レビ記18章

きょうは、レビ記18章から学びます。レビ記は17章から後半部分が始まりましたが、その中心は何かというと、聖なる歩みです。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(11:44-45)動物のいけにえ、これは私たちの罪を贖ってくださるイエス・キリストの犠牲を表していますが、その血によって聖められた者は、聖い生き方をしなければなりません。その最初に命じられたことは血を食べてはならないということでした。なぜなら、肉のいのちは血の中にあり、いのちとして贖いをするのは血であるからです。その血を食べるということは神を侮ることであり、その血をないがしろにすることになります。ですから、血を食べてはならないということが強調されていたのです。それは、この血による贖いを重んじるということです。すなわち、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストを中心に歩まなければならないということです。そして、きょうのところには性について教えられています。

1.  彼らの風習に従って歩んではならない(1-5)

まず1~5節までをご覧ください。

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。」

ここで主が繰り返して語っておられることは「ならわし」とか「風習」です。彼らがかつて住んでいたエジプトのならわし、またこれから入っていくカナンの地のならわしをまねてはいけないということでした。イスラエルはかつてエジプトにいたので、それらのならわしに慣れ親しんでいました。そうしたならわしをまねてはいけません。神の定めを行い、神のおきてを守り、それに従わなければなりません。なぜなら、神はあなたがたの神、主であられるからです。私たちは神のもの、神の民とされたからです。神はあなたを贖ってくださいました。滅びの中から救い出してくださったからです。

これは異教的な風習の中にいる私たちクリスチャンに対するチャレンジでもあります。私たちはクリスチャンになってもなかなか昔の慣習から抜け出せないことがあります。クリスチャンになっても「昔からずっとやっていることだから」「みんなやってることだから」別に悪いことだと思わないで平気でやっていることがあります。

先日、オバマ大統領が来日したとき日本の伝統に触れたいと明治神宮に行きました。そこで神主からお祓いを受け、絵馬に願い事を書いて奉納しました。神主が「だれかが持ち去ってしまうといけないから」とそれを取って別のところに安置しようとしたら、「私の祈りは聞かれるでしょうか」と神主に尋ねました。すると神主は「それは神様のみぞ知るところです」と答えました。私はそれを見ていて、ほんとうに残念に思いました。私たちがいのちをかけて守っている信仰をそうやって踏みにじる行為は決して許されることではありません。日本の伝統だから、日本の習慣だから、昔からずっとやっていることだから、みんなやってることだから、やってもいいというのは間違いです。私たちは神によって贖われたものであり、神の民です。その神が望んでおられることは何かを知り、それを行うことが求められているのです。昔からやっていることでも、みんなやっていることでも、それは神のみこころなのかどうかをよく見極めなければなりません。そして、神の定めを行い、そのおきてを守り、それに従わなければならないのです。もしそうでないことをしていたら、それを悔い改め、神のみこころに立ち返らなければなりません。

2.性の尊厳(6-18)

では、神のみこころは何でしょうか。神の定めているおきてとは、どのようなことなのでしょうか。6~18節までを見ていきましょう。まず6節から11節までをお読みします。

「あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしはである。父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。あなたの息子の娘、あるいはあなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。あなたの父の妻があなたの父に産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、あなたはその娘を犯してはならない。」

まず、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならないということです(6)。すなわち、あなたの母親と寝てはいけないし、あなたの父の妻を犯してはいけません。なぜなら、それはあなたの父をはずかしめることになるからです。ここに「あなたの母」と「あなたの父の妻」とありますが、これは同じ人のこと、つまり母親のことを指しているのではないかと思われますが、そうではありません。当時は一夫多妻が許されていたので、父には母親の他に別の女性もいたのです。そのような女性を犯してはならないということです。

また、あなたの姉妹を犯してもいけません(9)。あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、家の外で生まれた女では犯してはいけないのです。これも一夫多妻の影響があったので、このような言い方がなされているのです。必ずしも同じ父母から生まれた姉妹ということだけでなく、別の父親、別の母親から生まれた姉妹までも含めて語られているのです。あなたの息子の娘、娘の娘とは孫のことですね。孫を犯してもいけないという戒めです。

このような戒めは、あまりにも当たり前のことで、なぜこのようなことが戒められているのか不思議に思われるかもしれませんが、もしこのようなことが日常茶飯事に行われていたらどうでしょうか。感覚が麻痺して、それがどんなに汚れたことなのかがわからなくなってしまいます。そしてこのようなことがエジプトやカナンで平気で行われていました。ですから主は、これらのことが罪であることをはっきり教える必要があったのです。

次に12節から18節までを読みます。

「あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親である。あなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親であるから。あなたの父の兄弟をはずかしめてはならない。すなわち、その妻に近づいてはならない。彼女はあなたのおばである。あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることである。あなたは女とその娘を犯してはならない。またあなたはその女の息子の娘、あるいはその娘の娘をめとって、これを犯してはならない。彼女たちは肉親であり、このことは破廉恥な行為である。あなたは妻を苦しませるために、妻の存命中に、その姉妹に当たる女をめとり、その女を犯してはならない。」

次に、家族は家族でも、血縁的に少し離れた家族との性行為、ならびに結婚が禁止されています。「あなたの父の姉妹」(12)とはおばのことです。そのおばと通じてはならない、という戒めです。もちろん、母の姉妹のおばも同じです(13)。「父の兄弟の妻」(14)とは、義理のおばのことです。実のおばだけでなく、義理のおばにも近づいてはいけません。それは父の兄弟(おじ)をはずかしめることになるからです。また、息子の妻である「あなたの嫁」を犯してもいけません。さらに、「あなたの兄弟の妻」と通じてもいけません。それはあなたの兄弟をはずかしめることになるからです。バプテスマのヨハネは、ヘロデが兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分の妻としていたことを責めたのは、こうした律法の教えがあったからなのです(マルコ6:17-18)。そのためにヨハネは首をはねられて死んでしまいましたが、彼は自分の死も恐れずイスラエルに神の道を示して、悔い改めを迫ったのです。救い主イエス・キリストのために道を備えたのでした。

17節には、「あなたは女とその娘とを犯してはならない」とあります。また、「その女の息子の娘、あるいはその娘の娘」をめとって、これを犯してはならない、とあります。これは、子持ちの母親と結婚するとき、その娘と母親の二人と結ばれてはならないということです。また、「その女の息子の娘」、「娘の娘」というのは孫のことですが、これを犯してはならないということです。実際に血のつながりがなくても・・・。それは妻の姉妹に当たる女をめとることも同じです。要するに、そのようにすることであなたの妻を苦しませてはならないということです。

ここにさまざまな具体的な例が取り上げられていますが、これらを貫いている原則は何かというと、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)です。こうした行為が行われることによって、この一体性が破壊されるのです。そして、そこから様々な混乱と問題が起こってくるわけです。そういう意味では一夫多妻制自体が混乱の一つの要因であることもわかります。神に贖われ神の民とされた私たちは、神のみこころは何なのかをよく知り、そこに歩まなければなりません。

3.  その他の性行為について(19-23)

次に19節から23節までをご覧ください。

「あなたは、月のさわりで汚れている女に近づき、これを犯してはならない。また、あなたの隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしはである。あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。これは道ならぬことである。」

ここには、近親相姦以外の、してはいけない性行為について教えられています。まず、「月のさわりで汚れている女に近づき、これを犯してはならない。」とあります。15章24節には、「もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる」とありました。これは別に月のさわり自体が汚れているとか、問題であるということではなく、それが罪の象徴であったということです。だから、その女に近づいてこれを犯してはならないということです。

また20節には、「隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない」とあります。いわゆる姦淫です。すなわち、結婚関係以外での性交渉のことが禁じられているのです。

「モレク」とは今週のメッセージに出てきましたが、アモン人とモアブ人が信じていた神です。このモレク礼拝では自分のこともをいけにえとしてささげるという行為が行われていました。モレクの偶像は鉄で出来ていて、それを火によって熱くし、真っ赤になったモレクの両腕に赤ん坊を乗せてささげたのです。何ともおぞましい行為ですが、これは望まない妊娠をした時に行った子どもを処理する方法、つまり、当時の堕胎だったのです。現代版の中絶です。彼らは「樫の木の間や、すべての生い茂る木の下で」、そうした淫行を行い、その結果出来たこどもを、このようにして堕胎したのです。残念なことに、イスラエルの民はこのならわしをまねて、自分のこどもをモレクにささげるというようなことをしました。アハズ王(Ⅱ列王16:3,17:17)やマナセ王(Ⅱ列王21:6)は自分の子どもをこのモレクにささげましたが、これは神が忌み嫌うべきならわしだったのです。。

また22節では同性愛も禁じられています。最近では、同性愛は遺伝性の病気であるとか、幼少の頃の性的虐待を受けたから仕方がないのだ、という意見がはびこっていますが、聖書では、きっきりとそれが罪であると教えられています。最近では聖書を信じているキリスト教の中でも大きな論争があり、意見が二分されていますが、ここにはっきりと罪であると言われていますから、それを支持したり、正当化するのは間違っていると言えます。

さらに23節には、動物と寝ることが禁じられています。どんなに動物がかわいいからといって、その動物と寝ることは間違っています。それは神の秩序をことごとく破壊することなのです。

4.  はき出されることがないため(24-30)

最後に、このように忌むべきことをする者たちに対して主がどのようにされるかを見て終わりたいと思います。24節から30節までをご覧ください。

「あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行うことがないためである。―あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべて忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた―あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。これらの忌みきらうべきことの一つでも行う者はだれであろうと、それを行う者は、その民の間から断たれる。あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行われていた忌みきらうべき風習を決して行わないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、である。」

このようなことを行って身を汚す者に対して、主は「吐き出す」とか、「断たれる」とあります。これは旧約聖書だけの教えではありません。新約聖書にも、そのまま受け継がれています。Ⅰコリント6:章9~10節には、「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけまんせん。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」とあります。またガラテヤ5章19~21節には、「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。またエペソ5章3~6節にも、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です、―こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」とあります。

このような行いのために、神の怒りがくだると、はっきりと言われているのです。もちろん、イエス様を信じるならだれでも救われます。しかし、本当に救われたのなら、その救い主の喜ばれることを行っていきたいと願うのは当然のことではないでしょうか。もしそうでないとしたら、その人は本当の意味で救われていないか、救いについてよく理解していないかのどちらかです。これは性のことだけでなくその他のすべてのクリスチャン生活についても言えることですが、意外とこの「救い」についてよく理解していないことから多くの誤解が生じています。この性のこともそうでしょう。

で すから、私たちは神のみこころは何なのか、何がよいことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一身によって自分を変えなければなりません。もしそこから外れていることがわかったら悔い改めて神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神は赦してくださいます。そうでないと、吐き出されてしまうこともあるのです。

Ⅰテサロニケ4章3~6節に、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」とあります。このようなことは神を知らない異邦人の行いです。神に贖われ、神のものとされた私たちは、神が聖なる方であられるので、聖であることを求めていかなければならないのです。