きょうは、イザヤ書56章のみことばから「近づいている救い」というタイトルでお話したいと思います。このイザヤ書の56章には、主の救いを受けた人たちがどのように歩むべきかが語られています。主のしもべによって成された救いの御業、それに対する招きに応答して救われた人は、いったいどのように歩むべきなのでしょうか。それは一言で言うならば、主を待ち望んで生きるということです。
Ⅰ.公正を守り、正義を行え(1-2)
まず第一のことは、公正を守り、正義を行いなさいということです。1節と2節をご覧ください。1節にこうあります。「主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。」
公正とは何でしょうか。公正とは、神のみことばに従って正しい歩みをすることです。また、正義とは、神との正しい関係を持つことです。神はイスラエルに、公正を守り、正義を行えと言われました。なぜでしょうか。なぜなら、神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近いからです。再臨が近いからです。もし今晩イエス様がやって来られるとしたらどうでしょう。皆さんはそれにどのように備えられるでしょうか?おそらく家に帰って必死になって掃除をしてきれいにし、環境を整えて、身支度するのではないでしょうか。罪にまみえた生活も止めて、いつ主が来られてもいいように準備するのではないでしょうか。そのように、主がいつ来られてもいいように、主の救いを信じ、主の再臨に備えた生き方をするようにということです。
ローマ13章11~14節にこうあります。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」
パウロは、主の再臨が近づいていると感じていました。救いが完成する時が近づいていると思っていたのです。ですから、やみのわざを打ち捨てて、昼間らしい、正しい生き方をするようにと勧めました。今は、このパウロの時代よりももっと主が再臨される時が近づいています。ですから、もっと自分を清く保ち、昼間らしい、正しい生き方をしなければならないのです。
それは具体的にはどのような生き方なのでしょうか?2節をご覧ください。「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」
公正を守り、正義を行うことの一例として、ここには安息日を守ることが語られています。なぜ安息日なのでしょうか。それはイスラエルがバビロンに捕らえ移されたその理由の一つが、この安息日を守っていなかったことにあったからです。安息日とは金曜日の日没から土曜日の日没までのことですが、この日は主の聖なる全き休みの日として、いかなる仕事をすることも許されていませんでした。もしこの日に仕事をすれば、だれでも必ず殺されなければならなかったのです。それは神とイスラエルの間の永遠の契約であり、イスラエルが神の民であることの特別なしるしだったのです。(出エジプト31:13~17)ところが彼らはこの安息日を守りませんでした。それで神は彼らをバビロンへと捕らえ移されたのです(Ⅱ歴代誌36:21)。ですから、エルサレムに帰還することを約束されていたユダヤ人にとって安息日を守ることは、義を行うことの最優先事項の一つであったわけです。
では、このことは私たちクリスチャンにとってはどのようなことなのでしょうか。コロサイ2章16~17節を開いてください。ここには、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」
とあります。パウロは旧約聖書に精通していたユダヤ教の学者でしたが、そのパウロが、食べ物や飲み物、祭りや新月、安息日のことについて批評させてはならないと言っているのです。これはどういうことかというと、安息日を守るということについてその本質をしっかりと理解するようにということです。安息日の律法を守ればいいということではなく、その意味していることを守るようにということです。その本質とは何でしょうか。キリストです。安息日は影にすぎず、その本体はキリストにあるのです。この本体を見失うことがないようにと語っているのです。あまりにも安息日を守ることにこだわり、本来その意味していることを見失ってはならないのです。私たちがこだわらなければならないのは、私たちの主イエス・キリストそのものなのです。安息日にこだわっているのはちょうど影に対して語りかけるようなもので、本人が目の前にいるのにその本人に対してではなく影に対して一生懸命に語りかけるようなものなのです。それは偽りの教えであって、人々を信仰から遠ざける誤った教えです。そのような教えに惑わされてはなりません。もう本体であられるイエス・キリストが来られたからです。このイエス・キリストこそ安息日の主であって、律法そのものが目指していたものだったのです。ですから、いくら律法に熱心であってもそれがキリストからズレているなら、それは全くの的外れ、本末転倒になってしまいます。キリストこそ本体なのですから、キリストが願わんとすることを聞かなければなりません。ではこの安息日についてキリストが願っておられたことはどのようなことだったのでしょうか。
