イザヤ書57章15~21節 「神の自己紹介」

きょうはイザヤ書57章15節からのみことばから、「神の自己紹介」というタイトルでお話したいと思います。聖書の中には「神はどのようなお方か」が、いろいろな言い方で表現されていますが、神ご自身から「私はこういう存在である」と語られているところはそんなに多くはありません。しかし、ここには神ご自身が自らについてどのような方なのかを、はっきりと語っておられます。

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15)

まず第一に、神はいと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。15節ご覧ください。 「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

57章前半には、イスラエルが走って行った偶像の姿が描かれていましたが、それは一言で言うと虚しいということでした。「風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう」(13)ほどはかないもの、それが偶像です。しかし、まことの神は違います。まことの神は、いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。これはどういうことかというと、神は私たちとは全く次元の違うところにおられる方であるということです。全くかけ離れたところにおられる方なのです。私たちが近づきたくとも近づくことができないほど高いところにおられる方なのです。よく「雲の上の存在」ということばがありますが、まさに神は雲の上の存在なのです。その名を聖ととなえられる方なのです。  この「聖」というのは区別するという意味で、人間とは全く区別された方、この世界を超越した方であるということです。私たちは人間ですと、「あの人は非常に優秀だ」とか「偉い人だ」という言い方をしますが、そのように言うのは自分と比較して偉いということであり、努力さえすればそのようになり得る可能性があると思っているからです。しかし、神さまは違います。神様は比べようがありません。全く次元が違うからです。神はこの被造物とは全くかけ離れた存在であって、背伸びしても、逆立ちしても、何をしても、決して近づくことができない方なのです。それがここでいう「聖」という意味です。この地上の何をもってしても全く比べることができないのです。それほど高く、それほど聖い方なのです。

この言葉は、出エジプト記3章5節に出てきます。モーセがミデヤンの地で羊を飼っていたとき、神の山ホレブにやって来ました。そこで彼は不思議な光景を見ました。柴は燃えているのに、焼き尽きていなかったのです。この大いなる光景を見てみようとそこに近づいたとき、神がモーセにこう仰せられたのです。

「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

モーセは羊飼いでしたから、その羊飼いが足から靴を脱ぐということは、すなわち死を意味することでした。羊飼いの靴とはサンダルのようなものですが、それを脱いだら荒野を歩くことはできません。ごつごつとした岩や荒れくれたトゲがあるので、靴があってもそういうところで羊を飼うことは大変なことだったのです。まして靴がなかったら羊と一緒に行くことができませんから、羊を飼うことなどできませんでした。羊を飼うことができなければ、羊飼いは生きることができません。ですから、彼にとって靴を脱ぐということは、すなわち、死を意味することでもあったのです。その靴を脱げ、と神は言われました。なぜでしょうか?なぜなら、モーセはこれまでと全く違った領域に来たからです。聖なる神の御前に来たのです。彼の立っている場所は聖なる地でした。だから、彼は靴を脱がなければならなかったのです。それはモーセにとっては死という、羊飼いにとってはいのちに等しい靴を捨てるということであったかもしれませんが、そうした犠牲なしに聖なる神に近づくことはできなかったのです。モーセが土足で、陸続きのままに行くことができるお方ではなかったというのが、ここに表されていたのです。靴を脱がなければならなかった。それほど聖なる方であるということです。

また、ダビデ王の時代にこんな事件がありました。神の臨在の象徴である契約の箱を神の都に迎え入れようとした時、本当はそのためにはある定められた聖めの儀式を行い、人々が肩に担いで、御神輿のようにして運ばなければならなかったのに、ある人々がこれを牛車に積んで、牛に引かせて都に運ぼうとしました。ところが牛車の車輪が道のくぼみに落ち込んで、牛車が傾き契約の箱が落ちそうになったのです。そこでウザという人が落としてはならないと思い、箱を手で押さえました。すると、彼は神に打たれて死んでしまったのです。彼は全くの善意でやったにもかかわらず、どんなに善意からであろうとも、罪人である人間がその手で神の箱を押さえたので、神が怒りを発せられたからです。神が聖であるということはこういうことなのです。神は私たちが近づくことも、ふれることもできない、死をもってでなければ近づくことができないお方なのです。それが「聖」という意味です。

ところが、このように高く、聖なる所に住んでおられる方が、同時に、心砕かれて、へりくだった人ともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるというのです。これは全く驚くべきことではないでしょうか。ここに「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」とありますが、この「心砕かれる」という言葉は言語のヘブル語では「ちり」という言葉で、粉々にされた状態を言います。それは完全に悔い改めた姿のことです。また「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、現在の災い、苦悩を受け入れて低くされることを表しています。つまり、めった打ちにされるという意味なのです。神は聖くて高い所に住んでおられる方で、私たちがどうやっても近づくことができない方ですが、その心がズタズタに切り裂かれて、自分の主張などは微塵にもないほどに打ちのめされて、最もみじめだと自分を自覚できる人、そういう人ともに住み、そういう人の霊を生かし、そういう人の心を生かしてくださるというのです。

イザヤがこのように言ったのは、自分の体験からでした。6章にはイザヤが預言者として召された時のことが書かれていますが、そこで彼は、聖なる神がみ座におられる幻を見ました。そして、御使いたちが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(同3節)と呼びかわしているのを聞きました。その神の聖さの前に出たとき彼は、「私は、もうだめだ。」(同6:5)と叫びました。この聖なる神の前に、自分がいかに汚れた者であり、醜い存在であるかを悟ったのです。この神の前には死ぬしかない存在であることがわかりました。本当にめった打ちにされたのです。自分は預言者であり、神の代弁者であり、神のメッセージを伝える者であると自負していた彼が、この聖なる神の前に立ったとき、自分はもう何者でもない、本当ににちりにすぎない存在だということがわかったのです。「月とスッポン」という言葉がありますが、自分は神のみこころにはかなわない汚れた者であり、神の目にとまったら、滅びるしかない存在にすぎないというのが、彼の実感だったのです。文字通りめった打ちにされて、粉々に砕かれました。もう自分の存在そのものさえもなくなってしまったかのような経験をしたのです。それが心砕かれて、へりくだるという意味です。

しかし、彼はそのような中から神を仰ぎました。自分は神に打たれ、もうだめかと思ったのですが、その時、今まで賛美していた御使いが賛美をやめ、神にいけにえをささげる祭壇のあかあかと燃えている火の中から、炭火を取りイザヤの口にふれて、「この火がお前の口にふれたのだから、お前の罪は赦された。」(同6:7)と言われたのです。イザヤは、自分はもうだめだと思いましたが、自分ではなく神の方から一方的に触れてくださり、聖めていただいたのです。ほんとうに神の前に自分のいい加減さ、自分のだめさ加減さを認めることは辛いことですが、そのように全く砕かれたとき、神がその罪をいやし、彼とともに住まわれ、彼を生かしてくださったのです。

人は何かというと、すぐに「私はあれができる。これができる。」「あれを持っている。これも持っている」と、他人に誇りたくなるものです。そういう人の心には、神はお住みにはなれません。私はクリスチャンになってもう何年になります、キリスト教の世界ならよく知っています、とすぐに自負しがちになりますが、そういう人の心にはお住みになれないのです。神がお住みになられるのは、砕かれて、へりくだった人の心です。そのような心を、神は決してさげすまれないのです。むしろへりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるのです。

天地が創造されて以来、世界中で一番砕かれ、これ以上に砕かれた方はいないという人は誰でしょう。そうです、イエス・キリストです。彼は、謙遜といった言葉ではもう追いつかないほど砕かれました。だって神でありながら、人間となられたのですから・・・。無限の方なのに、有限となってくださいました。全く罪がなかったのに、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、私たちはこのイエスさまを信じて、このイエスさまと一つになること以外に、砕かれる道はありません。私たちがどんなにへりくだってみたところで、真の謙虚さを自分のものにすることはできないのです。しかし、自分を捨てて、十字架にまで架けられて砕かれたイエスさまと一つにされるならば、私たちもこの方のようになることができるのではないでしょうか。イエス様はこう言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

キリストのもとに行って荷を下ろし、代わりに、キリストのくびきを負って、キリストから学ぶ。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。なぜなら、キリストは心優しく、へりくだっているからです。キリストだけがそのように言うことができます。このキリストから学ぶことによって、私たちもへりくだった者となることができる。そして、神はそのような者とともにいてくださるのです。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(16-18)

第二のことは、神は罪をいやしてくださる方であるということです。16節から18節までをご覧ください。 「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」

どういうことでしょうか。神はいつまでも争っておられる方ではありません。いつまでも怒っておられる方ではありません。神は一時的に、彼らのむさぼりの罪のために彼らを打ち、顔を隠して怒られましたが、それで彼らは悔い改めたかというとそうでなく、なおもそむいて、自分の思う道に走って行きましたが、それでも主は彼らをいやしてくださるというのです。彼らを導き、その悲しむ者たちとともに、慰めを報いるというのです。

これは第一義的には、バビロンによる神のさばきを表しています。彼らは神にそむいて自分勝手な道に歩んだので、神はバビロンという国をもって彼らを滅ぼし、70年の間捕囚としての生活をさせましたが、かと言って、いつまでも怒ってはおられませんでした。神様は彼らのそのような歩みを見ましたが、彼らの罪をいやし、慰めを与えてくださるのです。

何という慰めでしょうか。「だったら勝手にしなさい」と言って捨てられても不思議ではないのに、神はそのようにはされるどころか、彼らの悲惨で絶望的な状況の中にご介入してくださるのです。そして、罪によって受ける心の傷をいやしてくださいます。どのようにいやしてくださるのでしょうか。その罪を代わりに受けることによってです。53章に戻ってください。53章4~6節までのところです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」    主のしもべであられるイエス・キリストが、その罪、咎を代わりに負ってくださることによって、私たちが受ける痛みや苦しみをいやしてくださるというのです。本来なら、私たちが受けなければならない罪の刑罰を、受けなくてもいいように代わりに受けてくだったのです。神の子とされるということがどんなに大きな恵みであるかがわかるでしょう。私たちは本当に罪深い者で、罪を犯さずには生きていけないような愚かな者ですが、その罪を悔い改めて神の救いイエス・キリストを信じた瞬間に神の子とされ、これからどんなに罪を犯すことがあっても、一生、その関係は変わらないのです。これからも犯すであろう罪の一切を許してくださいました。イエスの救いというのはそのように大きなものなのです。だからこれは特権なのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

皆さん、これは特権です。ものすごい特権です。あなたが悔い改めてイエス・キリストを信じたその瞬間から、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されたのです。あなたが神の子となったことで、神はどんなことがあってもあなたを見離したり、捨てたりはなさいません。世の終わりまで、いつも、あなたとともにいてくださいます。

16節には、「わたしはいつまでも争わず、いつまでも怒ってはいない。」とありますが、この「争う」という言葉は「断罪する」という意味です。神はいつまでも私たちを罪に定めようなことはなさいません。むしろ、神は私たちのたましいが衰えることがないように、慰めてくださいます。ですから、神にそむいて、自分かってな道に向かって行くようなことがあっても、一時的に怒るようなことはあっても、いつまでも怒っておられることはないのです。アッシリヤやバビロンによって捕らえられ、苦しめられるという懲らしめを受けても、いつまでもそのような状態に置かれることはしないのです。それはちょうど我が子にムチを加えるようなものです。我が子が悪いことをしたら、親はその子に何らかの懲らしめを与えても、やがてその子を許し、両手いっぱいに抱きしめ、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる支援を惜しまないでしょう。

同じように神さまはいつまでもあなたを怒ってはおられません。いつまでも争ってはいないのです。あなたが悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三のことは、神は私たちに平安を与えてくださる方であるということです。19節をご覧ください。 「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」

「くちびるの実」とは何でしょうか。これは感謝と賛美の歌のことです。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者でしたが、そうした者がいやされ、感謝と賛美の歌をささげるようになるという預言です。そればかりではありません。遠くにいる者にも、近くの者にも、平安を与えてくださいます。近くの者とはエルサレムにいるユダヤ人のこと、遠くの者とは、離散しているユダヤ人たちのこと、あるいは、キリストを信じて神の民とされた私たちクリスチャンを指していると言ってもいいでしょう。そのように遠くにいる者にも、近くにいる者にも、神の平安が与えられるのです。「平安」とはシャロームという言葉ですが、それはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことを言います。神は遠くにいる者にも、近くにいる者にもこの平安、シャロームをもたらしてくださるのです。

イエスは、こう言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

イエスは平安を与えてくださいます。それはこの世が与えるものとは違います。この世が与える平安とはどのようなものでしょうか。リビングバイブルでは、「はかない平安」と訳しています。きょうはきれいに咲き誇っても、明日にはしぼんでいくような一時的で、はかない平安ではなく、確かな平安、どんな状況でも全く動揺することのない確かな平安を与えてくださるのです。

ある歴史家は、「人類がかくも大きな恐怖と不安に襲われた時代は、今までの全歴史においてなかった」と言っていますが、このような不安な時代にあって一番求められているのは、このような平安ではないでしょうか。そのような平安を、心砕かれて、へりくだった者、すなわち、イエスさまを信じる者に、神は与えてくださるのです。

しかし、悪者どもはそうではありません。20節、21節をご覧ください。 「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

「悪者ども」とは悪いことをしている人たちということよりも、神を信じない人たちのことです。イエスさまを信じないで、自分を信じ、自分の思う道を進もうとしている人たちです。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、常に不安を抱えています。水が海草と泥を吐き出すとあるように、彼らの口から出るのは泥です。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけます。それが悪者の特徴です。心に平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。悪者どもには決して平安がありません。仕事に成功して、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされた生活でも平安がありません。救い主イエスを信じないからです。まだ心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。それは荒れ狂う海のようで、静まることがないのです。泥を吐き出すしかありません。

皆さんはどうでしょうか。皆さんには平安がありますか。もしないなら、くちびるの実を創造した主に、賛美と感謝をささげることができる平安な心を与えてくださるように祈ってください。イエスさまのもとへ行き、心砕かれ、へりくだって歩んでください。そうすれば、あなたも平安を得ることができるのです。

イエスさまは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんがどう進むかは、皆さんの選択にゆだねられています。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだるなら、神があなたとともに住み、あなたの心を生かしてくださいます。でも、その声をないがしろにし、あくまでも自分の道に進んで行こうとするなら、そこには荒れ狂う海しかありません。どうか神の平安と慰めを受けることができますように。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるお方だからです。