「主を求めよ、お会いできる間に」 No.88
Ⅰ.豊かに赦してくださるから(6-7)
主のしもべの救いのみわざに対する応答としての招きが語られている。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(6)主のしもべによって成し遂げられた救いを受けたいと願うなら、いつも近くにおられるわけでもない。その期間は限られている。だから、お会いできる間に、近くにおられるうちに求めなければならない。そうすれば、主はあわれんでくださる。豊かに赦してくださるのである。私たちは、取り返しのつかない過ちを犯したら、それで人生が終わりだと考えるがそうではない。たとえ赦されたとしても、そう簡単に赦されるはずがないと思うがそうではない。神は豊かに赦してくださる。神にとって赦されない罪など一つもない。神を信じないということ以外には・・・。救い主イエスを信じるなら、どんな罪でも赦していただける。なぜなら、イエスはあなたのすべての罪を背負い十字架で死んでくださったからだ。だから、あなたがイエスを自分の人生の救い主として信じるなら、その瞬間に、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのである。
Ⅱ.私たちよりも高い神の道、神の思い(8-9)
いったいなぜそのようなことができるのだろうか?なぜなら、神の道、神の思いは私たちとは異なるからだ。天が地よりもはるかに高いように、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高い。そこには大きなギャップがある。私たちは有限であり、限られた知識しか持っていないが、神は全知全能であり、過去も、現在も、未来もすべて知っておられる。その神が、私たちの人生に完全な計画を持っておられるのだ。
であれば、この神を信じ、この神にすべてをゆだねることが最善である。私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると思っているが、実はそうではない。あなたのことを一番よく知っておられるのは神である。なぜなら、神があなたを造られたからだ。あなたの将来がどのようになるのかも含めて、神はあなたのすべてを知っておられるのである。だから、この神にあなたのすべてをゆだね、あなたの思いではなく神の思いに焦点を合わせ、あなたの道ではなく、神の道に歩まなければならない。
Ⅲ.神のことばはむなしく帰ってこない(10~13)
その結果が、雨や雪にたとえられている。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(10-11)神のことばが語られるとすべてが変わる。これまで砂漠のように荒涼としていた心が緑となり、美しい花を咲かせるようになる。その結果、「あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘とは、あなたがたの前で喜びの歓声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が、おどろの代わりにミルトスが生える。」(12-13)「もみの木」や「ミルトス」は常緑樹で、祝福の象徴である。のろいの象徴であるいばらやおどろの代わりに、もみの木やミルトスが生えるのである。イエス・キリストを信じることによってのろいが祝福に変えられる。過去の過ちも、過去の罪も、イエスを信じることによってすべてが益に変えられる。なんとすばらしい約束であろうか。この約束が私たちにも与えられている。あなたもこの祝福の人生を歩むことができる。
しかし、それはいつまでもということではない。主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに求めなければならない。今晩、あなたがどうなるかなどだれにもわからない。明日まで大丈夫であるとは限らない。だから、お会いできる間に、近くにおられるうちに、呼び求めなければならない。主を呼び求める者は、だれでも救われる。主があなたをあわれみ、豊かに赦してくださるからである。