イザヤ書58章1~14節 「神に喜ばれる信仰」

きょうは、イザヤ書58章から「神に喜ばれる信仰」というタイトルでお話します。3節に、「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」とあります。イスラエルは宗教的には熱心でしたが、その熱心は神に喜ばれるものではありませんでした。それは、いわば「霊的空回り状態」だったのです。私たちも注意しないと、同じような過ちに陥ってしまうことがあります。自分では熱心だと思っていてもその熱心が神のみこころからズレていると、イスラエルと同じように空回りしていることがあるのです。しかもそのことにさえも気付かないこともあります。  いったい神に喜ばれる信仰とはどのようなものなのでしょうか。きょうは、神に喜ばれる信仰について、3つのポイントお話したいと思います。

Ⅰ.見せかけの信仰(1-5)

まず第一に1~5節までをご覧ください。ここには、虚しい断食について記されてあります。1節と2節をお読みします。

「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」    これは、主がイザヤに対して語っていることです。主はイザヤに、イスラエルに対してせいいっぱい大声で叫ぶように、また、角笛のように、声を上げるように、と言っています。なぜでしょうか?神の民であるイスラエルに、ヤコブの家であるイスラエルに、そむきの罪があったからです。それを彼らに告げなければなりませんでした。彼らは日ごとに神を求め、神を知ることを望んでいましたが、実際には、神から遠く離れていたのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

3節から5節までところに、次のようにあります。 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」    確かに彼らは断食という行為そのものには熱心でしたが、そこに具体的な心が伴っていませんでした。神の義、神を求めているようでも、実際は自分の好むことを求めていたのです。たとえば3節後半に「断食の日」とありますが、これは「贖罪の日」と言って、イスラエルで年に一度行われていた罪が贖われる日のことです。レビ記16章に記されてありますが、この日には大祭司がいけにえの雄牛ややぎをほふり、その血を垂れ幕の内側、すなわち至聖所と呼ばれる所に携えて行き、罪の贖いをしました。その血を贖いのふたの上に、また回りに振りかけて自分自身とイスラエルのすべての民の罪を贖ったのです。そして、この日には断食することが定められていました(レビ16:29)。ところが彼らは年に一度どころじゃないのです。何回も、何回も断食しました。ゼカリヤ書8章19節には、「万軍の主はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい礼祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」とあります。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月もです。なぜでしょうか?神のために悔い改めるためです。彼らは自分たちがバビロンの捕囚になったのは神に対して罪を犯したからだと、その罪を悲しみ、悔い改めるしるしとして断食をしたのです。

そればかりではありません。そうした宗教的な熱心さはどんどんエスカレートして、週に二度も断食するようになりました。月曜日と木曜日にです。律法学者やパリサイ人たちはそうでした。ルカの福音書18章12節に出てくる取税人とパリサイ人の祈りの中で、パリサイ人が「私は週に二度断食し・・・」と言っているのは、こうした背景があったからです。

しかし、どんなに身を戒めて断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ全く意味がありません。彼らは断食の日に自分の好むことをし、労働者を圧迫していました。彼らが断食するのは争いとけんかをするためであり、不法とこぶしを打ちつけるためでした。宗教的には熱心でも、具体的な生活においてその実を見ることができなかったのです。全く変化がありませんでした。救われていない人のように振る舞っていたのです。そのような断食をどんなにしても、主に喜ばれるはずがありません。断食の本来の目的は心砕かれて神の前にへりくだることなのですから・・。それがなかったらどんなに断食をしても、空回りに終わってしまいます。そればかりではない。そのような信仰は、いつしか偽善的なものに陥ってしまいます。「偽善」とは、演技とか、芝居、見せかけという意味です。そうした見せかけの信仰になってしまうのです。宗教的でも中身がない。

