イザヤ書55章6~13節 「主を求めよ。お会いできる間に」

きょうは55章6節からのみことばから、「主を求めよ、お会いできる間に」というタイトルでお話したいと思います。この55章には、神からの招きが語られています。53章のところで主のしもべによる救いの御業が語られ、54章では、その救いの御業によってすばらしい祝福、天の御国がもたらされると約束されました。その救いへと招かれているのです。1節には、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」と勧められています。

そして、きょうのところにも、「主を呼び求めよ。お会いできる間に」と語られています。どんなに神が近くにおられても、その神を個人的に呼び求めることがなければ、その祝福を受けることができません。主の御業に対する最もふさわしい応答は、主を求めることなのです。きょうは、このことについて三つのことをお話たいと思います。

Ⅰ.豊かに赦してくださるから(6-7)

まず第一のことは、なぜ主を求めなければならないのかについてです。なぜなら、主は赦してくださるからです。6節と7節をご覧ください。「主を求めよ。お会いできる間に、近くおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」

1節には、「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のなす者も。」と驚くべき招きが語られていましたが、ここではさらに驚くべき招きが語られています。それは、主を求めるなら、たとえ悪者であっても、たとえ不法者であっても、赦してくださるということです。一般に「悪者」とか「不法者」というのは神から離れ、自分勝手な道を歩んでいるので、神から見離されても致し方ないように思いますが、神はそんな彼らの近くにおられ、あわれんでくださるのです。ですから、私たちはおのれの道を捨て、主を呼び求めなければなりません。

皆さんはいかがでしょうか。神の道ではなく己(おのれ)の道を歩んではいないでしょうか。神のはかりごと(計画)ではなく己のはかりごとにこだわってはいないでしょうか。イエス様を自分の救い主として信じても、まだ自分のやりたいようにやりたい、生きたいように生きたいという思いが強くないでしょうか。

イエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)自分の考えをしっかりと持っていることは大切なことですが、それがあまりにも強くなりすぎると、神のことばが聞けなくなってしまいます。ですから、自分を捨てなければなりません。自分の道ではなく神の道を求め、自分のはかりごとではなく神のはかりごとに歩むまなければならないのです。人の目には愚かに見えても、神のことばを聞き、その通りに歩むなら、神が祝福してくださるからです。

主に立ち帰りましょう。そうすれば、主はあわれんでくださいます。私たちの神に帰りましょう。そうすれば、豊かに赦してくださるのです。豊かにです。私たちの神は豊かに赦してくださる方なのです。私たちは、取り返しのつかないことをしてまったらもうだめだと思いがちです。決して赦されることはないと考えますが、そうではありません。たとえ赦されることがあったとしても、そう簡単なことではないでしょう。難行苦行をして、お布施をたくさんしなければ赦されないと考えますが、違うのです。私たちの神は赦しの神なのです。豊かに赦してくださる方なのです。神にとって赦せない罪など一つもありません。一つの例外を除いては・・。何でしょうか。それは聖霊を冒涜することです。人はどんな罪でも赦していただけますが、聖霊を冒涜する罪だけは赦されません。(マルコ3:28-29)。なぜなら、せっかく聖霊が聖書のみことばを通して罪を示し、その罪からの救いがイエスであるということを語っても、それを拒絶して受け入れなければ、救われる道はないからです。そのような人は永遠に赦されることはありません。しかし、それ以外の罪はどんな罪でも赦されます。イエス・キリストが十字架で贖ってくださいました。このイエスが赦せない罪など一つもないのです。あなたがイエスを自分の救い主として受け入れ信じたその瞬間に、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのです。それがどれほど大きな罪であっても、あなたのすべての罪は赦されるのです。

Iヨハネ1章9節を開いてみましょう。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」  これが神の約束です。もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。これは驚くべき恵みではないでしょうか。人知をはるかに越えた赦し、これが神の赦しなのです。もしあなたが主を求めるなら、自分の思い、自分の考え、自分の価値観、自分の計画、自分のはかりごとを捨て、主に立ち帰るなら、主はあなたをあわんでくださいます。豊かに赦してくださるのです。

しかし、ここには一つだけ条件があります。それは「お会いできる間に」です。また「近くにおられるうちに」です。つまり、期限が限られているのです。いつまでもお会いできるとは限りません。いつまでも近くにおられるわけではないのです。やがてお会いしたくてもお会いできなくなる時がやって来ます。やがて遠くに行ってしまわれる時がやって来るのです。その時になってからでは遅いのです。ですからお会いできる間に、近くにおられるうちに求めなければなりません。あなたはいかがでしょうか。もしあなたがまだイエス様を信じていないのなら、信じるのを遅らせてはなりません。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)今が信じるチャンスです。私たちがどんなに悪者でも、どんなに不法者でも、主は今、あなたの近くにおられます。ですから、その間に主を求めなければなりません。そのうちに、主を呼び求めなければならないのです。

