レビ記15章1~33節

きょうはレビ記15章から学びたいと思います。私たちはこれまで、汚れたものときよいものとの区別について学んできました。それは食物の規定から始まり、出産によって出てくる血による汚れ、さらにツァラアトによる汚れと続きました。そしてこの15章には、男女の漏出物について教えられています。

 

1.  漏出物がある場合(1-12)

まず1節から12節までをご覧ください。2節には、「だれでも、隠しどころに漏出物がある場合、その漏出物は汚れている。」とあります。この隠しどころにある漏出物は何でしょうか?16節には「精を漏らした時には・・・」とありますから、これは精液の漏出とは区別されたものであることがわかります。

新共同訳聖書ではここを、「もし、尿道による炎症による漏出があるならば、その人は汚れている。漏出による汚れは以下のとおりである。尿道から膿が出ている場合と尿道にたまっている場合、以上が汚れである。」と訳して、性病の一種である淋病(りんびょう)の症状と似ていることから、この病気のことではないかと考えているようです。淋病とは「淋」という字からもわかるように、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現していますが、それと同じように、尿道の強い炎症のために尿の勢いが低下し、排尿がポタポタと漏れていた症状を現しているのではないかというのです。創造訳聖書ではこれを「男性の性器から病的な漏出がある場合は・・」と訳し、病的な漏出のことだと考えています。

問題は「隠しどころ」です。これは男性の性器、生殖器のことを表していて、このあとに出てくる女性の生理のことも含めて、そうした「隠しどころ」から漏出したもののカテゴリーの一つとしてとらえたるのがいいと思います。

このような隠しどころから漏出を病む人はどうなるのでしょうか。すべて汚れます。そしてそれは、その病にかかっている人だけでなく、それに触れる人に伝染します。その例が12節まで続きます。まず5節には、「また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。」とあります。その人が寝た床はすべて汚れているので、それに触れた人は自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は6節です。その人がすわった物の上にすわる物も汚れました。その人も自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は7節です。「また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者」、すなわち、性器にさわる人も汚れます。新共同訳では「漏出にある人に直接触れた人」となっています。その人が寝た床、すわったところに触れただけで汚れるわけですから、その人にさわっただけで汚れるのはわかります。

8節には、その漏出を病む者が、きよい人につばをかけるなら、その人は汚れるとあります。果たしてつばをかけるというようなことがあるのでしょうか。もしかすると嫌がらせ言われ、それが嫌でつばをかるというようなことがあったのかもしれません。

9節には、漏出を病む人が乗った鞍はみな汚れるとあります。ですから、病人が乗ったろばの鞍は取り替えなければなりませんでした。

そして10節には、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、汚れるとあります。それらの物を運ぶ者も汚れるので、その衣服を洗わなければなりませんでした。

11節には、漏出を病む者が、水で手を洗わずに、だれかにさわるなら、その人は汚れるとあります。隠しどころだけでなく、手で触れただけで汚れるのです。

また12節には、漏出を病む人がさわった土の器も汚れるとあります。その器はこわされなければなりませんでした。木の器は、水で洗います。

このように漏出物によって汚れることがないように、徹底的に教えられているのです。でもいったいなぜ、主はそこまで言われるのでしょうか。女の出産の汚れについてもそうでしたが、ツァラアトの時もそうでした。でもこの性器から出てくる漏出物などだれも読みたくないでしょう。なのに主はわざわざそのことによる汚れについて語っておられるのです。なぜでしょうか?それは、私たちがどれほど汚れたものであるのかを示すためです。主はそれをこの漏出物によって明らかにしておられるのです。

マタイの福音書15章18-20節にはこうあります。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」

また、パウロはローマ人への手紙7:18で、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」と告白しています。またイザヤ書のみことばを引用してこのようにも行っています。ローマ3:10-18です。「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

また、エレミヤもこう言いました。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(17:9)」

これが私たち人間の姿なのです。聖書はまさにそうした人間の赤裸々な姿を描いているのです。「聖書」というくらいですから、よっぽど聖いことが書かれてあるのかと思えば、こうした性器からの漏出物とか、生理のこと、あるいはカインがアベルを殺したとか、ノアの時代の人々がかなり乱れていたこと、バベルの塔の時代には高ぶって神に反抗していたことなど、本当にひどい人間の姿が描かれています。それは、人間とはこういうものだということをはっきりと示すためです。

2.漏出からきよくなるとき(13-15)

次に13~15節をご覧ください。ここには、漏出を病む者がその漏出からきよくなったらどうしたらいいかが記されてあります。その人は自分のきよめのために清めの機関として七日を経て、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びなければなりませんでした湧き水を浴びるとは新鮮な水を浴びるということでしょう。そうするときよくなります。

そして八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを主の前、会見の天幕の入口のところに来て、祭司に渡しました。祭司はそれを取り、一羽を罪のためのいけにえとし、他のもう一羽を全焼のためのいけにえとしてささげ、その漏出物のために、主の前で贖いをしました。

これはイエス・キリストの十字架の贖いと御霊のきよめを表しています。彼は自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びました。この湧き水、新鮮な水こそ御霊のことです。古きは過ぎ去ってすべては新しくなりました。イエス・キリストの十字架の血によって贖われた人は、御霊のきよめによって新しい人を着たのです。その人はきよいのです。全く新しい人になりました。

3.精の漏出があったならば(16-18)