それは週に1日を主の日として聖別し、この日には一切の仕事を休み、主を覚えて礼拝するということです。それがこの日曜礼拝の目的です。皆さん、私たちはなぜ毎週日曜日に集まって礼拝をするのでしょうか。それは私たちの罪の贖うために十字架にかかって死なれ、三日目にふみがえられて救いの御業を完成してくださった主の恵みを覚え、この方を喜び、心からの感謝と賛美をささげるためです。自分ではどうすることもない罪の問題を、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださることによって成し遂げてくださいました。この主の救いを覚え、心からの感謝と礼拝をささげるのです。これが日曜礼拝の目的です。決して安息日を守らなくても言いということではありません。安息日の規定が目指していた目的を理解して、それを行うことです。それは、主に感謝と賛美をささげるためにこの世の一切の事柄から離れ、主に集中することです。それを何というかというと「聖別する」と言います。聖別するというのは、この日を主の日、主のものとして取っておくということです。私たちにとっては毎日が主の日であり、毎日が主のものでありますが、そのことの表明として、週に一日を主にささげるのです。このような生活のスタイルを確立することが、この安息日の目指していたそれが安息日の規定が本来目指していたことなのです。
皆さんはいかがでしょうか。皆さんを罪から救ってくださった主に感謝し、週に一日を主にささげ、主に感謝と賛美をささげておられるでしょうか。「いや、仕事が忙しくて礼拝に行けません」「授業のレポートを提出しなければならないんです」「家族の用事があって」と、日々の忙しさに流されてはいないでしょうか。しかし、この安息日を守り、私たちは主のものであるということを確認しながら主のもとにすべての重荷をおろすことによって私たちは真の安らぎを受け、肉体的にも、精神的にも、霊的にも力が与えられて、健康的に、エネルギッシュに生きることができるのです。それは主が定めてくださった祝福の原則なのです。やみくもに働けばいいというものではありません。六日間はしっかり働き1日は主の日として主にささげ、主を礼拝する。これが祝福された人生のために神が定めてくださった法則なのです。
リビングライフの中にマーバ・ドーンという人の書いた著書の話がありました。アメリカ西部開拓時代に、ある馬車の群れが、中部のセントルイスを発ってオレゴンに向かいました。一行は敬虔なクリスチャンだったので、聖日には移動を止めて休みました。もちろん、休んで礼拝したわけです。しかし、だんだん冬が近づいたので、一部の人たちは吹雪が来る前に目的地に到着できないかもしれないという不安から、安息日にも休まずに走り続けることを提案しました。 意見が一致しないまま、彼らは二つのチームに分かれて旅を続けることにしました。安息日にしっかりと休むチームと安息日にも走り続けるチームとにです。結果はどうなっでしょうか。言うまでもなく、安息日に休んだチームの方が早く目的地のオレゴンに到着したのです。安息日に休んで十分に休息を取ったので活力が与えられ、残りの六日間を力強く走り続けることができたのです。マーバ・ドーンは話の結論でこのように語りました。 「神はご自分の戒めを尊重する者を尊重される。」
これは今の時代を生きるクリスチャンに求められていることです。主はこう仰せられます。「公正を守り、正義を行え。」「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」神はこのような人を祝福してくださいます。主の救いが近い今、私たちはますます主のことばに従い、主が喜ばれる道を歩みたいと思います。
Ⅱ.すべての民の祈りの家(3-8)
次に3~8節までに注目してください。3節には、「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」とあります。
「外国人」とはユダヤ人以外の異邦人のこと、「宦官」とは男性の生殖器を切り落とされた人たちのことです。異邦人は、自分たちはイスラエルの祝福の外にいる者であり、イスラエルの祝福にはあずかれないと思っていましたが、神の祝福はイスラエルだけでなく異邦人にも及ぶので、主につらなる外国人は、「主はきっと、私をその民から切り離される」と言ってはならないのです。また、宦官も生殖器を切り取られていますから子孫を残すことはできないと思っていました。申命記23章1節をみると、そのように生殖器を切り取られた者は「主の集会に加わってはならない」とあります。まさに枯れ木扱いです。人間として全く価値がないと思われていました。しかし、そんな宦官も「ああ、私は枯れ木だ」と言ってはならないのです。なぜなら、4節と5節にあるように、「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。」からです。これはどういうことかというと、イスラエルと同じ恵みが与えられるということです。なぜなら、やがて来られる救い主が隔ての壁を取り除いてくださるからです。
