ローマ人への手紙16章17~27節 「勝利の神」

これまでずっとローマ人への手紙から学んできましたが、きょうはこのローマ書の最後となります。この箇所から「勝利の神」というタイトルでお話したいと思います。

私たちの信仰生活を自動車の管理の仕方にたとえると、そこには二つのタイプがあることに気付きます。一つは整備型で、もう一つは修理型です。整備型の人というのは車が故障したり、何かがある前に常に車を整備しておきますので、ほとんど故障することがなく安定したカーライフを送ることができますが、修理型の人は違います。修理型の人は、どちらかというと、何かがあるまで対応しようとしません。たとえば、雪が降るまでタイヤを交換しないとか、車が故障するまで整備しないといった具合にです。壊れてから考えればいいと思うので、重大な時に車が動かなくなったり、故障したりして、大変な思いをすることが多いのです。皆さんは、どちらのタイプでしょうか。何かが起こる前に常に祈りとみことばによってしっかりと武装しているタイプですか。それとも何かが起こるまで、ボーとしているタイプでしょうか。一見、熱心に信仰生活を送っているように見える人でも、実は修理型である場合があります。そういう人は「神様助けてください」と祈ってはいるのですが、実際にはみことばに従って生きるよりも自分の思いを優先しているので、何かあるとパニックに陥ってしまったり、問題が起こると神様に叫び求めるのですが、解決したとたんに祈ることを止めてしまうのです。いつまでもこのような信仰のパターンを繰り返しているために、すべてが後手後手に回ってしまうのです。しかし整備型の人は違います。試みが来る前に祈り、みことばで武装しますから、行く先々で神の力によって勝利できるのです。完全にというわけではありませんが、基本的にそのようなパターンに従っているので、いろいろな試みの中にも感謝の生活を送ることができるのです。いったいどうしたら整備型の信仰生活を送ることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、分裂とつまずきを引き起こす人たちに警戒することです。善にはさとく、悪にはうとくなければなりません。第二のことは、勝利の神にゆだねることです。第三のことは、偉大な福音の力に生きることです。

Ⅰ.善にはさとく、悪にはうとく(17-19)

まず17-19節をご覧ください。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」

パウロは16節までのところで親しい人たちにあいさつを送り、言いたいことは全部終わりました。けれどもこのようにあいさつをしてみると、心の中に一つの思いが浮かんできたのです。それが17節以下のみことばです。それはこのローマ教会の中に誤った教えを伝える者たちがいたということです。つまりこの教会の中に、異端者の群れが入り込んでいたということです。

ガラテヤ人への手紙1章6-8節を見ると、パウロは他のところではずいぶん寛容なのに、このように福音をねじ曲げる人たちに対しては、断固とした態度を取っていることが分かります。パウロはここで、

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」

と言っています。パウロはここでそのような教えを「ほかの福音」と呼んでいます。ほかの福音とはいっても、もう一つ別の福音があるわけではありません。福音のような装いはしているけれども本当の福音とは違う教えのことです。よく話を聞いていると、聖書が言っていることとは微妙に違ったことを教えていたり、あからさまに福音を否定するようなことを言ったりする人がいるのです。最近、 ある人が、日本に3大神社の出雲神社がありますが、その3大大社のうち出雲大社が父なる神、日吉大社が子なる神イエス、春日大社が聖霊を象徴しているという人の話を聞いて、頭が混乱してきたと言いました。そんなことを唱える人もねいるんです。聖書のことがよく知らない人がそういう話を聞くと、「えっ、そ~なんだ。かっこいい」なんて思う人もいるのですが、それは明らかに聖書が言っていることとは違います。日本の神道がユダヤ教の影響を受けているという一つの学説を拡大解釈してそのように言う人たちがいるのですが、これは全く福音ではないのです。まあ、そこまではあからさまに福音を否定しなくても、福音のような内容でも、実はそうでない場合があるのです。そのような違いは小さなもののようですが、やがて大きな違いに発展することがありますから注意が必要です。パウロはそのように誤った福音を宣べ伝える人たちがいるとしたら、そういう人はのろわれるべきだと言っているのです。なぜパウロはそこまで厳しく言っているのでしょうか。それは福音を間違って伝えることで、その誤った教えが一人や二人のクリスチャンを倒すだけでなく、神の教会全体を根底から揺さぶることになるからです。それゆえに本当に教会にとって恐ろしいことは何かというと、外側からの迫害ではなく、教会の中に広がる異端的な教えなのです。迫害があると、不思議なことに教会は燃えます。しかし異端の教えが内部に広がると、教会は病んで倒れてしまうのです。それは収穫の時に現れるいなごの群れのようです。一年間しっかりと農作業をやってきたのに、突然いなごの群れがやってきて、すべての穀物を食い尽くしてしまうように、汗と涙を流して伝えた神のみことばを全部揺さぶってきて、神の民を悪魔のしもべに変えてしまうのです。これがみことばをねじ曲げて伝える異端のやっていることです。