ここでルカの福音書14章を開いてみましょう。3節のところに、イエス様は律法の専門家やパリサイ人たちに「安息日に病気をいやすことは正しいことですか、それともよくないことですか」とあります。そこに水腫をわずらっている人がいたからです。水腫とは、体内に必要以上に水分が溜まってむくみを起こす病気のことですが、当時は神から呪われた病気だと考えられていました。  ところで、ある安息日にイエスが食事をしようとして、パイサイ派の指導者の家に入られた時、そこに律法の専門家たちがこの水腫をわずらっている人を連れて来たのです。イエスをわなに陥れるためです。もしイエス様が安息日にこの人をいやすようなことをしたら律法を破ったと訴えることができます。  けれども、イエス様はそんな彼らの心を見抜いて次のよう質問されました。「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それとも、よくないことですか」 彼らは黙っていました。答えることができなかったのです。もし安息日に病気を直しても良いと言えば安息日の規則を破ることになるし、直してはいけないと答えれば、隣人の苦しみを放っておいてもいいのかということになります。どっちに転んでもよくありません。だから黙っていたのです。するとイエスはその水腫をわずらっている人を抱き、いやして、帰されました。それからこう言われました。

「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」(同14:5)

すると彼らは答えることができませんでした。なぜなら、彼らは律法の本意を理解していなかったからです。安息日に病気をいやすことが正しいことなのか、正しくないことなのかといった字面にとらわれて、それが意味しているところの本来の目的からズレていたのです。では安息日律法の目的は何だったのでしょうか。それは神を愛し、人を愛することです。律法全体はこの二つにかかっていると、イエスは教えられました(マタイ22:34~40)。いや、そんなのおかしい。イエスが間違っていると言われますか?イエス様は律法の完成であり、律法そのものが求めていた実体そのものです。それゆえイエス様は安息日の主とも言われていますが、そのイエス様がそう言うのですから、このイエスが言われることこそ正しいことであり、これが安息日の律法が定められた本来の目的だったのです。なのに彼らはそのことを理解していませんでした。自分たちは律法に忠実だとずっと思い込んでいた。しかしこのことを理解しないでどんなに律法を守っていたとしても、それは神の望むことではなく、彼らが作り出した宗教でしかありません。それは宗教という洋服を来た生まれながらの自分でしかないのです。そうした宗教はいつしか形骸化していき、単なる見せかけの偽善的なものに陥ってしまう危険性があるのです。

これは私たちも注意しなければならないことです。私はクリスチャンです。クリスチャンとしての務めをちゃんと義務を果たしています。ちゃんと礼拝に行っているし、献金もしている。家でもちゃんと聖書を読んで祈っています。だから自分はちゃんとしたクリスチャンだ!自分は大丈夫だ!といいながら、まだ自分の好むことをし、自分の思いのままに生きていることがあるのです。たとえば、礼拝に来ても別のことを考えていたり、礼拝ではいかにも敬虔そうに振る舞っていても、教会から一歩外に出た瞬間に夫婦ゲンカを始めてみたり、人の悪口を言って平気で歩き回ったり、他の人を批判したりとか、そういったことがあるのです。聖書を頭ではわかっていても心ではわからない。知識では理解していても霊的には理解していない。したがって、なかなか生活が変わらないのです。表面的にはクリスチャンだといっても中身が伴わないのです。もちろん、私たちは不完全な者であり、弱さを抱えている者ですから、神のみこころにかなった歩みなどできません。しかし、できなくてもそうしたいと心から願い求めるのが本当に救われた者、神の民の姿ではないでしょうか。なのにそうでないと、いつしかそれが見せかけの、偽善的な信仰に陥ってしまうのです。この律法学者やパリサイ人たちの問題はここにありました。

ヤコブ書2章14~17節をお開きください。ここには、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:14-17) とあります。

信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。それは行いがなければ救われないということではありません。本当の信仰にはこうした行いが伴っているものであり、そのように願っているということです。それがないとしたら、それはただの見せかけの信仰になってしまいます。

Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)

