きょうはレビ記16章全体から学びたいと思います。ここには、イスラエルの例祭の一つである「贖罪の日」の規定について記されてあります。例祭とは毎年恒例として行われているお祭りのことです。イスラエルには七つの例祭がありますが、その一つがこの「贖罪の日」です。これはヘブル語で「ヨム・キプール」と言います。「ヨム」とは「日」のこと、「キプール」とは「贖罪」という意味です。この贖罪の日は祭日ではありますが祝日ではありません。普通祭日というと何かをお祝いするというイメージがありますが、この贖罪の日はそれとは逆で、苦しみを体験する日です。29節には「身を戒めなければならない」とありますが、身を戒めるとは断食のこと。祭日に断食することなどありませんが、この贖罪の日には断食します。具体的には五つの自己否定をもって苦しみを体験すると言われています。(1.飲み食いをしない。2.風呂に入らない。風呂は体に心地よいことなので、そうした心地よい事を避けるという意味で。3.体に油を塗らない。4.革靴やサンダルを履かない。贅沢品を避けるという意味で。5.夫婦関係を持たない。そのため部屋のカーテンはオープンにし、寝室にはろうそくの明かりを灯した。)それは、私たちの罪をきよめるために、神が贖いをしてくださったから。そのことを覚えて身を戒めるのである。
1. 垂れ幕の内側の聖所に入って(1~2節)
それではまず第一に、1~10節までにあるいけにえの準備について見ていきたい。1節と2をご覧いただきたい。
「1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。
2 主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。
アロンのふたりの子の死とは、レビ記10章で起こったアロンのふたりの子ナダブとアビブの死のことである。彼らは異なった火をささげたために神に打たれて死んだ。異なった火をささげたとはどういうことか?2節をみると、ここに「かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とあることから、おそらく、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのではないかと考えられる。大祭司アロンにしかできないこととは、垂れ幕の内側の聖所に入ることである。それは至聖所のことで、ここには大祭司が年に一度、この贖罪の日にしか入ることができなかったのに、彼らはその至聖所に勝手に入って行った。いったいなぜ彼らはこんな勝手なことをしたのか?それは自分たちに栄光が帰されることを求めたからだである。10章3節には、「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す」とあるが、その栄光を自分によって現したいと思ったのであろう。おそらく、この二人は、主の前から火が出てきたことを見てこれはすばらしいと思い、自分たちもそれをまねて、火を出してみせようと思ったのだろう。自分によって、そうした偉大なことができると思ったのだ。彼らは自分たちに栄光が帰せられることを求めたのである。しかし、それは罪である。栄光は主のものであって、祭司はその主に仕える者にすぎない。したがって、祭司の務めは主の栄光を現わすことである。自分の栄光ではない。主に栄光が帰せられることを求めなければならない。なのに、彼らは自分たちの栄光を求めたので、神のさばきの火が彼らを焼き尽くしたのである。
これは主に仕える祭司が注意しなければならないことである。祭司は主の栄光が現されるために、命じられたとおりに仕えなければならない。この務めに慣れてくると、いつしか自分の栄光を求めようとする誘惑が生じる。しかし、祭司は自分の栄光などどうでもいいことであって、ただ神に栄光が帰せられることを求めていかなければならない。そのために必要なことは、かってな時に垂れ幕の内側に入り、「贖いのふた」の前に行ってはならないということ。そこに行くことができるのは大祭司だけであり、しかも年に一度贖罪の日だけに限られていた。そこで大祭司は主と会見する。どこで会うのかということが2節にある。「贖いのふた」の上の雲の中に現れる。このような特権は大祭司のみに許されている。しかもその大祭司でさえも、そのためにちゃんと備えていなければ死ぬこともある。
このようなことを申し上げると恐ろしい感じもするが、しかし私たちは恐れる必要はない。なぜなら、私たちはもうすでにこの至聖所の中にいるのだから。まことの大祭司であられるイエス・キリストが贖罪のみわざを成し遂げてくださったので、そのみわざを信じることによって、私たちは大胆にこのこの垂れ幕の内側の聖所に入ることができるようになった。このことがヘブル人への手紙9章11~12節に記されてある。
「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
この箇所を見ると、この幕屋というのは天国の模型であったことがわかる。実体は天国である。そしてこの贖罪の日になされることは大祭司が至聖所に入って、罪の贖いをすること。その大祭司とはイエス・キリストを現していた。キリストは偉大な大祭司として父なる神が座しておられるまことの至聖所に入り、罪の贖いをされた。しかもやぎや小羊といった動物の血によってではなく、ご自分の血を携えていかれた。やぎや小羊の血でさえも人々の罪をきよめることができるとするならば、神の子であられるキリストの流された血はどんなにか私たちの良心をきよめることができるだろう。完全にきよめることができる。私たちはこのキリストの血によってきよめられたので、大胆に至聖所の神の前に出ることができるようになった。それゆえ私たちはこのイスラエルの大祭司と同じ特権に与っている。いや、それ以上の特権に与っている。それ以上のというのは、イスラエルの大祭司は年に一度しか入ることが許されていなかったが、私たちはいつでも、どこでも、神の前に入っていくことが許されている。これはほんとうに大きな特権ではないだろうか。
2. 聖所に入るために(3~10)
次に、3~10節までを見ていただきたい。ここには、大祭司はどのようにして聖所に入らなければならなかったのかが記されてある。その準備についてである。
