いよいよローマ人への手紙も16章を残すのみとなりました。きょうはこの前半部分から「偉大な同労者たち」についてご一緒に学んでいきたいと思います。
聖書を見ますと、名前ばかり書かれてある箇所が時々あります。たとえば、マタイの福音書1章はそうです。誰が誰を産んで・・・という表現がずっと続きます。中にはせっかく聖書を読み始めたのに、これではつまらないと思って読むのを止めてしまったという人もおられるのではないでしょうか。ルカの福音書3章もそうですね。名前の羅列です。特に読むのに骨が折れるのは歴代誌です。第一歴代誌は1章から9章にわたって名前ばかり出てきます。このような文章を読むのは牧師でさえ大変です。そのような記録はおまけの記録みたいで、何の意味もないと考えてしまうのも無理はありません。ですからすぐに次の章に行ってしまいたくなるのです。しかしこのローマ人への手紙16章は、無意味な記録ではありません。ここにはパウロの働きを助けた偉大な同労者たちの記録が記されてあるからです。
きょうは、この偉大な同労者たちの働きを三つのポイントで学んでいきたいと思います。まず第一に多く人を助けたフィベという女性について見ていきましょう。第二に忠実な同労者であったプリスキラとアクラから学びたいと思います。第三のことは、そこに偉大な同労者たちの働きがあったということについて見ていきたいと思います。
Ⅰ.多くの人を助けた女性フィベ(1-2)
まず1,2節をご覧ください。「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」
パウロは、この手紙の最後のところで、ローマ教会にいる多くの人たちにあいさつを送っていますが、ここに出てくる名前だでも28人にも及びます。まだ一度も行ったことのないローマの教会に、これだけ多くの知人、友人がいたことには驚かされますが、それ以上に驚かされるのは、そうした一人一人に対するパウロの行き届いた心遣いです。
その最初に紹介されているのがフィベという女性です。この人はコリント地方のケンクレヤにあった教会の人で、女性の執事でした。この「執事」ということばは「しもべ」を意味する言葉で、今でいうところの「執事」や「役員」のことを指しているのかどうかははっきりわかりませんが、多くの人々の面倒をよく見ていたようです。そういう意味では、彼女は執事としてその務めを立派に果たしていたと言えるでしょう。
このフィベという女性は、どんな人だったのでしょうか。2節を見ると、ここに「どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し・・・」とありますから、この女性がコリントで書かれたこのパウロの手紙を持ってローマまで行ったのでしょう。私たちが読んでいるこのローマ人への手紙は、このフィベによって運ばれたものなのです。今でこそページ数で見ればほんの16章の薄い読み物ですが、当時はすべて巻物に記録されていたため、たぶん風呂敷包みで二つぐらいになったはずです。私たちは誰かに手紙を託すとき、「よいか、しっかり頼むぞ!」と言って手渡すかと思いますが、そのことばには相当の信頼が込められています。フィベという女性はパウロが尊い手紙をゆだねるほど、大いに信頼されていた女性だったのです。女性に対して人権意識が薄かったこの時代に、これだけの信頼を受けていたということは、まさに革命的なことだと言えるでしょう。
もう一つこのフィベについて紹介されていることは、彼女が「多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人」であるということです。このことばは、彼女が経済的な支援者であったことを示しています。使徒パウロは始め、テントメーカーをしながら自ら生活費を稼いで宣教をしていました。けれども次第にだんだん主の働きが忙しくなると、稼ぐことができなくなりました。このようなとき、パウロの経済的な必要を満たしてくれたのがこのフィベだったのです。いやパウロだけではありません。彼女は自分に与えられた財で、主に仕えていた多くの働き人を助けていたのです。
イエス様と弟子たちが伝道していたとき、その費用はいくらくらいかかったと思いますか?そんなことを計算した経済学者がいます。その人の試算によると、まず一ヶ月の食費は、一食三百円だとして、一度にかかる費用は三千九百円、一ヶ月なら三十万円を超え、一年間ですと三百六十万かかることになると言います。イエス様は神の御子であられましたが、この地上で御国の福音を伝えるために何も食べなかったのかというとそうではなく、ちゃんと食べなければなりませんでした。ではその食費はどうされたのか?その辺に転がっていた石に向かって、「エイ、お金になれ!」と命じたわけではないのです。ルカの福音書8章3節を見ると、その背後にはスポンサーがいたことがわかります。それが「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜい女たち」だったのです。多くの女たちが、イエス様と弟子たちの働きの費用を担っていたのです。そのような人たちの献身があったので、イエス様と弟子たちの働きが可能であったわけです。
フィベも同じです。彼女はパウロをはじめ多くの働き人を経済的に支援して支えました。そうした支えがあったからこそ、パウロは何にも妨げられることなく、また、そうしたことで心配することなく伝道に専念することができたのです。彼女のこうした働きの貢献にはおおきいものがありました。今日も彼女たちのような献身的な人たちをとおして、神様のみわざは大きく前進しているのです。
Ⅱ.忠実な同労者プリスキラとアクラ(3-5a)
