レビ記20章1~27節

1.  モレクに自分の子どもを与えるなら(1-5)

レビ記20章を学びます。まず1~5節までをお読みします。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならモレクを慕って、淫行を行うみだらな者をすべて、その民の間から断つ。」

ここには、もしイスラエルがモレクに自分の子どもを与えるようなことをした場合どうなるかが教えられています。モレクとはアモン人とモアブ人の信じていた神々、偶像のことです。その特徴は自分の子どもをいけにえとしてささげるということでした。望まずに出来た子どもをどのように処理したらいいか。彼らはそれをモレクの偶像にささげたのです。それは当時の堕胎処理の方法であったわけです。そのように自分の子どもをモレクに与えるものはどうなるか?だれでも必ず殺されなければなりませんでした。石で打たれなければならなかったのです。それは異教的な習慣であり、神が忌み嫌われることだったからです。それは神の聖なる御名を汚すことでもありました。ですから、そのようなことをする者は、殺されなければならなかったのです。もし殺さなかったらどうなるでしょうか。神はその人その家族から顔をそむけ、彼にならいモレクを慕って淫行を行うみだらな者すべてを、その民の間から断たれました。

2.  霊媒や口寄せ(6-8)

次に6~8節をご覧ください。

「霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、であるからだ。あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行うであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする。である。」

霊媒と口寄せについては19章で学びました。「霊媒」とは、あたかも死者の声を取り次ぐように話すこと、「口寄せ」とは、未来のことを知ろうとすることです。つまり、神とか、キリストを介することなく霊の世界と交わることです。おがみやとか、占いやオカルト、超能力といった類のものです。これらはみな悪霊によるものであり、汚れたものです。もしそのようなところにおもむき、彼らを慕って淫行を行うようなことがあるとしたら、神はその者から顔を背け、その者をその民の間から断たれます。そのようにして自分の身を聖別しなければなりませんでした。

3.  両親への反抗(9)

9節にはこうあります。「だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。」

つまり、両親への執拗な反抗は、死刑に値するということです。なぜなら、両親は神の代理者であったからです。自分の父と母を敬うことは、神の第一の戒めなのです(エペソ6:2)。

4.姦通(10-21)

次に、10~21節までをご覧ください。

「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。かれも彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。人がもし動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺さなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現したのである。ふたりはその民の間から断たれる。母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。」

ここに記されてあることは、既に19章に出てきたことです。一言で言えば、性的な汚れです。10節には、「他人の妻と姦通するなら」どうなるか、11節には「父の妻と寝るなら」どうなるか、これは必ずしも自分の母親ということではなくその背後に一夫多妻制の背景があることは前に説明したとおりです。12節、息子の嫁と関係を持った場合、13節には、同性同士の関係について語られています。14節には女を母といっしょにめとることについて、15節と16節では動物と関係を持つこと、17節では姉妹の裸を見ることについて、18節では生理中の女性との性行為する場合、19節、20節では叔父、叔母と関係を持ったらどうなるか、そして、21節では自分の兄弟の妻をめとるようなことをしたらどうなるかについてです。そして、このようなことを行う者はすべて殺される、あるいは、イスラエルの共同体から断ち切られるとあります。問題は、こうした処罰が現代の私たちにも適用されるかということです。それはありません。

の福音書8章1~11節までを開いてください。ここには、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られたことが書かれてあります。律法では、このような女は石打にするようにと命じていました。そこで彼らは彼女をイエスのもとに連れて来て、イエスがどのように言うかをためそうとしたのです。もし石打にすべきであると言えば、何とあわれみのない者かと言われるでしょうし、かといって石打にする必要はないと言えば、律法に背くことを言ったと言って捕らえることができたからです。それでイエス様はどうされたかというと、しばらくの間身をかがめて、地面に何やら書いておられました。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、身を起こしてこう言われたのです。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そう言うと、もう一度身をかがめて、地面に書かれたのです。そして、だれも彼女に石を投げる人がいないのを見ると、女に言いました。「あの人たちはどこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めない。」

皆さん、イエス様は私たちを罪に定められません。なぜでしょうか。イエス様がその罪に対する刑罰を受けてくださったからです。この律法の要求は、イエス様が十字架に架かって死なれることによって実現したからです。律法の要求がどうでもいいということではないのです。律法は律法として、ちゃんと実行されなければなりません。そして、その律法によれば私たちは死刑なのです。しかし、キリストが代わりにその刑罰を受けてくださったので、私たちは受ける必要がなくなったのです。

ということは、私たちは何をしてもいいということなのでしょうか。そうではありません。その国、その国において定められた法律があります。神は不信者であってもそのような支配権を行使されることをお許しになられました。その法によってさばかれることはあるのです。

しかし、仮に法律に違反していないことであっても、神の恵みを侮り、あくまでも罪を犯し続けているようなことがあれば、神はご自身の民から断ち切られることがあるのです。(Ⅰコリント6:9-10,ガラテヤ5:19-21,エペソ5:3-6)ですから、もし私たちがこのような神のみこころにかなわず、神の定めに反するようなことをしているとしたら、その罪を悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じなければなりません。そうすれば、私たちのすべての罪は赦されるのです。イエス様が代わりに受けてくださったからです。また、イエス様を信じて罪を犯すようなことがあれば、というか、私たちは罪を犯さずには生きていけないような罪深い者ですから、その罪をいつも悔い改めなければなりません。あの律法学者やパリサイ人たちのように、イエス様から、「あなたがたの中で罪のない者から石を投げなさい」と言われたときに、石を置いて、一人また一人立ち去って行ったように、自分の罪深い心を見て、悔い改めなければならないのです。

5.えり分けられた民(22-27)

最後に22節から27節までを見て終わりたいと思います。

「あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行うなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行ったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、である。あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また、汚れた鳥ときよい鳥を区別するようになる。わたしがあなたがたのために汚れているとして区別した動物や鳥や地をはうすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」

この時イスラエルはまだシナイ山にいたのでまだカナンの土地に定住していませんでしたが、これから入って行こうとしていたカナンの土地の風習に従って歩んではならないと命じられます。それはなぜでしょうか。それは、彼らがえり分けられた民だからです(24,26)。神は彼らを国々の民からえり分けられました。ですから、彼らはその土地の風習やならわしをまねるのではなく、彼らを贖ってくださった神である主の戒めを守り行わなければならなかったのです。

その最初は食物の規定でした(25)。きよい動物と汚れた動物を区別しなければなりませんでした。それはいったい何のためだったのかというと、イスラエルが他の民族と区別されていることを示すためでした。26節にあるように、それは彼らが聖なるものとなるためでした。彼らはもはや自分自身のものではなく、神のものとなりました。代価を払って買い取られました。ですから、神のものとなるために、自らを聖別しなければならなかったのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。Iコリント6:19-20には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちは神のものとして、まず区別することが求められているのです。神の栄光のために、神が望んでおられることを行い、神のものとして生きることが求められているのです。