「3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、
4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。
5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。
彼はまず、自分と自分の家族のために贖いをしなければならなかった。そのために必要であったのが若い雄牛であり、また全焼のいけにえとしての雄羊であった。それをいけにえとして携えて行かなければならなかった。その後で、イスラエルのためのいけにえをささげる。なぜなら、彼はこれから至聖所に入って行かなければならなかったから。彼自身に罪があれば、滅ぼされてしまうことになる。民のために罪の贖いをするためには、まず自分自身が全き者として神の前に出なければならなかったのである。
このことはと゜んなことを表していたのかというと、キリストの罪なき姿である。偉大な大祭司であられたキリストが、神と人との仲介者であられる主が他の人々の罪の贖いをするためには、キリスト自身の中に罪があってはならなかった。もし罪があれば自分自身のために血を流さなければならないということになり、私たちに代わって罪を贖うことができないことになる。それゆえ、キリストは聖霊によって身ごもり、処女マリヤからお生まれになられた。それは、キリストはアダムが犯した罪の性質を受け継いでおられないということであり、初めから罪の性質を持っていなかったことを示している。キリストは私たちと同じような肉体を持ってお生まれになられ、あらゆる誘惑を受けられたが、けれども罪は犯されなかった。それゆえ彼は私たちの罪を贖うことがおできになられたのである。
次に大祭司は衣服を着替えた。いつもの栄光と美を現していたエポデを脱ぎ捨てた。その代わりに亜麻布を身にまとった。長服も、飾り帯も、かぶり物もすべて亜麻布であった。いったいなぜ衣服を着替えなければならなかったのか。それは、イエスが天におられた栄光をかなぐり捨てて、私たちと同じような肉体を取られて卑しくなられたことを意味していたから。ピリピ2章6~8節には、「6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とある。
そして次に、イスラエルの民のために罪の贖いをする。そのために必要なのは二頭のやぎ。一頭はいつものようにほふり、その血をアロンが至聖所に携えていく。しかしもう一頭は、生きたままにしておく。これはあとで荒野に放たれる。これは罪が赦されることだけを意味しているのではなく、荒野に放たれたやぎによって、罪が取り除かれたことを表すため。キリストが行われた贖罪は、私たちの罪を大目に見るということではなく、私たちの罪が全くないようにみなすということ。罪は覆われたのではなく、全く取り除かれ、どこかに追いやられ、吹き飛んで行ったということ。このアザゼルのやぎは、そのことを表していた。
3. 贖罪(11~19)
次に11~19節を見ていただきたい。ここには、実際に罪の贖いがどのように行われたのかが記されてある。11~14節にはこうある。
「11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。
12 主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。」
いけにえは、外庭の青銅の祭壇でほふられた。そこにあった炭火を火皿に入れ、かおりの高い香を取って聖所に入る。そしてその香を炭火に入れて焚き、煙にして垂れ幕の内側、すなわち、至聖所に入る。これは何を表しているかというと、彼自身の罪が祭壇で贖われたことを祈りをもって、神に伝える行為である。
それから彼は雄牛の血を取り、指で「贖いのふた」の東側に振りかけ、また指で七たびその血を「贖いのふた」の前に振りかける。これが「血によるきよめ」である。この「贖いのふた」はギリシャ語では「なだめの備え物」と訳されている。神の怒りのすべてがそこで完全になだめられる、ということ。この贖いのふたの前で血が振りかけられたというのは、私たちの罪に対する神の怒りが、この血にあって完全に贖われたということを意味している。
「15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。
18 主の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。
19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。」
アロンは、今度はイスラエルの民のためにも、同じように罪の贖いをする。彼は、罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を至聖所に持って行き、雄牛の血をしたようにこの血もする。すなわち、贖いのふたの上と前に振りかける。それだけでなく彼は、イスラエル人の汚れと、そのそむきの罪のために、聖所の贖いもする。残りの血は、外庭にある祭壇の角に塗り、祭壇の上にも振りかけられた。このようにして、イスラエルの罪の贖いが成し遂げられた。
このようにして大祭司アロンは自分の罪とイスラエルの民の罪の贖いをした。そして、これと同じように、私たちの大祭司であられるキリストも同じようにして罪を贖う。しかし、違うことは、こうした雄牛ややぎの血が彼らの罪を贖うことができたのならば、神の血によって成された贖いはどれだけ私たちの罪をきよめることができるかということである。完全にきよめることができるということだ。
先程もみたが、ヘブル人への手紙9章11~14節にはこのようにある。
「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
ここでのポイントは、もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることか、ということ。キリストの血は、私たちの罪を完全に贖い、その良心を完全にきよめることができるのである。
4. アザゼルのやぎ(20~28)
