レビ記19章19~37節

きょうは、レビ記19章の後半部分から学びたいと思います。まず19節から25節までをご覧ください。

1.  神のおきて(19-25) 

「あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」

19節には、「あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。」とあります。つまり、種類の異なったものを交わらせてはならないということです。創世記1章11節には、「神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。」とあります。神はこの地上に植物を芽生えさせたとき、「種類にしたがって」、生じさせました(1:12,21,24,25)。この神の創造の秩序を乱してはならないということです。たとえば、ラバは雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜ですが、そのように異なった種類の家畜を交わらせてはいけません。ただし、自然な結合の結果生まれた家畜はその限りではありません。(Ⅰ列王10:25)それらの家畜は利用されていたことがわかります。

また、この教えから考えると、行きすぎた遺伝子組み換え作業には問題あると言えます。というのは、遺伝子組換え作物(いでんしくみかえさくもつ)というのは、遺伝子組み換え技術を用いて作物の品種改良等を行うことによって、いわゆる種であるDNAまでも組み替えようという試みだからです。

また、18章22~23節に同性愛を禁じる戒めがありましたが、この点からも間違っていると言えます。それは、畑に二種類の種を蒔くことも同じです。二種類の種を蒔くとは、たとえば大豆とレンズ豆等を一つの畑に一緒に蒔くといったことですが、そうしたことが禁じられています。それは種を変えることになるからです。神は、その種類にしたがって、この地上に作物を生じさせました。その神の秩序を乱してはいけないのです。

それは二種類の糸で織った布地も同じです。いわゆる混紡が禁じられているのです。いったいどうしてでしょうか?ユダヤ人の学者によると、これは異教の祭司が偶像礼拝をする時に、このように二種類の糸で織った衣服を身にまとっていたからだと言います。たぶん、そういうことでしょう。つまり、こうした異教的なならわしや風習をまねてはいけないということが、その教えの根底にあるのです。

20節から22節をご覧ください。ここには、「男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。」とあります。

どういうことでしょうか。ここでは、夫が決まっている女と寝て交わることは、神の秩序を乱すことになります。夫が決まっている女とは結婚が決まっている女、すなわち、婚約中にある女のことです。それは、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)と定められた神の秩序に反することだからです。しかし、ここではただ単に別の女と寝て交わることが禁じられているのではなく、その女が別の男と結婚が決まっている女奴隷の場合はどうかということです。この「女奴隷」とは、他の男と婚約はしているが、まだ正式に結婚していない女奴隷のことです。その身がまだ完全に自由の身となっていないケースです。そのような場合は、考慮します。「考慮する」という言葉は直訳では「尋問する」ということで、それが彼女の意志によってしたのかどうかが調べられるわけです。それが彼女の意志によってなされた場合ならふたりとも石打による死刑(申22:23~)、そうでなければ、まだ女が自由の身でなかったので、仕方がないこととして、罰せられませんでした。しかし、男の方は違います。罪過のためのいけにえをささげ、祭司に罪を贖ってもらわなければなりませんでした。そのいけにえとは何でしょうか。雄羊です。つまり、最も高価な家畜をささげなければならなかったのです。なぜなら、主人の所有物を犯したからです。女奴隷は主人の所有物なので何をしてもかまわないと思われていた当時の社会にあって、このように女奴隷も神様にあって保護されていたことがわかります。

次に、23節から25節までをご覧ください。ここには、「あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」とあります。

ここには、作物の実である果実を、いつ食べることができるかということが記されてあります。3年間は食べることができません。なぜなら、その実はまだ割礼が施されていないからです。果実の実に割礼を施すとはどういうことでしょうか?「割礼」とは、男性の性器を覆っている包皮を切り取る儀式です。それはイスラエルにとって神の民としての契約でもありました。その割礼がないというのは、まだ切り取られていないということです。つまり、切り取らなければならないということです。それは具体的にはどういうことかというと、果実の実を摘み取るとか、花を摘み取ることです。そのようにしてこそ木はよく育ち、多くの実を結ぶことができるからです。

これは人間にも言えることです。実がなったからといってすぐに食べてはいけません。3年間は待たなければならないのです。その間、よく教え、よく学んで、霊的に十分成長してから取らなければならないのです。それは霊的な面ばかりでなく、私たちの生活のあらゆる面で言えることです。社会においても、会社においても、家庭においても、すぐに実を取ろうとすると、よく成長することができないのです。最初はちょっとそっとしておくような期間を設け、神様に十分養っていただいてから、それから奉仕をしていく。それが聖い生き方には欠かせないことなのです。

