レビ記13章29~59節

前回は13章1節から28節までのところから、人にツァラアトの患部が現れた時はどうしたらよいかを学びました。今回はその続きです。

1.  頭と、ひげの疾患(29-37)

 まず29節から37節までをご覧ください。男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、祭司はその幹部を調べます。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言します。これはかいせんで、頭またはひげのツァラアトです。「かいせん」とは、菌によって頭皮が犯される病で、辞書には黄癬(おうせん)という、とあります。黄色いかさぶたを形成する皮膚病ではないか、と考えられています。このような症状が見られる時には、祭司がそれを調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患部を七日間隔離します。これは他の症状が見られた時と同じですね。少し様子をみるわけです。 七日目になって祭司が患部を調べ、もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、その人は毛をそり落とします。ただし、そのかいせんをそり落としてはなりません。祭司はそのかいせんの患部をさらに七日間隔離して、七日目に祭司がまたそのかいせんを調べます。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言します。彼は自分の衣服を洗います。彼はきよいのです。
しかし、彼がきよいと宣言されて後にも、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、祭司は彼を調べ、もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はありません。彼は汚れているのです。もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言します。

 これまでのツァラアトの症状と違うのは、7日目になって祭司が患部を調べ、症状が広がっていなくても、きよいと宣言しないで、頭をそって、さらに7日間隔離することです。さらに7日間隔離したあとで、きよいか汚れているかを見極めて宣言するのです。このように、頭の部分、あるいはひげの部分には、合計14日の隔離期間を設けています。

 これはいったいなぜでしょうか。頭もひげも、髪の毛で隠れているからです。そのため、そこにツァラアトがあるかどうかを見極めることが難しいのです。つまり、隠れたところにあるツァラアトを調べるのには、二倍の期間を要するということです。したがって、ここから教えられることは、私たちがなかなか見分けの付かない、隠れたところで罪が広がることがある、ということです。

 例えば、エペソ4章25節から32節までのところを見ると、「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語る」こと(25)、「怒っても、罪を犯してはならない」こと(26)、「盗んではいけない」(28)とあります。こうしたことは明らかな罪なので捨てなければならないことがわかります。しかし、その後に出てくる事柄はどうでしょう。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(29)、「無慈悲、憤り、怒り、そしりなど、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(31)。こうした罪はなかなか見分けがつきまません。悪いことばを発したからといって警察に捕まるわけではありませんし、人の悪口やうわさ話をしたからといって偽証罪で訴えられるわけではありません。しかし、聖書ではそうしたことは暗やみのわざであり、キリストの贖いによって救われたクリスチャンにとってふさわしくない罪であるとはっきりと告げています。(Iテモテ5:13,ヤコブ4:11)ですから、私たちは隠れたところ、心の中のことは、もっと気をつけなければなりません。私たちの心を探り極める方は、こうした小さな罪さえも見逃すことはないからです。ですから私たちは、信仰によって歩んでいるのか、また私たちの奉仕はキリストの愛によって駆り立てられているのか、といったことをしっかりと調べなければならないのです。

 2.「汚れている、汚れている」(38-46)

 次に38節から46節までのところをご覧ください。ここには、男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、祭司はこれを調べる、とあります。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹で、彼はきよいのです。

 39節には「皮膚に出てきた湿疹」とありますが、これは、「尋常性白斑(じんじょうせいはくはん、:vitiligo vulgaris)」といって、皮膚色素をつくる部位の損失を不規則に引き起こす、慢性的な皮膚疾患のことではないかと考えられています。日本ではシロナマズとも呼ばれ、治りにくい皮膚病のひとつとされています。これは、ツァラアトとはことなる、単なる皮膚の変色であるから、問題ありません。きよい、と宣言されます。

 次に、男の人の頭の毛が抜けることについて言及されています。「男の頭の毛が抜けても、それはただのはげであって、彼はきよい。もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげです。彼はきよい。もしその頭のはげか、額のはげに、赤みがかかった白の患部があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに出て来たツァラアトである。」(40-42)毛が抜けているだけでは、らい病であるとは限りません。特に、男の頭のはげは、自然の成り行きであって、汚れているわけではないのです。

 けれども、次の場合は違います。すなわち、もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような赤みがかった白色である場合です。それはツァラアトであって、汚れているのです。たとえ隠れていなくても、「はげなんだから」と言って、かえって見過ごされてしまいがちですが、そうした当たり前にしているところに、以外と罪が入り込んでくるのです。

 では、そのような場合はどうしたらいいのでしょうか。44節から46節までのところにこうあります。「祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」

 ツァラアトの人は、人々が自分に近づいてくるとき、必死に、「汚れている!汚れている!」と叫ばなければなりませんでした。決して自分にさわってはいけないという信号を、人々に送らなければならなかったのです。そればかりではありません。さらに、彼は、イスラエルの民が住む宿営からも離れなければなりませんでした。なぜなら、前回学んだように、このツァラートは罪を表しているからです。宿営には聖所があり、そこには聖なる神がおられます。その中に汚れを持って行くことは、決してできなかったからです。

