きょうは、「救いは主の御手の中に」というタイトルでお話します。イザヤは、58章でイスラエルの問題について触れました。それは、彼らの信仰は形だけで中身がなかったということです。行動が伴っていませんでした。この59章ではその根本的な問題を取り上げています。それは罪の問題です。彼らが自分の信仰を具体的な行動に移さなかったのは、根本的に罪があったからなのです。いったいどうしたらこの罪の問題を解決することができるのでしょうか。それはただ神の御手の中にあります。
Ⅰ.神との仕切り(1-8)
まず1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」
イスラエルは自分たちがバビロンに捕えられたのを神のせいにしていました。そして、神は自分たちを見捨ててしまったと嘆き、恨んでいたのです。しかし、神が彼らを見捨てたのではありません。彼らが神に背いたのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。彼らがそのようになったのは、すべて彼ら自身に原因があったのです。
私たちはしばしば、自分が罪を犯すと、神が怒られて、自分から遠ざかれたのではないかと考えますが、そうではありません。神が遠ざかれるのではなく、私たちの方が遠ざかるのです。私たちの咎が、神との間の仕切りとなり、御顔を隠させているのです。アダムのことを考えてみてください。アダムが罪を犯したとき、神は彼から遠ざかれたでしょうか。いいえ、神ではなく、アダムの方が遠ざかりました。食べてはならないと神が命じておられた木から取って食べたとき、彼は神の御顔を避けて、木と木の間に身を隠したのです。「アダム、あなたはどこにいるのか」と神が呼びかけても、彼は神の前に姿を見せようともしませんでした。神を恐れたからです。もともと人間は神によって造られ、神を愛し、神と交わるように造られたのに、その神から遠ざかってしまったのです。何が問題だったのでしょうか。罪です。アダムは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなってしまいました。主の御手が短くて救えないのではないのです。その耳が遠くて聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。
その結果、人間はどうなってしまったでしょうか。3節から8節までをご覧ください。まず3節から6節までのところを読みます。 「実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。」
ここには手と口の犯す罪にいつて書かれてあります。実に、手は血で汚れ、指は咎で汚れています。くちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやきます。正しい訴えをする者も、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言います。人を陥れるような言動をし、事実、人を陥れるのです。それはまさにまむしの卵から毒蛇(まむし)をかえすようなものです。まさに毒舌ですね。また、「くもの巣を織る」とあるように、他の人をわなに陥れるようなことをするのです。
そして、7節と8節も読んでみましょう。 「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」
今度は彼らの足です。彼らの足はどうでしょうか。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速いのです。彼らは平和の道を知らず、その道には公平がありません。彼らは自分たちの道を曲げ、そこを歩く者はだれも、平和を知らないのです。これが人間の姿です。
パウロはローマ人への手紙3章9~18節で、この箇所を引用してこう言っています。 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
パウロは、すべての人が罪の下にあることを示すために、この箇所を引用してこう述べたのです。最初の人アダムが罪を犯したので、すべての人が罪の下に置かれるようになってしまいました。それはユダヤ人も例外ではありません。すべての人です。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなってしまいました。それは私たちも同じです。私たちはそんなひどい人間じゃないと思うかもしれませんが、しかし、それはコップの下に沈んでいる泥のようなものであり、その水をかき混ぜると水全体が濁るように、いつでもこれらのことを起こしえる者なのです。
このような罪の問題を、いったいどうやって解決しろというのでしょうか。あなたの意志で断ち切ることができますか。断食という方法で解決できるでしょうか。できません。私はよくダイエットを決行するのですが、ただの一度さえ成功したことがないのです。人間の意志は強そうでも、意外ともろいものです。そのような意志でいったいどうやってこの罪を断ちきることができるというのでしょうか。パウロは、この罪を断ち切れない自分のみじめさをこう告白しています。
「私は、ほんとうにみじめな人間で。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(ローマ7:24)
これは罪に立ち向かった人間の赤裸々な告白です。だれもこの死の、からだから救うことができる人はいません。だれもこの罪の問題を解決できる人はいないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。
Ⅱ.罪の告白(9-15)
9節から15節までをご覧ください。9節をご覧ください。 「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」 ここから主語が「私たち」に変わっています。これまでは「彼ら」が主語でしたが、ここからは「私たち」です。なぜでしょうか。ここから、罪の告白が始まるからです。これまで彼らは自分の罪の姿を嫌というほど見せつけられましたが、そのことに同意して、自分たちがそのように汚れたものであると認めているのです。つまり、この罪の解決は、自分の罪を認めることから始まるということです。 その罪を認め、それを告白することから始まるのです。