では、神の好む断食とはどのようなものなのでしょうか。6節と7節をご覧ください。

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」

ここには、神の好む断食とは、どのようなものなのかが教えられています。すなわち、悪のきずなを解き、くびきの縄目をほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことです。また、飢えた人に自分の食べ物を分け与え、家のない貧しい人々を家に迎え入れて、その人に暖かい寝床を用意し、裸の人に服を着せ、貧しい親戚の世話をすることです。すなわち困難に瀕している人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることです。これが神が喜ばれる断食です。

これは、先程読んだヤコブの手紙と一致しています。本当の信仰とは中身が伴ったものです。どういうことですか、中身が伴っているというのは・・・。自分の回りに苦しんでいる人がいたらそのなわめをほどき、実際的な助けを求めている人がいたら、その必要に応えてあげることです。ヤコブはこう言っています。

「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:26-27)

神の御前にきよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているのを見たらその人たちの世話をし、この世から自分をきよく守ることです。兄弟姉妹や隣人に無関心であったり、表面的に愛そうとすることではありません。宗教的なお勤めとそれにまつわるさまざまなおきてを守ることには熱心でも、自分の回りの人々の必要、教会の兄弟姉妹に無関心であったとしたら、それは本当の信仰ではないということになります。本当の信仰とは具体的に分け与えることなのです。なぜなら、分け与えることこそ神の愛の具体的な現れだからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神がイエスをこの世の与えられたのは、この世を愛しておられたからです。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。神は愛です。その愛は、大切なひとり子をこの世にお与えになることによって表されました。「愛は惜しみなく奪う」ということばがありますが、本当の愛は逆です。惜しみなく与えるのです。その愛によって救われた私たちは、これを分け与える者でなければなりません。

ゴールデンウィークはどこに行っても混雑しているので、私はどこにも行かないで家でDVDを観ていました。「シンドーラーのリスト」というDVDです。これは第二次世界大戦時のナチス党政権下のドイツによるユダヤ人の虐殺の中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1,100人以上ものユダヤ人を救ったという実話です。  1939年9月、ドイツ軍によってポーランドが占領され、この映画の舞台となったクラクフもドイツ軍の占領下に置かれました。ナチス党のドイツ人実業家オスカー・シンドラーがこの町にやってくると、戦争を利用してひと儲けしようともくろみました。潰れた工場を買い取ってほうろう容器工場の経営を始めたのです。  やがてナチスから残虐な少尉がクラクフの強制収容所の所長として送られて来ると、彼は次々とユダヤ人を虐殺し始めました。それを見たシンドラーは、それまで金儲けにしか関心がありませんでしたが、心境に変化が生じてきました。そして、彼はあるリストを作りました。それはユダヤ人の子供や大学生を熟練の金属工と称して工場で働かせることです。  やがてソビエトの侵攻によって、クラクフ強制収容所の施設の解体を余儀なくされると、そこにいた20,000人以上のユダヤ人がアウシュビッツ収容所に移送されることになりました。そこでシンドラーは立ち上がり、故郷のチェコスロバキヤに工場を再開させ、そこに移送予定のユダヤ人を「労働力」として連れて行くことにしたのです。そのユダヤ人のリストがシンドラーのリストです。それは命のリストと呼ばれ、1,100人以上に上りました。しかし、そのために彼はユダヤ人を贖うために多額のお金を少尉に支払わなければなりませんでした。ユダヤ1人当たりいくらいくらという値段で。彼は自分の持てる財産のすべてを使って、懸命にユダヤ人を救ったのでした。  やがて戦争が終わりユダヤ人が解放された時、彼はユダヤ人にこう言うのです。「申し訳ない。自分にもっとお金があったら・・・。もっと救うことができたのに・・。」  救われたユダヤ人たちは彼が必死で自分たちを救ってくれたことを感謝し、やがてイスラエルの栄誉の賞を彼に授けました。杉原千畝氏とともに。

皆さん、これが愛です。愛は惜しみなく自分を与えることです。愛は惜しみなく奪うという言葉がありますが、本当の愛は違います。本当の愛は奪うのではなく与えるのです。神がそのひとり子をこの世にお与えになったほどに愛されたように、私たちの最も大切なものを与えること、それが愛です。これが神が好まれる断食であり、見せかけでない本物の信仰なのです。