エペソ2章11~16節のところに次のようにあります。 「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」
異邦人(宦官)は、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあっては何の望みもない者たちでしたが、そんな者でもキリスト・イエスの中にあることによって、神に近い者となりました。なぜなら、キリストが十字架にかかって、ご自分の肉において、敵意を廃棄してくださったからです。敵意は十字架によって葬り去られたのです。
それは主に連なる外国人も同じです。6節と7節にあるように、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人もみな、安息日を守ってこれを汚さず、神の契約を堅く保つなら、主は彼らを、主の聖なる山に連れて行き、神の家で彼らを楽しませてくださいます。この「わたしの聖なる山」とか、「わたしの祈りの家」というのはエルサレムの神殿のことです。そこに連れて行って、楽しませてくださるというのです。これは神殿のことを知っている人にとっては本当に驚くべき預言です。というのは、外庭には異邦人を含む誰でも入ることができましたが、神殿(聖所)の中には外国人は入ることができなかったからです。しかし神の国においてはそうではありません。異邦人もユダヤ人と同じように聖所に入って祈ることができます。いや、神殿の内側である至聖所に入って、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。全焼のいけにえや他のいけにえをささげることができるのです。これまでは大祭司が年に一度しか入ることが許されていなかった主の御座に入って行くことができるのです。何という特権でしょうか。それは7節の最後のところにあるように、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」それはユダヤ人ばかりのものではありません。キリストを信じるすべての人にとっての祈りの家だからです。全世界の人が神を礼拝することができます。異邦人も、宦官も、これまで神から遠く離れていた人も、だれでもイエスを信じるなら、この神殿に入って、いつでも礼拝することができるのです。
というのは、イエス・キリストこそ真の神殿であられるからです。イエスは、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)と言われました。その神殿とは何のことを言っていたのかというと、イエスのからだのことでした。神殿とは神と人が出会う所です。その出会いを真に提供できるのは私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリスト以外にはいません。イエスのからだという神殿において、すべての人が神と出会い、神を礼拝することができるのです。神の祝福にあずかることができるのです。
そればかりではありません。イエスを信じる者のからだは、神から受けた聖霊の宮であると言われています。(Ⅰコリント6:19)ということは、私たち自身が神殿となって、いつでも、どこでも、神を礼拝できるのです。わざわざエルサレムの神殿に行かなくても大丈夫です。立派なサンピエトロ寺院に行かなくてもいいんです。いつでも、どこでも、大胆に神のもとに出ていき、ひれ伏して礼拝をささげ、その恩恵に与ることができるのです。だれでも・・・。
ところで、この「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」ということばを引用して、イエスは宮きよめをされました。(マタイ21:13)「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」と。そして、イエスは宮の中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたのです。いったいどうしてそのようなことをされたのでしょうか?本来、神殿は祈りの家でなければならないのに、そのようなところで宗教ビジネスが行われていたからです。すべての民が神を礼拝して、神を喜ぶ所なのに、それを強盗の巣にしていた。イエス様はそのことに対して激しく怒られたのです。
私たちはどうでしょうか。私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であって、それは祈りの家でなければなりません。なのにそのからだを強盗の巣にしているということはないでしょうか?神の栄光のためではなく、自分の満足のために使ってはいないでしょうか。