次に16~18節までをご覧ください。ここには「もし人に、精の漏出があったときはどうしたらいいかが教えられています。精を漏らすというのは、精液を漏らすということです。その人は全身に水を浴びなければなりませんでした。また、精液のついた衣服と皮はすべて、水で洗わなければなりませんでした。男が女と寝て交わったなら、ふたり共水を浴びなければなりませんでした。

精液が漏れた時の規定は淋病のようなきびしいものではありませんが、それでも汚れるので、水であらわなければなりませんでした。おそらくこれは、隠しどころの漏出という点で、私たちが汚れた者であるということを教えようとしていたものと思われます。

4.女に漏出がある場合(19-24)

次に19~24節までをご覧ください。ここには、「女に漏出があって、その漏出物がからだの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。」(19)

この女の漏出とは何のことでしょうか。新共同訳聖書には、「女性の生理が始まったならば、七日間は月経の期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。」とあります。つまり、女性の生理のことです。この期間は汚れます。これは生理そのものが汚れているということではなく、その生理が表している人間の汚れのことです。ですから、このところからその人に触れると汚れるということはないので安心してください。

そして、この漏出物は男性の漏出物と同じように、その汚れが移ると言われています。20節には、その女の月のさわりのときに使った寝床が汚れると言われています。また21節には、その女の床に触れる者も汚れます。その人は衣服洗い、水を浴びなければなりませんでした。また22節には、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな汚れるので、その衣服を洗い、水を浴びなければならないとあります。また24節には、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、彼も七日間汚れると言われています。

ということは、男性よりも女性の方が汚れているということなのでしょうか。そうではありません。神は私たちの心が汚れているということを教えるためにこの生理の話をされたにすぎないのであって、男性よりも女性の方が汚れているということではないのです。

ではこの生理の話の中で神が伝えたかった真意とは何だったのでしょうか。それは七日間汚れるということです。生理による出血は長く続きます。同じように、私たちが悪い思いを長く持ち続けると、それは人々に伝染していくのです。自分だけでなく他の人をも汚すことになります。「一生感謝」という本の2/26に、「あるユダヤ人の母の日課」という内容で次のようにありました。

教養のない平凡なユダヤ人母親がいた。ところがこの母親は、子どもを実に立派に育てた。その秘訣は何かと人々が聞いたところ、母親は、ただ三つのことだけを教えたと答えた。

1つ目、「どんな境遇であれ、すべてのことについて感謝すること。小さなことでも大きなことでも感謝する人になりなさい。困難に遭っても恨んだり不平を言ったりせず、ただ感謝しなさい。いつも感謝しなさい。」すなわち、感謝を習慣化させたのである。

2つ目は、「恨み事を言う人と付き合うな。」恨み事や不平は影響を受けるからだ。成功する人生を生きたいのなら、文句を言う人と付き合ってはいけないということだ。

3つ目は、「感謝する人親しくなりなさい。感謝する人といっしょにいなさい。」

このように、感謝にまつわる三つの教訓をもって故どもたちを立派に育てたのです。恨み事や不平、感謝は他の人に大きな影響を与えます。恨み事や不平は悪い影響を、感謝は逆に良い影響を与えるのです。

ですから、私たちが悪い思いを持ったなら、すぐにそれを主に告白し、悔い改めて、きよめてもらうようにしなければなりません。そうしないと、その影響が広がって他の人にも害を及ぼしてしまうことになるからです。ですから、この生理の話はそのように長い期間の汚れを示しているのです。

5.月のさわりではない血の漏出(25-33)

最後に、25~33節までを見て終わりたいと思います。ここには、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは、月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合について教えられています。生理の時は七日間だけ汚れ、他の人から隔離されて暮らさなければなりませんが、長い日数にわたって血の漏出があるというのは、そういう状態がずっと続くことを意味しています。七日間でも大変なのに、そうした状態がずっと続くというのは絶え難い苦しみではないかと思います。これは霊的にはどういうことを表しているかというと、ほんとうに汚れてしまっている人、自分自身を滅ぼそうとしている人に当てはまるでしょう。しかし、罪が増し加わるところには、恵みも満ち溢れます。ローマ人への手紙5章20節をご覧ください。ここには、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。主のあわれみは尽きることはありません。罪が増し加わるところには、恵みもまた満ちあふれるのです。

ここで長血をわずらった女の話を見ていきましょう。マルコの福音書5章25~34節にあります。この女はこのレビ記の規定によって人々に決して触れてはいけない女でした。けれども彼女は、「イエスの着物にさわることができれば、きっと直る」と考え、群衆の中に紛れ込み、イエスの着物にさわりました。イエスはこのことに気付かれ、「だれがわたしにさわったのか」と言われました。それを聞いたこの女は恐ろしくなりました。律法では他の人を汚すことであり、イエスを汚すことになるからです。そこで彼女は、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けました。するとイエス様は驚くべきことを言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」何と希望と慰めに満ちたことばでしょう。彼女がイエス様を汚したのではなく、イエス様が彼女をきよめられました。彼女はイエス様に触れることによって、救われたのです。

私たちも同じです。私たちのあふれでる悪い思い、汚れ、そうしたものがイエス様を汚すのではなく、逆にイエス様に触れることによってきよめられるのです。私たちが罪、汚れからきよめられるには、このイエス様に触れていただくことによってのみなのです。イエス様に触れていただくことによって、私たちのすべての汚れがきよめられ、きよい良心を保ち続けることができるのです。

28~30節には、きよめられ時の儀式について書かれています。それは隠しどころに漏出がある人が清められるときと同じ儀式です。八日目は新しい始まり。主が死からよみがえられたように、私たちも主のいのちによって新しい歩みをすることができるのです。