「神に喜ばれる信仰」 No.92
イザヤ書58:1~14
Ⅰ.見せかけの信仰(1-5)
主はイザヤに、「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。」(1)と言われた。なぜだろうか。イスラエルにそむきの罪があったからである。その罪を彼らに告げなければならなかった。イスラエルは日ごとに神を求め、神の道を知ることを望んでいたのに、実際には神から遠く離れていた。確かに彼らは断食という宗教的な行為には熱心だったが、中身が伴っていなかった。断食の日に自分の好むことをし、労働者をみな、圧迫していた。彼らが断食するのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ち付けるためであった。そのような断食は神に認められるものではない。それはただの見せかけの、偽善的なものでしかない。どんなに熱心に断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ虚しく、すべてが空回りする。
Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)
では、神が好まれる断食とはどのようなものなのだろうか。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くちびるのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」(6-7)すなわち、困難の中にいる人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることである。なぜなら、分け与えることこそ神の本性であり、その愛によって私たちも救われたからである。神の愛によって救われた私たちは、この愛を分け与える者でなければならない。
Ⅲ.そのとき(8-14)
そのとき、どのような祝福がもたらされるのだろうか。8節には、そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。」とある。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復する」とも訳される。偽善によって腐り果てたたましいが、みことばを聞き、それに従うことによって、すぐに新しい回復が始まる。それは暁の光のようだ。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなる。
そればかりではない。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」とある。昼は雲の柱、夜は火の柱のように、主があなたの前を進み、あなたの道を導いてくださるだけでなく、あなたのしんがりとなって守ってくださる。
また、「そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。」(9)「神様!」と呼ぶと、即答してくださるというのだ。今まではそうではなかった。いくら呼んでも答えてくださらなかった。なぜなら、彼らの祈りは形式的なもので、自己満足の祈りにすぎなかったからである。しかし、今は違う。あなたが叫ぶと、主はすぐに答えてくださる。
また、11節には、「主は絶えず、あなたを導いて、焼け付く土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水の枯れない源のようになる。」とある。どんな状況でも、泉のように内側からいのちの水が流れ出るようになる。まさに「楽園」のようになるのだ。
何という祝福であろう。神のみこころに従って神が望む断食をするなら、神が私たちをこのように祝福してくださる。そんな幸いな人生を歩ませていただきたい。それはあなたが好むような断食ではなく、神が好む断食を求め、あなたの心が神と一つになって歩むことによってもたらされるのである。