18節を見ると、そんな彼らの特徴が記されてあります。「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」そういう人たちはイエス様に仕えないで、自分の欲に仕えています。これはもともとのことばでは「自分の腹」と訳されたことばですが、キリストの十字架に従うのではなく、自分の欲望と自分の考えに従って歩んでいる人たちのことです。これが福音だと言いながら、福音をねじ曲げて伝えていたのです。しかも彼らはなめらかなことばやへつらいのことばをもって接してくるので、それが異端であるかどうかを判別するのが難しいのです。あのグリム童話にある「狼と七匹の子山羊」に出てくる狼のように、小麦粉を足に塗りたぐって近づいて来るので、油断してドアを開けてしまうのです。

先日、韓国の宣教師が来られて聞いた話ですが、最近韓国ではこのような異端が多いそうです。彼らは真面目な信徒を装って教会に入り込み、熱心に学び、奉仕して、役員にまでなるのですが、役員になったとたんに他の信徒たちを引き連れて教会を出て行くというのです。彼らはなめらかなことば、へつらいのことばをもって、純朴な人たちの心をだましているのです。

では、どうしたらいいのでしょうか。17節のところをみるとパウロは、こういう人たちを警戒して、彼らから遠ざかりなさい、と勧めています。パウロはここで決して「戦いなさい」とか「対処しなさい」とは言わないで、警戒して、遠ざかるようにと勧めています。これはいかにも消極的な対処法であるかのように見えますが、こうした異端に対して聖書が一貫して教えていることは遠ざかることなのです。たとえば、ヨハネ第二の手紙1章10-11節には、

「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」

とあります。ですから、私たちは異端を教える人たちから遠ざかることが賢明なのです。そうでないと間違った教えを持っている人たちは、極めて巧妙に私たちを自分の側に引き入れようとするからです。よく私たちのところにもこういう人たとがやってきます。彼らはクリスチャンを狙っているのです。クリスチャンはある程度聖書のことがわかっているので、こういう人たちを攻撃した方が手っ取り早いと考えるのです。またクリスチャンも人がいいので、このような人たちをむげに断って話を聞かなかったら悪いのではないかと思うのです。ですから、ついつい話を聞いてしまう。しかしこういう人たち悪魔の手下どもですから、悪魔と全く同じように巧妙な手口で襲いかかってきます。接しているうちに「なんだ随分優しくて親切じゃないか。クリスチャンよりも親切だな。」と思ううちに、いつしか相手のペースになってしまうのです。そうした人たちに対して最もよい対策は何かというと、彼らを警戒し、彼らから遠ざかることなのです。

パウロは19節のところで、「あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」と言っています。従順であるだけでは危険です。私たちはこの世の中で信仰者としてしっかりとと立っていくためには、「善にはさとく、悪にはうとく」なければなりません。何が善であり、何が悪であるのかを見分ける知恵を持つとともに、悪に対して簡単に汚されてしまうことがないように、よくよく警戒していなければならないのです。

Ⅱ.勝利の神にゆだねて(20)

第二のことは、勝利の神にゆだねることです。20節をご覧ください。ここには、

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」

とあります。17-19節においては、人が注意すべきことについて教えられていますが、ここでは、それと同時に神の助けが必要であることが述べられています。神の助けがなければ、私たちは悪魔に勝利することはできません。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」という表現は、創世記3章15節にもありますが、異端の元祖とも言うべきサタンに対する神の究極的な勝利が実現するという意味です。イエス様は十字架と復活によって敵であるサタンの頭を踏み砕き、決定的な勝利を宣言してくださいました。しかし、最終的にはイエス様が再臨する時にそれが完成するのです。ですからここで「すみやかに」と言われているのです。パウロは、終末的な神の勝利が「すみやか」に来ると信じていました。

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」(Ⅱテサロニケ1:8-10)

パウロは、ここに希望を持っていたのです。皆さん、確かに主は来られるのです。その時が近づいています。これこそ私たちの真の希望なのです。この希望を握りしめている時、私たちは主の御名を喜び、叫び、賛美をささげることができるのです。この世にある矛盾と葛藤は、人間的な手段と方法によっては解決できるものではありません。しかし、主イエスが再臨するとき、それらすべての不条理としいたげとが正しくさばかれることによって明らかにされます。クリスチャンにとっての最高の使命は、日々、目を覚まして、この再臨の主を待ち望むところにあります。日々の生活において不義なことや傷つくことがあっても、落胆したり絶望したりせずに、主がすべてのことを正しくさばいてくださると、信仰をもって待ち望むところにあるのです。それこそ確かな希望であり、解決なのです。私たちに必要なのはこの世の不条理に対してあくせくすることではなく、サタンを踏み砕く勝利の主にゆだねることです。

Ⅲ.福音に生きる(25-27)

