「近づいている救い」 No.89
Ⅰ.公正を守り、正義を行え(1-2)
これまで主のしもべの苦難を通して救いがもたらされるという預言が語られてきた。その救いに対して、われわれはどのようにそれを待ち望まなければならないのだろうか。第一のことは、公正を守り、正義を行え、ということである。どうせすぐに救われるのだから何をしても構わないというのではなく、だからこそ公正を守り、正義を行えというのだ。パウロはローマ13:11-12で、「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」といい、「やみのわざをうち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」と勧めている。
その具体的なことの一つが、安息日を守るということである。これはユダヤ人にとっては義を行うことの最優先事項であった。それこそが彼らが神の民であることの特別なしるしであったからだ。なのに彼らはこの安息日を守らなかった。それで神は彼らをバビロンへと連れて行かれたのである(Ⅱ歴代誌36:21)。
このことは、われわれクリスチャンにとってはどのようなことなのだろうか。というのは、われわれはこうした律法から解放され、むしろこのようなものには縛られないで、神の恵みに生きるべきだからである。この安息日の規定が目指していたことは、週に1日は主の日として聖別し、この日には一切の仕事を休み、主を覚えて礼拝するということである。それが日曜日に行われている主日礼拝の目指していることだ。毎日の忙しさにかまけて主を忘れることがないように、週に一日を聖別して礼拝をささげ、主に感謝し賛美をささげて、主との交わりをかかさないようにすることである。そのことによってわれわれは主のものであることを確認し、主のもとにすべての重荷をおろして安らぎを得、肉体的にも、精神的にも、霊的にも力を受けて、健康的に生きることができるのである。
Ⅱ.すべての民の祈りの家(3-8)
第二のことは、あなたのからだを神から受けた聖霊の宮としなさい、ということである。3節にすばらしい約束がある。それは「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。なぜなら、そうした外国人や宦官たちにもユダヤ人同様、絶えることのない永遠の名が与えられるからだ(5)。主は彼らを聖なる山シオンに連れて行き、祈りの家で彼らを楽しませてくださる。というのは、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7)イエスこそ神殿そのものである。イエスによってすべての人が神と出会い、神を礼拝し、神のすべての祝福にあずかることができる。いや、そればかりではない。このイエスを信じるすべてのクリスチャンは、神から受けた聖霊の宮、すなわち、神殿なのである。われわれは神の神殿となっていつでも神と出会い、神を礼拝し、その恩恵にあずかることができるのである。
問題は、その神殿を何のために用いているかである。かつてイエスは神殿で物の売り買いをし、まるで強盗の巣のようにしていたユダヤ人たちに激怒され、宮きよめを行った。同じように、われわれが神から受けた聖霊の宮である自分自身のからだを自分の満足のために使っても神の栄光のために使うことがなかったら、イエスは宮きよめされる。われわれにもたらされた祝福の大きさを覚えつつ、いつも感謝をもって、心から主を礼拝する者でありたい。
Ⅲ.神を侮ってはならない(9-12)
第三のことは、神を侮ってはならないということである。9節には、「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。」とある。見張り人であるはずの者の目が見えず、番犬であるはずの犬が吠えないからだ。彼らは悟ることも、知ることも知らない者たちで、自分勝手な道に向かっている。
しかし、そのような者たちに対して、神が黙っておられることはない。野のすべての獣に命じて、林のすべての獣に命じて、食べに来るようにと言う。神が今、あえてそのようになさらないのは忍耐しておられるからである。忍耐して、悔い改める機会を与えておられのだ。にもかかわらず、それをよいことにいつまでも悔い改めないとしたら、神のさばきがやって来るのは当然であろう。
だから、目に見える現象を見て、「まだ大丈夫だ。これくらい何とかなる。」と高をくくってはならない。「だれにも迷惑をかけるわけじゃないのだから、何をしても勝手だ。」と開き直ってはいけない。「明日もきょうと同じだろう」と、神を侮ってはならない。神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近い。この神のことばに信頼して公正を守り、正義を行う者でありたい。それこそ、近づいている救いに対して求められる応答なのである。