皆さんはどうでしょうか。神の栄光のために、隣人のために、自らを喜んで与えておられるでしょうか。なかなかできることではありません。本当にわがままで、自己中心的な私たちは、自分のことしか考えないからです。自分さえよければいいという思いがあります。しかし、神の好まれる断食とは何か、それはこのように喜んで分け与えることであることを覚え、そのように歩めるように愛の源であられる主に求めていきたいと思います。

Ⅲ.そのとき(8-14)

さあ、最後にこのように中身伴った信仰者として生きるとき、どんなことが起こるのかを見て終わりたいと思います。8節から終わりまでを見てください。ここには「そのとき」ということばが3回出てきます。8節、9節、14節です。まず8節をご一緒に読みましょう。

「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」

そのとき、暁のようにあなたの光がさして、あなたの傷はすみやかにいやされます。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復される」という意味です。偽善によって腐り果てた魂が、みことばを聞きそれ従う時、すみやかな回復が始まります。

ところでここには「あなたの光がさしいで」とありますが、これは不思議な表現です。イスラエルには、私たちには光などありません。私たちの信仰は腐っているわけですから・・。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは彼らが持っている光ということではなく、彼らが信じ、神から受け取った光のことです。この光は暗闇を照らす光であり、そこには新しい力、回復があるのです。イエス様はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持ちのです。」(ヨハネ8:12)

またヨブ記11章17節には、「あなたの一生は真昼のように輝き、暗くても、それは朝のようになる。」とあります。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなるのです。この光にはそれほどの力があるのです。その光によってあなたの傷はすみやかにいやされるのです。このような光によって歩めるということは何と幸いなことでしょうか。

それだけではありません。その後のところにはこうあります。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」これはどういうことかというと、神がいつもあなたとともにいて、あなたの人生を導いてくださるということです。かつてイスラエルがエジプトを出た後で荒野に導かれました。どこに進んだらいいかわからないとき、昼は雲の柱が、夜は火の柱をもって彼らを導かれました。そのように神は人生の荒野を進む私たちの道を照らし、導いてくださるのです。  ここにも「あなたの義」とありますが、これもあなたが作り出す義のことではなく、あなたが信じて、受け取った義のことです。

9節をご覧ください。ここに第二の「そのとき」が出てきます。「そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、「わたしはここにいる」と仰せられる。」 あなたが「神様!」と呼ぶと、神様はすぐに答えてくださいます。いくら呼んでも答えてくださらないのではなく、主は答え、「わたしはここにいる」と言われるのです。 いったいなぜ主は答えてくださらないのでしょうか。あなたの中に罪があるからです。くびきをのぞこうとしない、人のうしろ指を指してみたり、つまらないおしゃべりに終始してしまう。そのような罪があるので答えてくださらないのです。もし私たちが飢えた人に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、主はすぐに答えてくださいます。

11節と12節をご覧ください。ここも一緒に読みたいと思います。 「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。」    すごいですね。あなたがどのような土地にいても、主は絶えず、あなたを導いて、潤された園のようにしてくださいます。水のかれない源のようにしてくださるのです。どんな状況でも、内側から泉のようにいのちの水が溢れ出るようになるのです。また、彼らのある者たちは、バビロンによって破壊された神の都エルサレムの神殿も建て直し、「破れを繕う者」、「市街をすめるように回復する者」と呼ばれるようになる、ということです。主の祝福、主の守りを受けた者は、破壊者ではなく、回復する者と呼ばれるようになるのです。

そして14節には、「そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう」とあります。13節では再び安息日のことが語られていますが、これも同じ事です。この安息日の意味を理解して、自分たちを贖ってくださった主への感謝と喜びをささげ、心から主を礼拝するなら、主はあなたを喜びとし、ヤコブのゆずりの地で、あなたを養ってくださるというのです。