8節をご覧ください。主はこう言われます。「わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」すでに集められた者たちとはユダヤ人のことです。さらに集めて加えるとは、異邦人のことですね。この世の終わりの日には、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく主の祝福にあずかれるようになります。もうその日が来ています。異邦人であった私たちもイエスの血によって神に近い者とされました。神から受けた聖霊の宮となりました。この恵みを覚えて、私たちのからだがすべての民の祈りの家と呼ばれるようになりたいと思います。
Ⅲ.神を侮ってはならない(9-12)
第三のことは、神を侮ってはならないということです。9節から終わりまでのところです。9節には、「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。」とあります。
「獣」とは、神のさばきのために用いられる象徴です。たとえば、バビロンはそうです。バビロンは獣のように神の民であるイスラエルを食らいます。そうした野のすべての獣に対して、食べに来るようにというのです。どうしてでしょうか。10節をご覧ください。「見張り人はみな目が見えず、知ることがない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。」
見張り人とは、城壁の上に立って見張っている人たちのことです。もし敵がやって来たらそのことをいち早く伝えます。しかし、その見張り人であるはずの者がみな目が見えず、知ることがないのです。自分たちの民がどのような状態になつているのかを見張るべきはずの指導者たちが、今起ころうとしていることに全く気付いていないのです。
それはまさに口のきけない犬のようです。あえいで、横になり、眠りをむさぼっています。敵がやって来てもほえることをせず、フ~ンなんてつぶやいて眠りこけるわけです。番犬が番犬の役割を全くはたしません。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分勝手な道に向かい、自分の利得に向かって行くのです。 そしてこのように言うわけです。12節です。「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」 どうせ明日もきょうと同じだ。いや、もっとすばらしいかもしれない。だから、いっしょに酒でも飲もう。強い酒を、浴びるほど・・・。つまり、彼らは自分たちに迫り来る神のさばきを全く気にしないのです。罪を犯したって心配いらいない。心配したとこで何にも変わらないんだから。人生楽しく行こうゼ!おもしろおかしく行こうじゃないか。あなたのやりたいようにするのが一番いい。そう言って全く態度を改めようとせず、進んでいる方向も変えようとしないのです。もしそのようにのんきに構えていることがあれば、野の獣がやって来て、あなたを食べに来るのです。イスラエルがバビロンに滅ぼされたように。だから、もし公義を守り、正義を行っていないと気付いたなら、熱心に悔い改めなければなりません。神があえて何もされないのは、それは忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられます。神があえてさばきをなさらないのは、それは私が、あなたが悔い改める機会を与えておられるからなのです。 にもかかわず、それをよいことになおも罪を犯し続けているとしたら、神のさばきがやって来るのは当然のことです。
荘厳なエルサレムの神殿を見て、弟子たちは口々に言いました。「これだけ大きな石が積まれているんだから、この神殿が破壊されることは絶対にないだろう」すると、イエスは彼らに言われました。「この石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マタイ24:2)その預言のとおりに、エルサレム神殿はA.D.70年にローマ帝国によって粉々に破壊されました。
ですから、目に見える現象を見て「まだ大丈夫、これくらい何とかなる」と言って高をくくってはなりません。「だれにも迷惑かけるわけじゃないんだから、何をしたっていいじゃないか」と開き直ってはいけません。「明日もきょうと同じだろう」と、神を侮ってはいけないのです。神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近いからです。私たちはもう一度自分の思いが神のみこころからかけ離れていないかどうかを点検し、もしそうであるなら謙虚に悔い改めて救い主イエス・キリストに立ち帰りたいと思います。そうすれば、主は赦してくださいます。あなたを新しいいのちの道へと導いてくださいます。あなたの罪がどんなに大きくても、それがたとえ紅のように紅くても、雪のように白くしてくださいます。これが福音、グッド・ニュースです。このような福音のいのちに生きる者でありたいと思います。これこそ、神の救いを待ち望んで生きるクリスチャンの生き方なのです。