの不幸の原因であるところの罪が赦され、永遠のいのちがあたえられる。そのいのちの福音を携えて、熱心に語ったのでした。
今、時代は大きく変わりました。しかし、どんなに時代が変わってもいつまでも変わらない原則があります。それは、この開拓者精神です。まだキリストの福音が伝えられていない所に何とかして福音を伝えたいという情熱です。この日本の現状を見れば、それは必ずしも容易だとは言えませんが、しかし、イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも同じです。この主キリストが私たちとともにいてくださいます。この主の力に支えられながら、私たちはこのゆだねられた使命を成し遂げていきたいと思うのです。この救霊の情熱こそ、あらゆる困難を乗り越えて、世界の中心であるローマに、さらには世界の果てまで福音が伝えられた原動力だったのです。