このような祝福がもたらされるのです。皆さんはどうでしょうか。神が望まれる断食、神が喜ばれる信仰を求めておられるでしょうか。表面的には信仰に熱心なようでも、実はその信仰がズレていることもあります。そうではなく、神に喜ばれる信仰を求めていきたいと思います。

先週、私は同盟の総会に行っておりましたが、そこで親しくさせていただいているある牧師のレクチャーを聞きました。それは今は絶版になっているそうですが、アメリカのピーター・スキャゼロという牧師が書いた「情緒的に健康な教会をめざして」という本についてでした。実は先生はこの本を翻訳されたわけですが、この本を翻訳する中でいろいろ考えさせられたというのです。私たちの中に信仰の成熟を妨げている心の傷があるということです。多くの場合、それはその人の生育歴と深く関わっているわけですが、そこに福音の光が当たらないと、つまり全人格的に福音の恵みによって取り扱いを受けないと、どんなに福音のメッセージをかたってもそれが単に知識だけのもので終わり、自分自身の中にみことばが深く入っていくことができないということです。つまり、信仰が表面的なものになってしまい、その人の生活が変わるところまではいかないのです。Ⅰテサロニケ5章23節には、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られるように。」とありますが、霊、たましい、からだといった全人格的なものにならないというのです。

その話の中で、先生が牧会しておられる教会のことを分かち合ってくださいました。その教会には病院の看護師として働いておられる型がいるのですが、この方は信仰をもって40年も経つな方で、忠実に信仰を守り、奉仕も熱心にされる方なのですが、どこか冷たいのです。たとえば、この牧師はアメリカでの生活が長いため日本の習慣がわからないことがあるんですが、そのようなことを見ると、「先生はアメリカでの生活が長いからわからないんですよね」と言われたり、あるいは、毎週金曜日に行われている早天祈祷会にいらっしゃったので、牧師うれしくて、「いや、よくいらっしゃいました。うれしいです。一緒に祈りましょう。」と言うと、「いや、ただどんな感じか観察に来ただけですから」と言われるのです。どこか人ごとなのです。神の懐の中になかなか飛び込んで来れない。いったいなぜだろうかとずっと悩んでいました。  ところが、このことについて学んでいたとき、気付かされました。もしかするとこの方の中に何か傷があって、それが邪魔をしてみことばが入っていけなくなっているのではないか・・・と。  それである時彼女を呼んでお話を聞いたのです。すると彼女はこんなことを言われました。 「先生。先生はよくお話の中で結婚とか家族の話をされますが、よくわからないんですよね。」  この方は結婚しないでずっと独身で来られたので、そのような話を聞く度にそれを受け入れることができなかったのです。しかし、彼女の方からそのように心を開いて打ち明けてくれたので、その気持ちをそっくりそのまま受け入れたとき、彼女が少しずつ変わり始めました。みことばを素直に受け入れることができるようになったのです。そして心から主に仕えることができるようになりました。  その教会にモンゴルから来ている若い青年がいるのですが、あるときこの青年がB型肝炎にかかりました。すると彼女は彼を我が子のように受け入れて、よく看病するようになりました。もちろん看護師としてずっと仕えてきたので当然といえば当然かもしれませんが、違うのはそれが表面的な関わりではなかったことです。彼の治療代を全部負担してまで看病してくれたのです。

いったいなぜ彼女はそこまで変わったのでしょうか。福音の恵みが単に頭だけでなく情緒的な面でも深く取り扱われたからです。その心の深いところに福音の光が照らされたからです。その結果、信仰が表面的なものではなく、本当に心からのものに変えられたのです。

それこそ神に喜ばれる信仰ではないでしょうか。私たちがこの福音の恵みを聞くときそれを人ごとのようにではなく自分のこととして、それを心で受け止める。それを自分の生活に実際に適用していくなら、神が必ずあなたを変えてくださいます。ヤコブは、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と言っていますが、皆さんどうでしょうか。ただ聞くだけの者になってはいなかったでしょうか。心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れましょう。そして、私たちが神に喜ばれる者になれるように、そのみことばを実行する者であれりたいと思います。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができるからです。