ローマ人への手紙15章22~33節 「神の使命に生きる」

きょうは、「神の使命に生きる」という題でメッセージを取り次ぎたいと思います。私たちはみな、神様から使命が与えられています。それはキリストの福音を宣べ伝えることです。この使命を忘れてしまいますと、自分が何のために生きているのかがわからなくなって、生きていることにあまり喜びが感じられなくなってしまいます。逆にこの使命に燃え、自分に与えられたものをもって応えようとする人には、喜びが溢れてくるのです。

きょうは神の使命に生きたパウロの姿から三つのことをお話したいと思います。まず第一に、教会にはキリストの福音を宣べ伝えるという使命が与えられています。第二のことは、この使命を成し遂げていくためには、クリスチャンが愛による一致していかなければなりません。第三のことは、しかし何よりも必要なのはこのために祈ることです。

Ⅰ.教会の使命(22-24)

まず22~24節までをご覧ください。ここでパウロは、「そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので―というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、―」と言っています。

パウロは何度もローマ教会に行くことを望んでいながらも、なかなかそれを果たせずにいました。それは当時の地中海沿岸での伝道の事情がそれを許さなかったからです。それまでパウロが伝道によって出来た教会の中にいろいろな問題が起こり、その問題の解決にあたらなければならなかったのです。第二コリント人への手紙11章28,29節には「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」とありますが、パウロには教会のことで人には言えない苦しみや葛藤、痛みや悲しみがあったのです。そうしたことの対応に追われて、なかなかローマに行けないでいたわけです。

しかし、そのことが一段落すると福音宣教もかなり進み、「今は、もうこの地方には働くべき所がなくなりました」と言えるほどになりました。この地方とは、彼はこの手紙をコリントで書いていますから、このアカヤ地方、マケドニヤ、アジヤ地方といった地中海沿岸地方のことです。この地方にはもう十分と言えるくらいの伝道をしたので、今度はローマを中継地として、西方のイスパニヤまで出かけて行こうというのです。

このことばには、本当に驚かされます。まず第一に、彼が、この地方には私の働くべき所がなくなったと言い切っていることです。それほどに彼は熱心に伝道してきたということなのでしょう。もちろんそれはパウロひとりでできることではありません。その背後には、当時の異邦人教会全体が世界宣教の使命を自覚し、その実現のために共に労したという事実を見逃してはなりません。そのようにして、彼はこの地方全体に福音をあますところなく伝えてきたのです。

もう一つの点は、そこで彼が、これからイスパニヤまで出かけて行って福音を伝えようとしていることです。イスパニヤといったら今のスペインのことです。当時の世界地図では一番西に記されてあった国です。つまり、彼は世界の果てにまで行って伝道しようと言ってるのです。たとえそれがローマ帝国の西の果て、スペインであったとはいえ、当時の交通機関を考えれば、それは今日の全世界以上の遠さがあったと言っても過言ではありません。そんな遠くにまで出て行って福音を伝えようという彼の情熱には頭が下がります。

いったいなぜ彼はこのような思いを抱いていたのでしょうか?それは彼が神から与えられていた使命に生きていたからです。パウロの心をとらえていたのは、使徒の働き1章8節のイエス様のことばでした。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

これはイエス様が昇天される前に、弟子たちに語られたご命令でした。使徒パウロはこのみことばを握ってエルサレムに行き、福音を伝えました。後にはアジヤ地方をぐるっと回ってイルリコに至るまで、これは現在のユーゴスラビアですが、そこまで行って福音を伝えました。そしてそこにとどまらず、今度は当時の人々がイメージしていた地の果て、すなわちスペインにまで行って伝道しようと思ったのです。ハバクク書2章14節には、「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる」とありますが、全地が主の栄光を知るようになるためにというビジョンが実現すめために、その人生をささげたのです。彼はこの使命に生き、この使命に死んだのです。

しかし、それは彼だけのことではありません。教会全体に与えられている使命ではないでしょうか教会の使命は、教会がこの地上に誕生したその瞬間から、全世界に福音を宣べ伝えることでした。ですから、私たちがこのこの使命を見失い、この使命を果たしていこうとしないなら、教会はもはやこの世にあっては無用の長物であり、その存在意義がなくなってしまうのです。

最近、多くの人々が病んでおられると言われます。いったいその原因はどこにあるのでしょうか?生きる目的がわからないのです。自分が何のために存在しているのかがわからない。目的のある人でも、そのほとんどが自分のためです。自分に関心が向けられています。「どうしたら自分の人生の目的を達成していくことができるか?」「どうしたらいい暮らしができるか」「どうしたらいい服を着て歩けるか」と、その関心が自分に向けられているのです。ですから、自分の思うようにいかないと悩んでしまうのです。しかし、人生は自分の思うようにいかないことの方が多いのです。いや、ほとんどそうでしょう。ではどうしたらいいのでしょうか?自分のためにではなく、この私を造り、私を愛し、私のためにご自身のいのちを投げ出してくださった主のために生きることです。主が願っておられることは何か?そのために何をしたらよいのかを考えてるのです。私たちの古い人は十字架でキリストとともに死にました。今、生きているのは、私を愛し、私のためにご自身のいのちを捨ててくださった神のために生きているのです。自分であれこれして生きていくことを捨て、みこころのままに生きていく。水に浮くためには全身の力を抜かなければならないように、自分の考えや思いではなく、神のみこころにすべてをゆだね、導かれるままに生きることです。そこに生き甲斐が生まれてくるのです。

ある五十代後半の男性は、定年退職後どうやって余生を過ごそうかと、眠れないほど悩んだと言います。旅行にでも出かけてみるか、それとも、何か新しいことにチャレンジしてみようかと随分悩んだのです。そんな中で主イエス・キリストに出会いました。イエス・キリストに出会い、キリストの愛を体験し、福音の力を悟り、魂を生かす感激を知ったのです。それ以来、この方は神のために何ができるかを考えるようになりました。そして、定年後タイに渡り、そこで掃除の仕事をしながら福音を伝えることにしたのです。今では六十代になりましたが、神様の使命にとらえられて、それまでの人生とは全く違う余生を送っておられます。

私たちはごく普通の人かもしれません。それでいいのです。しかし、クリスチャンとして神に救われた者として、自分に何ができるのかを求めて生きることは重要なことです。なぜなら、そのために私たちは生かされているからです。私たちが神の使命を知り、そのために生きるなら、そこに大きな神の祝福が溢れるようになるのです。

Ⅱ.愛による一致(25-29)

ではそのためには何が必要なのでしょうか?25~29節をご覧ください。

「ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですが、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。」

イスパニヤまで行って伝道しようと思っていたパウロでしたが、その前に一つしておかなければならないことがありました。西に向かって行く前に、一度東に行っておかなければならないというのです。それは、異邦人教会からの献金を携えてエルサレム教会に持っていくことでした。当時、エルサレムの教会はユダヤ人から改宗したクリスチャンたちが集まっていて、クリスチャンになると迫害され職も失ってしまうことが多かったため、非常に困難な生活を強いられていたのです。その上、この地方を襲った飢饉のため、エルサレムの教会のクリスチャンは非常に貧困を極めていました。そこでパウロは、経済的に比較的余裕のあった異邦人教会に訴えて、献金を集めることにしたのです。するとマケドニヤとアカヤのクリスチャンたちは、喜んでそれに応えようとしました。なぜなら、それは彼らにとって当然すべき義務だと感じていたからです。彼らは霊的なことではエルサレムの人たちから分け前をもらったのだから、物質的な物をもって仕えるのは当然のことだと考えたのです。何と美しい信仰でしょうか。このように霊的な祝福を、物質的な物をもって分かち合うという原則は、聖書で教えられている原則です。たとえば、ガラテヤ6章6節には、

「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」

とありますが、それはこの意味です。イスパニヤへの伝道に燃えていたパウロは、なぜこのようなことをしたのでしょうか?そこに霊的な意味があったからです。それは聖徒たちの交わりの重要性です。パウロは、このように貧しいエルサレムの兄弟姉妹を献金をもって仕えることが、聖徒たちの交わりの恵みにあずかることだと信じていたのです。これが第二コリント人への手紙8,9章のところで、彼が言ってることです。実に献金は聖徒たちの欠乏を補うという奉仕のわざであり、そのことによって教会が一致を保つことができたのです。さきほど申し上げましたように、パウロの宣教の働きは彼一人によって成し遂げてきたものではなく、その背後には、実に多くの兄弟姉妹の祈りと助けがあってのことです。そうした兄弟姉妹の一致があってこそ、福音宣教が前進していくのです。福音宣教のためには愛による一致を欠かすことができません。

ですから、ご覧ください。使徒パウロの伝道というのはただ福音宣教にまい進していくというだけではなく、そこにはいつも本部であるエルサレム教会との緊密な関係を保っていたのです。第一次伝道旅行を終えたときにはアンテオケ教会とエルサレム教会に戻って報告し、神が彼らとともにいて行われたすべてのことを分かち合いながら主をほめたたえました。第二次伝道旅行の時もそうでした。パウロは第二次伝道旅行を終えた時にもエルサレム教会とアンテオケ教会に行って報告しています。また第三次伝道旅行が終わった時にも同じように、再びアンテオケとエルサレム教会に戻って宣教の報告をしました。パウロの計画は世界の果てであるイスパニヤに向かって行くことでしたが、同時に、エルサレムの教会の兄弟姉妹に仕えることでもありました。それは、ひどい飢饉で苦しんでいたエルサレム教会を助けるためでしたが、そのことによって教会との交わりの恵みにあずかり、その祈りの中で彼が宣教に送られて行くためだったのです。