 このことから、罪とはどのようなものかがわかります。すなわち、罪とは神と人とを切り離し、また他のクリスチャンと切り離す、ものであるということです。罪がある者は、決して神のみもとに近づくことはできませんし、その神を信じている人たちの交わりの中に入ることもできません。パウロはコリント人への手紙第一5章5節で、「このような者をサタンに引き渡したのです。」と言っています。罪を犯して悔い改めない兄弟は、交わりから追い出して、サタンに引き渡すべきだ、というのです。なぜでしょう。それは、彼を教会の交わりから閉め出すことによって、彼の肉が滅ぼされても、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。つまり、彼が教会にとって邪魔だからではなく、彼が救われるためにです。罪を犯している兄弟が、その罪によってどれほど悲しむべきことになるのかを、知らせるためなのです。「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」(ヤコブ5:16)とあるように、私たちは互いに自分の罪を言い表して、いやされるようにきよめられるように、祈らなければなりません。

 そして、何よりもそうした罪のために神に近づくことができない私たちのために、神の方から近づいてくださったことを覚えなければなりません。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、罪に汚れた私たちを許し、すべての悪からきよめるために、私たちのところに来てくださいました。

 マルコの福音書1章40節を開いてください。ここには、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ。お心一つで、あなたは私をきよくすることができます。」と言ったことが記されてあります。すると主は、深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」主は、汚れた私たちに触れてくださったのです。さらに、宿営の外まで離れてくださいました。それがエルサレムの外にあったゴルゴダです。そこで罪人としてさばかれ、十字架につけられて死んでくださったのです。私たちはツァラアトに冒されたような汚れた者ですが、イエス様はそのような者をきよめてくださいます。ですから、私たちにとって必要なことは、自分には罪がないというのではなく、互いに罪を言い表して、イエス様の血潮でその罪を洗い聖きよめていただくことなのです。

 3.  衣服にツァラアトの患部が生じたとき(47-59)

 最後に47節から59節までを見て終わりたいと思います。ここには、衣服にツァラアトの患部が生じたときはどうしたらよいかが教えられています。「衣服にツァラアトの患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、その患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどんな皮製品でも、それはツァラアトの患部である。それを祭司に見せる。祭司はその患部を調べる。そして、その患部のある物を七日間隔離する。七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のツァラアトで、それは汚れている。羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、その患部のある物は焼く。これは悪性のツァラアトであるから、火で焼かなければならない。」(47-52)

 今までは、人に付いていたツァラアトについて語られていましたが、今度は、衣服についているツァラアトについての言及です。緑がかっていたり、赤みを帯びたりしている、というのは、カビのことです。衣服にカビが生えたら、それはツァラアトです。そのツァラアトが広がっていれば、それがどのような種類の衣類であっても、火で焼かなければなりませんでした。たとえそれが高級な衣類でもです。

 そして、「もし、祭司が調べて、その患部がその衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離します。祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べ、もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れています。それは火で焼かなければなりません。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食です。」(53-55)

 頭のらい病のときと同じように、さらに7日間隔離します。頭の場合は毛をそりましたが、衣服の場合は、その衣服を洗います。そして、たとえそのカビが広がっていなくても、変わっていなければ火で焼かなければなりませんでした。これは、人に付いたツァラアトよりも厳しい措置です。続く56節から59節にはこうあります。

「祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現れたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もしその患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。」(56-58)

 きよい衣服というのは、その衣服を洗った後で患部(カビ)が完全に消えている場合だけでした。薄れているだけではダメです。また、再びそれが現れたらダメです。薄れている場合は、その部分だけをちぎり取らなければなりませんでしたし、再発した場合は、火で焼かなければなりませんでした。ただ洗って完全に消えていた場合だけがきよいとされたのです。

 いったいこれはどういう意味でしょうか?この衣服とは、私たちの行ないを表しています。たとえばエペソ4章22節~24節には、「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。ですから、患部のある衣服を身につけている人は古い人です。それは、イエス・キリストを自分の救い主として信じていない人のことです。真理に基づく義と聖とをもって神にかたどり造り出された人は、そうした古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけなければなりません。古いものは焼かれ、新しいものだけが残るからです。私たちに求められていることは、イエス・キリストという新しい衣服を着て、キリストに喜ばれる歩みをすることです。イエス・キリストの十字架の血潮によって私たちの罪が洗いきよめられたにもかかわらず、まだそれが薄くついているような衣服を着たり、再び過去の虚しい生き方に逆戻りしないように注意しなければなりません。そのためには、神のみこころは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、自分自身を神にささげ尽くさなければなりません。この世と調子を合わせてはいけません。自分の考えに執着してもなりません。ただへりくだって神のみこころに歩むこと、それが新しい衣服を着た人の姿なのです。