次に、3~5節までを見てみましょう。ここには、忠実な同労者プリスキラとアクラ夫妻の美しい働きについて紹介されています。「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパントによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。」
使徒の働き18章1~3節を見ると、パウロはこのプリスキラとアクラとは、すでに顔見知りであったことがわかります。彼が第二次伝道旅行でコリントを訪れたとき、彼らもローマからやって来ていて、そこでパウロと出会うわけです。彼らもまたテントメーカーの仕事をしていたので、パウロは彼らの家に住んで、そこでいっしょに仕事をしたほどの仲です。そのときにプリスキラがアクラの妻であると紹介されていましたが、次第にアクラとプリスキラではなくプリスキラとアクラと紹介されるようになりました。すべてプリスキラの名前の方がアクラよりも前に挙げられています。なぜそのように紹介されているのかはわかりませんが、どうも夫のアクラよりも妻のプリスキラの方が、パウロの説く福音理解において鋭かったのか、あるいは、彼女の働きがことのほかすぐれていたことの評価がそこに表れているのではないかと思われています。しかし、たとえプリスキラの方が福音の理解においてすぐれ、その働きにおいて熱心であったとしても、これはあくまでも夫婦二人の働きによるのだということを表しているのではないかと思います。
さて、このプリスキラとアクラについてパウロが語っていることは、彼らが「自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれた」人たちであるということです。彼らは、パウロの命のためには自分の首さえも差し出すほどだった、と言っているのです。パウロがそう感じるほど、このプリスキラとアクラは忠実な同労者でした。天国に行ってからパウロに「あなたが一番忘れがたい同労者は誰ですか?」と尋ねるなら、きっと「プリスキラとアクラ夫婦です」と答えることでしょう。それほどに神様の御前に美しく献身していた夫婦だったのです。このような夫婦の存在は、牧師にとってどれほど大きな慰めとなり、励ましになることでしょう。皆さんもそういう人になってください。自分を主張し自分の思い通りにいかないとすぐに不満をぶちまけるような人ではなく、「彼らは命の恩人」だと言わしめるほどの忠実な同労者になっていただきたいのです。
このプリスキラとアクラ夫婦についてもう一つ重要なとがあります。それは5節に「またその家の教会によろしく伝えてください」とあるように、彼らの家が教会だったということです。家の教会です。今日のような会堂が出来たのはそれからだいぶ後になって2世紀になってからであって、当時は建物を持つ教会はほとんどありませんでした。ですから、このように信者の家庭が教会として用いられたのです。すべてが家の教会でした。開放された家庭でイエス・キリストの御名によって人々が集まれば、それが教会だったのです。プリスキラとアクラ夫婦は、行く先々で家庭を開放して、礼拝をささげる場所にしたのです。
これが教会と呼べるのか、スモール・グループと呼ぶのかは別として、ここで教えられることは、私たちの家庭は開放されなければならないということです。クリスチャンが礼拝や交わりのために家庭を開放することは大きな祝福であり、そのこと自体が立派な神様の働きなのです。特にまだ開拓伝道にも等しいような日本の教会においては、この家の教会の存在が極めて重要だと言えるでしょう。このようにクリスチャンの家庭が開放されそこで福音の種が蒔かれることによって、やがてそれが大きな実を結んでいくのです。そのことを覚えながら、私たちもまたプリスキラとアクラ夫妻のように、自分の家庭を主の働きのために開放していきながら、福音の宣教に貢献していきたいと願わされます。
Ⅲ.偉大な同労者たち(5b-16)
次に5節の後半から16節までを見ていきましょう。ここにはフィベやプリスキラとアクラ以外に、パウロに仕えた人たちの名前が列挙されています。パウロは胸に刻まれた、忘れられない同労者たちを思い浮かべながら、ローマ教会の聖徒たちに、彼らに「よろしく伝えてください」と言うのです。
まずパウロは、エパネトによろしくと言っています。この人はアジヤで最初にキリストを信じた人でした。パウロにとっては忘れることのできない人のひとりだったのでしょう。
次に出てくるのはマリヤです。ここには「あなたがたのために非常に労苦した」とあります。フィベもそうでしたが、このマリヤも、また、その後に出てくる人たちでユニアス、ツルバナ、ペルシス、ルポスの母、ユリヤとその姉妹も、みな女性たちです。こうした女性たちが非常に労苦しながらパウロの働きを支えていました。当時のローマの哲学者セネカは、「女も人なのか」といって論争を巻き起こしたと言われていますが、当時はそれほど女性に対して人権意識が低い時代でした。そうした時代に、女性たちがパウロの働きを支えるということにはどれほどの労苦が伴ったことかと思いますが、そうした中で彼女たちはパウロを支えたのです。
それから7節を見ると、ここにパウロと同国人で彼といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスという人たちも出てきます。彼らはパウロといっしょに投獄された経験を持っていて、使徒たちの間でもかなりよく知られていた人たちでした。福音のために苦楽を共にした思い出がよみがえってきたのでしょう。しかも彼らは「わたしよりも先にキリストにある者となっていた」という言い方をして、自分よりも先にクリスチャンになっていた信仰の先輩に対する敬意を表そうとしていたようです。