Ⅲ.祈ってください(30-33)

福音宣教の使命を果たしていくために必要なもう一つのことは、祈りです。30~32節のところで、パウロはこのローマの教会のクリスチャンに切に願っていたことがありました。それは彼のために祈ってくれるようにということです。パウロがユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムの教会に対する愛の奉仕を全うすることができるように、また、その結果として、彼が喜びのうちにローマに行き、彼らと会うことができるように祈ってほしいというのです。それは彼自身が、この祈りの力を信じ、祈りによって生きていたからです。この「私とともに力を尽くして神に祈ってください」ということばは、「わたしとともに戦ってください」という意味のことばです。つまり、ここでパウロは祈りが戦いであると考えていたのです。というのは、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものだからです。エペソ人への手紙6章12節には、

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

とあります。パウロはそのことをよく認識していました。そしてこの戦いに勝利するためには、祈らなければならないのです。なぜなら、この悪魔との戦いは私たち人間の知恵や力などによって勝てる戦いではないからです。神様の助けなしには絶対に勝つことができません。ですから、私たちは祈らなければなりません。祈りは、私たちが自分の力に過信しないで、神に頼ることを意味しているからです。そして私たちが祈るとき、神様はそれを聞いてくださり働いてくださいます。そして、祈りを通して働く神様の力は本当に強いのです。

かつてモーセの時代に、イスラエルがレフィディムの荒野でアマレクと戦った時はどうだったでしょうか?丘の下でヨシュアと敵が戦い、丘の上ではモーセが手を上げて祈っていました。そしてモーセが手を上げて祈っている時にはイスラエルは優勢になり、手が下がるとアマレクが優勢になりました。ですからイスラエルが勝利するためにはモーセがずっと手を上げて祈っていなければなりませんでした。そこでたびたび下がってくる手を、一方はアロンが、もう一方の手はフルが支えました。そのためヨシュアはアマレクに勝利することができたのです。このアマレクと戦っていたのは誰だったのでしょうか?それはヨシュアでも、モーセでもありません。モーセの祈りに応えておられた神様だったのです。神さまに祈るなら、神さまが働いて勝利をもたらしてくださいます。神さまに祈るなら、この困難な福音宣教の使命も成し遂げることができるのです。

そしてここでパウロは、「私のために祈ってください」と言いました。これはなかなか言えないことですよ。どちらかというと牧会者はできるだけ自分の弱さをさらけ出さないようにしているからです。私も元々体育会系の人間ですから、自分のことを他の人にさらけ出すのが苦手です。苦手というよりもあまり好きではありません。しかし、ここでパウロは「私のために祈ってください」と祈りを要請しているのです。それは彼が謙遜だったからということもあったでしょうが、何よりもそれが霊の戦いであることを十分意識していたからなのです。自分が置かれている立場がどのようなものであり、その任務を果たしていくには何が必要なのかということをよく認識していたからなのです。そしてそのためには何よりも祈りが不可欠であることをよくわきまえていました。彼は牧会者として、霊的リーダーとして、悪魔の最大の標的にさらされていて、そのためには祈りがなければ勝利できないということを痛感していたのです。

悪魔の第一の標的は何でしょう?牧師です。牧師を倒せばいいのです。牧師を倒せば残りの羊が散り散りになってしまうことを悪魔はよく知っているのです。おそらく、日々だれよりも大きな試みに会っているのは牧師ではないかと思います。ですから、そんな悪魔の策略に陥らないために、牧師のために祈らなければなりません。私のためにも祈ってください。またお互いの祝福のためにも祈ろうではありませんか。そして、私たちに与えられている使命を十分に果たし、神のご期待に応えられるような教会になれるように、祈ろうではありませんか。

最後に一つのお話をして終わりたいと思います。二人の木こりの話です。二人の木こりがいました。一日八時間、一人は1分も休まず熱心に働きました。もう一方は50分働いて10休むというやり方で八時間働きました。どちらが多くの木を切ることができたと思いますか?後者の方です。そこで前者の木こりが不思議に思ってその訳を尋ねると、その木こりがこう答えました。「私はその10分の休みの間に斧を研いでいたのさ。」これは重要な答えです。それは私たちクリスチャンにも言えることではないでしょうか?私たちが生きるとき熱心に走ることも重要ですが、斧を研ぐ時間も持たなければならないということです。クリスチャンにとってその斧を研ぐ時間こそ日々の祈りなのです。主の御前に出て礼拝することなのです。毎週集まってともに祈ることなのです。どんなに忙しくてもその時間が必要です。悪魔のわざを打ち破るキリストの兵士として、祈りという霊的武具は絶対不可欠なものだからです。しっかりと武装してこそ大きな働きができるということを肝に銘じて、祈りを怠らず、燃えるような情熱をもって神さまから与えられた宣教の使命を全うしていく者でありたいと思います。