じゃ3年経ったから食べよう、ということにはいきません。何だ、ずっと我慢してきたのに、まだ食べられないのかと不満が出るかもしれませんが、これが神のおきてです。三年たったら、四年目はその実をかみにささげなければなりません。それは聖となるからです。私たちのすべては神のものであり、神に贖われた者として、常に神を敬い、神にささげていくことから始めなければならないのです。自分の最初の時間、最初の給料など、最初のものは聖いのです。それは神のものとして、神にささげていくこと。それが祝福の原則なのです。

いよいよ五年目になります。随分待ちました。まだ何かあるんですか?ありません。あなたは食べることができます。それは、あなたがたの収穫を増すためです。食べることによって収穫を増す?どういうことでしょうか?これは霊的にも同じです。私たちは神から与えられた賜物を使うことによって、収穫がますます増すのです。食べなければ、ささげなければ、増えていくことはありません。

2.  異教的行為の禁止(26-31)

次に26節から31節までのところをみていきましょう。

「あなたがたは血のついたままで何も食べてはならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしはである。あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、である。」

血がついたままで何も食べてはならない、ということについては17章10節でも言われていたことです。なぜなら、いのちとして贖いをするのは血だからです。しかし、ここではそれがまじないや卜占といった異教の魔術的な行為との関係で禁じられています。異教の魔術的な行為に結びつけて、血と肉が混ぜて食べられることがあったからです。まじないは日本でもよく行われます。縁起をかついだり、おみくじをひいてみたり、一日の始まりや仕事の始まりを、そうしたものを基準にしたりすることは禁じられています。「卜占」とはあまり聞かないことばですが、占いのことです。日本でもいろいろな占いがありますね。テレビでは毎日のように「きょうの占い」と放映されています。星占い、手相とか、おみくじとか、本当にたくさんの占いがありますが、それらはすべて神を知らない異教的な風習であり、神の民がそのようなことをすることが禁じられています。

27節には、「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。」とあります。へんな教えです。びんの毛、ひげは男性の特徴だからです。ですから、今でも正当派のユダヤ日とはこのおきてを守り、長いびんの毛になっている人が多いのです。あいさつをするときは、ひげを互いにつかみました(Ⅱサムエル20:9)。ひげをそったり、切ったりすることは恥ずかしいことであり、不名誉なことだと考えられていました(Ⅱサム10:4,イザヤ7:20)。こうした毛をそって神にささげるという異教的な習慣があったので、禁じられているのです。ですから、これも異教的な風習をまねてはいけないということであって、髪のスタイルやひげをそってはならないということではありません。

28節には、「あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。」とあります。

悲しみのしるしとして体に傷をつけるという風習があったようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちはわかりますが、そのようにしてはいけません。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

また、ここに自分の身に入れ墨をしてはならないとあります。なぜ人は入れ墨をするのでしょうか。それは古くはアルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンの体や、1993年に発掘された2500年前のアルタ王女のミイラにも見られます。それはあらゆる国のさまざまな人種に見られるしゆうかんです。入れ墨は容易には消えない特性を持っていることから、古代から現代に至まで身分・所属などを示す個体識別の手段として用いられてきました(ナチの親衛隊の血液型の入れ墨、アウシュビッツに収容された人々の腕に記された番号の入れ墨、漁師の身元判明のための入れ墨、戦国時代の雑兵の入れ墨、暴力団組織の構成員としての象徴としての入れ墨)。

アメリカでは1960年代に世界的に流行したヒッピーの文化に取り入れらね、それが最近ではファッションとして、アートとして取り入れられるようになっています。

しかし、こうした理由の他にも日常生活を助ける魔除けとしての入れ墨など、魔術や宗教的な意味でも行われていたのです。たとえば、たとえば、漁師たちは昔から伝承されていたさめから身を守る意味でドルフィンの入れ墨を入れたり、多くのアメリカの原住民たちは、自分の保護や防御のために動物たちの入れ墨を入れていました。その他、ヒーリングのお守りとして、それぞれの神々の入れ墨がなされるようになったのです。古くから異教的習慣として行われていたのです。