Ⅱ.私たちよりも高い神の道、神の思い(8-9)

次に8~9節を見てください。いったいなぜそのようなことが言えるのでしょうか?なぜなら、神の道、神の思いは私たちとは異なり、はるかに高いからです。 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

確かに違います。私たちが考える赦しと神の赦しは全然違います。もう次元が違うんです。天が地よりも高いように、神の思いと私たちの思い、神の道と私たちの道は全く異なります。自分の考えと神の考えを比べてほしいと思います。そうすれば、全然違うことがわかるでしょう。そこには大きなギャップ(差)があります。なぜなら、私たちは神ではないからです。神は全知全能であられ、すべてを知っておられますが、私たちは有限であり、限られた知識しか持っていません。未来のことなど知る由もないのです。でも神は違います。神は過去も、現在も、未来もすべてを知っておられます。私たちは自分の人生は自分が一番よく知っていると思っていますが、実際はそうではありません。あなたのことを一番よく知っておられるのは神様なのです。なぜなら、神があなたを造られたからです。ですから、神はあなたの将来がどうなるのかも知っておられるのです。神はあなたが見えないものも見ておられ、知らないことも知っておられます。神は完全であられ、完全な計画を持っておられるのです。

であれば、神を信じて、すべてを神にゆだねて生きることこそ最も賢い選択だと言えるのではないでしょうか。あなたは自分で何でもわかっていると思っているかもしれませんが、限られた知識でしかないのです。自分ではベストだと思っているかもしれませんが、神はそれとは別の、全く違う計画を持っておられるのです。

かつてペルシャの王のもとにとついだエステルは、いったいなぜ自分が異国の王妃などにならなければならないのかさっぱりわかりませんでしたが、モルデカイのことでユダヤ人が絶滅の危機に陥ったとき、自分がこの国に来たのは、もしかするとこの時のためであるかもしれない。」(エステル記4:14)と悟ったように、神は完全な計画をもっておられるのです。  天が地よりも高いように、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。

であれば、自分であれこれと思い煩うのをやめて、すべてをこの神にゆだねて祈るべきではないでしょうか。イエス様はゲッセマネの園で、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られましたが、その祈りを私たちの祈りとしなければなりません。これがベストだからです。あなたの考えよりもはるかに高い神の偉大な計画が、あなたのために用意されているのです。この神の計画に信頼しなければなりません。神はあなたを愛して止まないので、あなたにとって最善の道を用意しておられます。なぜなら、神はあなたに一番大切なひとり子を与えてくださったからです。ですから、神の計画は最善であって、それ以下ではありません。その神の計画にすべてをゆだねなければなりません。イエスのように、みこころが天で行われるように、地でも行われますように。わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください、と祈らなければならないのです。

Ⅲ.神のことばはむなしく帰って来ない(10-13)

第三にその結果です。神を信じ、神にすべてをゆだねて生きるとき、どのようなことが起こるのでしょうか。それは神の祝福に満たされるということです。 10節と11節までをお読みします。 「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

ここでは、神のことばが雨や雪にたとえられています。雨や雪が天から降るともとに戻らず、必ず地を潤して、そこに物を生えさせるように、神のことばも決してむなしく帰ってくることはありません。イスラエルには滅多に雨が降りません。イスラエルには雨期と乾期があって、雨期は冬ですが、その雨期が終わると植物は一気に芽を出します。これまで荒野だったところが緑となり、美しい花を咲かせます。同じように、神のことばが語られると、それを聞いた人々の心がどんなにカラカラに渇いていても豊かに潤され、きれいな花を咲かせるようになるのです。これまでしおれていたような人も、不毛の状態にあった人も、緑豊かな心へと変えられるのです。これがクリスチャンの人生です。神のことばがその人の心に蒔かれると、その心は生き生きしてきます。物の考え方、価値観が変わり、言うことややることも変えられます。性格も習慣もすっかり変わるのです。それは神のことばにそのような力があるからです。

ヘブル4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。神のことばは生きていて、力があるので、人々にいのちを与えることができるのです。