第三のことは、福音に生きることです。25-27節をご覧ください。パウロはこの手紙の最後のところで、「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」と言って、この手紙を結んでいます。                   これは頌栄です。頌栄というのは、神の栄光をほめたたえることですが、このローマ人への手紙のしめくくりとしての頌栄は、内容が盛りだくさんで、あまりにも長たらしいので、その意味があまりハッキリしません。いったいパウロはここで何を言いたいのかというと、27節にあるように、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえにありますように。」ということです。ではこの知恵に富む唯一の神とはどのようなお方なのかというと、その前の26節に書かれてあるように、「あなたがたを堅く立たせることができる方」です。ではどのように堅く立たせることができるのかというと、またまたその前に書かれてあるように、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、です。すなわち、私の福音とイエス・キリストの宣教によってであります。パウロは、自分に示され、自分が宣べ伝えた福音こそまことの福音であるという確信を持っていました。この福音によってです。ですからここでパウロが言いたかったことはどういうことかというと、パウロが宣べ伝えていた福音によってあなたがたを堅く立たせることのできる知恵に富む唯一の神に、栄光がとこしえにありますように、ということになるわけです。

福音こそ私たちを信仰に堅く立たせてくださるものです。パウロは、この手紙の最初のところで次のように宣言しました。1章16節です。

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

皆さん、福音は力です。単なる概念ではありません。それは、救いを得させる神の力なのです。たとえ私たちの周りが偶像で溢れ、神の教えをねじ曲げるような人たちがいて、福音に似てはいるようでもその実は全く違ったことを教える人たちがいたとしても、あるいはそのことによって教会が、社会がどんなに枯れた骨のような状況であても、福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。それは二千年前に伝えられた昔話ではなく、今も生きて働き、私たちのたましいを変え、人生を変える力なのです。

皆さんは「バウンティ号」という船をご存知じですか。この船は1787年にイギリス政府が南洋諸島の一つであるタヒチという島にパンの木の栽培のために100人ほどの人たちを送り込んだのですが、その際に乗り込んだ船の名前です。  その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはみな魅力的でした。しかし、彼らは次第に堕落してしまい、本国からの命令を無視するようになり、口やかましい船長に反抗して、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのです。  その後彼らは本国から逮捕させるのを恐れ、ピトケアン(Pitcairn)という島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶ生活を始めました。そうなると彼らの間でけんかが絶えなくなりました。特に熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのけんかがひどくなり、殺し合いまでするようになりました。そして最後にたった一人ジョン・アダムズという人だけが残されたのです。すべての西洋人がいなくなり、多くの混血の子どもだけが生まれ育つようになりました。 しかし、それから30年後、そこを通りかかったアメリカの船がその島に上陸してみると、驚くべき光景を目にしたのです。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。いったい何があったのでしょうか。  仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに多くの人を殺して生き残ったジョンは、難破した「バウンティ号」に戻ってみると、そこに一冊の聖書を見つけたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引きつけられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改めが起こったのです。彼は神の人に変えられました。その後聖霊の導きによって、その島の子どもたちに字を教え、神のみことばである聖書を教えたのです。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島はパラダイスになったのです。これは福音の力、一冊の聖書の力によるものでした。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

神のことばは生きていて力があります。この神のことば、福音によって私たちは救われ、変えられ、信仰に堅く立つことができるのです。そして、あらゆるサタンの攻撃に打ち勝つことができるのです。今、私たちに求められていることは、この福音に生きることです。パウロはローマ人への手紙8章35節で、次のように問いかけています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」この問いに対する答えはこうです。続く37節でパウロは次のように言っています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」もし私たちが自分の人生を御手にゆだね、復活の力に信頼するなら、何が起こっても途方に暮れることはありません。どんなことがあっても、私たちがそれに飲み込まれたり、滅ぼされてしまうことはないのです。圧倒的な勝利者になるのです。これが復活の力であり、福音のメッセージです。

皆さんはどうでしょう。何に頼って生きていますか。自分の考えや自分の努力でしょうか。それも大切です。しかし、それだけでは私たちは折れてしまうことがあるのです。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストに信頼して生きることによってのみ、私たちはあらゆる困難を乗り越えることができるのです。

1968年に、ある科学者がインディアンの墓で、600年前に作られたと思われる、種でできた首飾りを発見しました。その科学者がその種の一つを取って植えたところ、何と芽を出して成長を始めたのです。600年間も休眠状態であったはずのその種には生命力が宿っていたのです。大切なのはその種を植えることです。あなたの心に福音の種を植えるなら、どんなに休眠状態にあろうとも、あなたも芽を出し、成長し、豊かな人生の実を結ぶことができるのです。この種には驚くべき偉大な神の力が宿っているからです。さあ、この福音の種をあなたの心に、また私たちの住んでいる社会に植えましょう。そうすればあなたの人生に全能の神が働いて、偉大な御業を成してくださるのです。