さて、それではもう一匹のやぎについて見ていこう。すなわち、生きているアザゼルのやぎである。20~28節にこうある。
「20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪があっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
22 そのやぎは、かれらのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く、彼はそのやぎを荒野に放つ。
23 アロンは会見の天幕に入り、聖所に入ったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。
24 彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。
25 罪のためのいけにえの脂肪は、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。
26 アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営に入ることができる。
27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。
28 これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営に入ることができる。」
20節の「生きているやぎ」とはアザゼルのこと。アロンは生きているそのやぎの頭の上に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、それがどんな罪であっても、これを全部その上に告白して、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。
これはいったいどういうことか?このヤギは英語で「スケープゴート」と言う。民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代わりとして使われる言葉である。すべてのイスラエルの罪を背負って荒野に放たれることからそのように使われているのだと考えられる。けれどもヘブル語の「アザエル」というのは身代わりというよりも「出て行く」とか「追放される」、「取り除く」という意味がある。イスラエルのすべての罪を背負い、出ていくという意味。このやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へと出て行く。罪が遠くに追いやられたのである。もう戻ってくることはない。完全に追いやられる。つまり、主が贖罪の日に意図していたことはただ単に罪を覆い隠すということではなく、罪を取り除くこと。永遠の贖い(ヘブル9:12)のことである。キリストが成された贖いはこの永遠の贖いである。キリストがただ一度、血を流されたことによって、過去、現在、未来のすべての罪が贖われた。
「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)
「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:34)
私たちの過去の罪が赦されただけではない。私たちの一切の罪が赦された。あなたの罪は一切ない。取り除かれた。もちろん、私たちはまた罪を犯す。けれども、そのことによって神と私たちの関係は変わらない。ただ、神の赦しを、悔い改めをもって受け入れるにしか過ぎないのである。
それから大祭司は会見の天幕に入り、以前身につけていた大祭司の装束を身につけた。それはキリストが死の中にとどまっているのではなく、よみがえられたことを表している。よみがえられただけでなく、天に昇られた。その栄光の姿、神の栄光を再び受けられる。アザエルのやぎを放った者はその汚れを負ったため、宿営に入るには水の洗いをする。それはアザエルだけではない。罪のためのいけにえの雄牛ややぎの、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものも、宿営の外で火で焼かなければならなかった。
5. 全き安息(29~34)
最後に29~34節を見て終わりたい。29節には、第七の月の十日には、「身を戒めなければならない」とある。これは普通、断食と解釈される。断食とは、罪を悔い改める、その嘆きを表している。なぜ身を戒めなければならないのか。なぜなら、この日に、彼らの罪がきよめられるために、贖いがなされたからである。であればうれしいはずなのになぜ嘆きなのか?それは、そのために彼らは自分たちがヤーウェなる神、イエス・キリストを突き刺したことを知るからです。(ゼカリヤ12:10)
そして、この日は全き安息の日となる。なぜ?なぜなら、キリストが一切の罪を取り除いてくださった、贖いの完成を示しているから。キリストは永遠の贖いを成し遂げてくださったので、もうこれ以上、私たちが救われるためにしなければならないことは何もない。すでに贖いは完成した。これ以上、なにもすることはない。私たちにできることは、そのような贖いを成し遂げてくださった主のみわざに感謝し、賛美すること。そして、喜んで主に仕えること。自分の義を達成するためにこれらのことを行うのではなく、すでに達成されたから行う。そして、大胆に恵みの御座に近づくことができるのである。ヘブル4章16節には、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とある。神様は私たちに、おりにかなった助けを与えようとしておられる。そのために、私たちは恵みの御座に近づかなければならない。私たちにはそれができる。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、罪の贖いを成し遂げてくださったから。だから、「こんな自分なんて」とか、「全く罪に汚れた自分は」などと言って縮こまるのではなく、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づかなければならない。