1790年、イギリス政府が南洋群島の一つである、カイキというところにゴムの木の栽培のために人を100人ほど送ったことがあります。その船の名前は「バウンティ号」でした。  彼らがその島に到着すると、そこに熱帯植物のズースで作った酒を飲むようになりました。彼らの生活はしだいに堕落し、彼らの間での喧嘩がひどくなり、殺し合いが繰り返されました。そして最後にたった一人残ったのが、ジョン・アダムズという人でした。そこには西洋人はだれ一人いなくなり、多くの混血の子どもたちが生まれ育つようになりました。  それから30年が経った頃、そこを通りかかったアメリカの船が島に上陸すると、乗船していた人たちは、目の前の光景に驚かされました。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父のような存在でもありました。彼を慕っていた青年たちはみな、黒人でも白人でもない混血児たちでした。この老人は、その島に何が起こったのかを目を輝かせながら説明してくれました。  仲間たちが、むなしい争いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに人を殺し、一人だけ生き残ったジョンは、破船した「バウンティ号」に戻ってみました。するとそこに一冊の聖書を見つけたのです。そしてその聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改めが起こったのです。彼は神の人になりました。  その後聖霊の導きによって、子供たちを集めて時を教え、神のみことばである聖書を教えたのです。ジュウミンたちも彼を尊敬し、彼を王にし、彼に従いました。そしてその島は、まことのパラダイスになったのです。これは、ひとえに一冊の聖書の力によるものでした。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。そのみことばが語られると、それは決してむなしく帰ってくることはありません。必ず、神の望む事を成し遂げ、神が言い送った事を成功させるのです。

とは言っても、クリスチャンじゃない人に神のことばを語っても、ウンともツンとも言わないじゃないですか。一生懸命伝道しても、相手からいい反応が返ってきたりしません。信仰とか、霊的なことに全く関心を示してくれません。神とか、キリストといったことに何の興味もないのです。話しても無駄です。効果がありません。そう思うかもしれません。しかし、あきらめてはいけません。がっかりしないでください。神のことばは決してむなしく帰ってくることはないからです。必ず、ご自身の望む事を成し遂げ、言い送った事を成功させてくださいます。人を救うのは神の働きであって、私たちのテクニックとは全く関係がないからです。神のことばが語られると、そのみことばが生きて働いて、その人を神の人へと変えてくださるのです。

その祝福がどれほどすばらしいものなのかが12節と13節にありますので、ご一緒に読みたいと思います。 「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

これが神のあなたに対する約束です。あなたの心に神のことばが蒔かれると、あなたは喜びをもって出て行くようになります。安らかに導かれて行きます。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らします。人間ばかりではありません。山や丘も、野の木々も、主を賛美するようになるのです。なぜなら、イエス様によって罪が贖われるからです。イエス様によって罪が贖われると、罪に汚染されていた人間だけでなく、そうした自然界も贖われるのです。

その様子が13節にあります。「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。」「いばら」と「おどろ」は、のろいの象徴です。そのいばらとおどろが全部取り除かれてもみの木やミルトスになるのです。もみの木は皆さんもよくご存じだと思います。一年中緑で、生き生きしています。クリスマスツリーにもみの木が使われるのは、いのちの象徴である緑が絶えることなく、満ち溢れているからです。ミルトスの木はあまり見たことがないかと思います。ミルトスは、日本名ではギンバイカ(銀梅花)、英語ではマートルというそうですが、これも常緑樹で、春先になるとその名のとおり梅に似た白く輝く花を咲かせます。花言葉は「愛のささやき」です。この葉や実は強い香を放ち、入浴剤や鎮痛剤にも使われ、枝木は生垣にも使われるそうです。つまり、いつもいのちがみなぎっているということです。その祝福のシンボルがもみの木であり、ミルトスです。それが主の記念樹となり、絶えることのない永遠のしるしとなるのです。

荒廃しきったイスラエルが緑地化されて、絶えることのない緑で覆われるように、あなたが神を求め、神に立ち返るなら、主はあなたをあわれんでくださり、あなたの人生を祝福で満たしてくださいます。私たちは祝福される存在として、ここに置かれているのです。イエス・キリストを信じることによっていばらがもみの木に、おどろがミルトスに変えられます。のろいが祝福に変えられるのです。過去の過ちも、過去の失敗も、イエス様を信じることによってすべてが益に変えられるのです。なんとすばらしい約束でしょうか。これが良い知らせ、福音です。    今、あなたもイエスを信じるなら、この祝福があなたのものになるのです。今、聖霊の導きに素直に応答するなら、あなたもこの祝福の人生を歩むことができるのです。しかし、それはいつまでもということではありません。主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに、求めなければなりません。今晩、あなたがどのようになるかだれにもわかりません。来週まで、あなたがどのようになっているかなんてわからないのです。ですからお会いできる間に、どうか主を求めてください。近くにおられるうちに、主を呼び求めてください。そうすれば、主はあなたをあわれみ、豊かに赦してくださいます。そして、その人生と祝福してくださいます。既にイエス様を信じているという人も、改めて、イエスを主とするということがどういうことなのかを考えて、おのれの道を捨て、おのれのはかりごとを捨てて、主に立ち帰る者でありたいと思います。