また10節ではアペレという人のことが紹介していますが、彼は「キリストにあって練達した人」でした。この「練達した」ということばは「テスト済み」という意味です。彼はどこへ出しても大丈夫とだれからも太鼓判を押されるような立派なクリスチャン本物のクリスチャンでした。
ローマの教会にはこのような人たちがたくさんいたのです。そしてこれらの人たちの中には、おそらくパウロがまだ一度も会ったことのない人々も含まれていることがわかります。そのようにまだ一度も会ったことのない人でも、彼の中では主にある同労者であるという意識があったのです。つまり、彼らがパウロとどういう関係があるかという見方ではなく、主にあって、キリストにあって、同労者であると理解していたのです。
人はどんな人でも、自分に合う人と合わない人がいるものです。おそらくパウロにとってもそうであったに違いありません。けれども彼は、自分の思いを優先させるようなことはしませんでした。あくまでもキリストを通して見ていたのです。キリストにあって、主にあって見るとき、たとえ自分に合わないような人であってもその人もまた主にある同労者であり、主にあって選ばれた聖徒たちであると意識していたのです。だからこそ彼は、そういう人たちを用いて、そういう人たちといっしょに労することができたのです。
皆さん、ここに多くの聖徒たちの名前が列挙されているのは、そのことを私たちに教えるためだったのです。つまり神様の働きは決して一人でできるものではないということです。使徒パウロとてそうでした。皆さんはパウロに対してどのような印象を持っているでしょうか?とても強靱で、ただイエス様のためだけに生きる、ひたむきな人というイメージがありますか?数百人かかってもやり遂げられないようなことを、一人で成し遂げたスーパースターという印象でしょうか?アジアとヨーロッパを回りながら、教会のない所に教会を建て、悪魔が支配する所に十字架の旗を立てていく、神様が願うとおりに用いられた英雄というイメージでしょうか?
しかし、このところを見ると、彼があれほど多くのことを成し遂げられたのは、こうした人たちの助けがあったからなのです。ここには少なくとも28人の人たちの名前が出てきます。ローマ教会に書き送った手紙の中だけで記録する必要のあった人だけでそんなにいたのですから、彼の生涯において彼と関わった同労者たちの数は、どれほど多くいたかわかりません。パウロの働きは彼一人の力によって行われていたのではなく、その陰にいた多くの同労者たちの助けによって支えられていたのです。いわば彼らとともに働くチームミニストリーであったということです。このように教会が一つのチームとして機能して働くと、一人でなし得る何倍もの働きができるのです。
使徒の働き6章4節を見ると、エルサレム教会にやもめの配給のことで問題が起こったとき、使徒たちは兄弟たちの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い七人の人を選び、その人たちにこの問題にあたってもらうことにし、彼らは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励んだとあります。これは祈りとみことばだけすればいいということではなく、使徒たちは祈りとみことばに力を使えるように、残りのすべての教会の仕事は他の人にゆだねてやってもらうということです。やらないということではなく、他の人を用いて、ほかの人といっしょに働くということなのです。そのとき何倍もの力となって現れるからです。事実、教会がそのようにみんなで一緒に働いたことで、エルサレム教会は弟子の数が非常に増えていっただけでなく、何と多くのユダヤ教の祭司までもが信仰に入ったのです。(同6:7)
伝道者の書4章9節に「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」とあります。また、続く12節には、「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一番強い糸とはどんな糸なのでしょうか。一番強い糸とは太い糸ではなく、三つ撚りのひもなのです。牧師が信徒と一緒になってより糸のようになって伝道すると、本当に強い力、大きな力になるのです。
皆が皆、牧師にならなければならないということはありません。皆が皆、神学校に行って学ばなければならないということもないのです。しかし、皆が皆、隣人を助ける同労者にならなければなりません。信徒として立派に神様の働きをすることができるのです。神様はそのような献身者を求めておられます。いわゆる信徒のリーダー、レイマンと呼ばれる人たちが起こされることを願っておられるのです。牧師が忠実に主に仕えることは当然のことですが、こうした信徒のリーダーが同労者として神様の前に忠実に使えるとき、教会は多くの祝福をいただき、力強く前進していくのです。
パウロはそうした一人一人の主にある同労者たちを覚えて「彼らによろしく」と言っています。この「よろしく」というのは単なるあいさつではないのです。これは「彼らの労苦を認め、心から尊敬しなさい」ということです。主に仕えるこには多くの労苦が伴いますが、そこにはこうした報いも約束されているのです。どうかそれぞれが神様から与えられた使命を果たし、主に用いられる偉大な同労者となりますように。そして皆さんがだれかの胸に、忘れられない恵みを与えてくれた人として刻まれますように。いや、誰よりも主のお心に、その名前が忘れられ刻まれる人になりますようにお祈りします。