しかし、それがどんな理由であっても自分の身に入れ墨を入れたり、傷つけたりということは髪神のみこころではありません。なぜなら、それは神のものであって、神からいただいているからだをそのように傷つけることは、それを与えてくださった神を傷つけることになるからです。中には大切なのは心であって、心が正しければ外側は問題はない、と考える人もいますが、これが神のおきてであるということをわかっていながらすることはよくありません。しかし、既に入れ墨を入れているからといってそれでクリスチャンになりないということではありません。悔い改めて、神を信じるなら、そのような人であっても救われてクリスチャンになることができます。大切なのは、救われた人が神の民としてこれからどのように生きていくかということです。神に贖われた神の民として、私たちはこのような点においてもしっかりと区別していくことを求めていきたいものです。

次に29節をご覧ください。ここには、「あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。」とあります。娘を汚すとはどういうことでしょうか。当時は、自分の娘を神殿娼婦としてささげることがありました。たとえば、アシュタロテの神殿には多数の娼婦がいました(申23:17)。

30節には再び安息日を守ることが命じられています。異教的風習を排除する最良の方法は、まことの神を礼拝し、まことの神に仕えることです。神のみこころは何かを学び、その神に仕えることです。そうすれば、こうした異教的な風習からも解放されるでしょう。

31節には、「霊媒や口寄せに心を移してはならない」とあります。「霊媒」とはヘブル語で「オーブ」と言います。わきの下から出て来るような声で、あたかも死者の声を取り次ぐように話すことです。「口寄せ」とは、ヘブル語で「イッデオニー」です。未来のことを知ろうとする者のことです。つまり、こうした霊媒とか口寄せは、神が啓示されることではなく、神を介さずに、またキリストを介さずに、霊の世界と接触することです。そのようなことは汚れていることです。占いとか、オカルト、超能力といったものがそれです。そのようなことである程度、未来のことがわかるかもしれません。他人の真実についても見ることができます。しかし、そうしたことを見せているのは、教えているのは死者の霊でも、まして神の霊でもありません。それは悪霊によるのです。そのようなことを行っている人には聖さがありません。私たちはただキリストを通してのみ神に近づくことができるのであって、キリスト抜きにそうした世界に近づこうものなら、たちまちに滅ぼされてしまいます。キリストを通して語られた啓示の書、つまり聖書を通してこの世界を、また霊の世界を、未来のことを知ることが、私たちに許されているのであって、そうでないことは汚れているのです。

3.  老人や在留異国人への配慮(32-34)

次に32節から34節までをご覧ください。ここには老人と在留異国人に対してどうあるべきなのか、その配慮が記されてあります。

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、である。」

最近、年老いた方々に対する不親切が、社会の中に広まっています。ご老人は力のない、役に立たない者のように扱われているのです。しかし、老人を敬い、神に接するかのように接しなければなりません。

また在留異国人をしいたげてはいけません。イスラエル人にとって、彼らもかつてはエジプトで在留異国人として過ごしていたので、その痛みや苦しみを知っていました。だからこそ、こうした在留異国人に対しては、特に親切でなければなりません。あなたの国で生まれたひとりのようにしなければなりません。

現在、在日外国人はどうでしょうか。彼らはまず選挙権がありません。基本的な人権が得られていないのです。もしこうした外国人に選挙権が与えられたら、国が転覆する恐れを抱く人もいるかもしれません。ですから、選挙権がどうのこうのということではなく、ではどうしたらこの国で生まれたひとりのように感じていただくことができるのかを、本気で考えなければなりません。外国人の犯罪が増えているので、こうした外国人への偏見や無関心も多く芽生えていますが、そうしたことがかえって在日外国人を苦しめていることでもあります。でも、私たちクリスチャンはそうであってはいけません。在日外国人に親切にし、彼らが喜んで生活できるように配慮しなければならないのです。それが神によって贖われ、神の民とさせていただいた者としての聖い歩みなのです。

4.  正しいはかり(35-36)

最後に、35節から37節までを見て終わりたいと思います。ここには、「あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した。あなたがたの神、である。あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。わたしはである。」とあります。

「さばき」とははかりのことです。ますやものさし、はかり、分量において、不正をしてはならないということです。正しいてんびん、正しいおもり石、正しいはかり、ものさしを使わなければなりません。ごまかしはいけません。それが神によって贖われた者の、聖い歩みなのです。