ここに「私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」とあります。これが人類の営みではなかったでしょうか。人類は自分たちの英知と不断の努力によってもっといい社会を築くことができると躍起になってきましたが、実際はどうだったかというと、全く逆の結果でした。文明が発達して、争いや戦争のない平和な世界になったでしょうか。なっていません。光を待ち望んだのに、かえって闇の中を歩むようになりました。かえって昔の方が平和だったと、多くの人が気づき始めています。文明の発達は必ずしも幸福な世界へと導くことはできませんでした。
10節を見てください。それはまさに盲人のようです。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようです。これからどういう方向に進んでいったらよいのか分からない状態です。また、熊のようにほえ、鳩のようにうめいても、そこに公義も救いもありません。まるで現代の世界を描いているかのようですね。問題が山積しいますが、それをどう処理したらいいかわからないまま、また次の問題が出て来ています。真の解決に近づくどころか、それはますます遠ざかっていくのです。
それはなぜでしょう。12節をご覧ください。 「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」 すばらしい告白です。「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの咎が、私たちに不利な証言をするからです。」と正直に認めています。そして、「私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」と告白しています。私たちの罪は、単なる行為としての罪ではなく、常に自分にまとわりついている性質としての罪だと告白しているのです。パウロのことばで言うなら、「ほんとうに私はみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出すことができるでしょうか」というのと同じです。本当に罪深い者であり、もうどうしようもない人間なのです、と告白しているのです。
13節と14節をご覧ください。 「私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。」
これは、先程3節から8節までのところで、「あなたがたはこうだ」と神が言われたことに対して、「そうです、その通りです」と、それをそっくりそのまま認めている形になっています。主語が「私たち」に変わっただけです。しかし、ここから本当の救いが始まります。15節の終わりのところには何とあるでしょうか。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」とあります。主はそれを見て心を動かされたのです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのを見られて、心を痛められたのです。
Ⅲ.主の救い(16-21)
ではどこに救いがあるのでしょうか。ここに救いがあります。救いは主の御の中にあります。16節をご覧ください。ここには、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」とあります。
どういうことでしょうか。これは、主はこの罪から救うことのできる人がいないのを見て、とりなす者がいないのを見て驚かれたという意味です。かつてイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、金の子牛を拝み、神の怒りを招いて滅ぼされそうになりましたが、その時モーセは神と民との間に立って、こう祈りました。
「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:32)
モーセは神と民の間に、その破れ口に立って祈ったのです。しかし、今の時代、そのように破れ口に立ってとりなす人はいません。人間の側には、この罪から救うことのできる人は誰もいないということです。
だからこそ、主が立ち上がってくださったのです。だから主はご自身の御腕によって救いをもたらしてくださるのです。神は今から二千年前にイエス・キリストをこの世に遣わし、その救いの御業を成し遂げてくださいました。罪から救うことのできる人はひとりもいないので、イエスさまがこの世に来られ、神と人の破れ口に立つかのようにして十字架にかかって死んでくださいました。そして、「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのですから。」と言ってとりなしてくださったのです。ですから、ここは、救い主としてイエス・キリストが来られるということの預言なのです。「ご自分の義を、ご自分のささえとされた」とは、ご自分のひとり子、罪を知らない方を基として義を確立されたということです。
17節をご覧ください。ここには、「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。」とあります。
ここでは義や救いが身につけるものとして表現されています。それは私たちがこの義を身につけることによって、神の前に認められるようになるという意味です。これが信仰による義です。パウロはⅡコリント5章21節でこう言っています。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)
また、ローマ人への手紙3章23~24節でも、こう言っています。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
私たちはこの罪から自分を救うことなどできません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから、神の救いであるイエスの衣を着なければなりません。一生懸命にいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおい作るのではなく(創世記3:7)、神が用意してくださった皮の衣(同3:21)、義の衣を着なければならないのです。どんなにいちじくの葉を綴りあわせても、そんなのはすぐに枯れてしまうでしょう。そんなのはあなたを救うことなんてできません。あなたを救うことができるのは、神が用意してくださった皮の衣です。その皮の衣こそイエス・キリストであります。
あなたはこの義を身につけているでしょうか。神が用意してくださった皮の衣を着ておられるでしょうか。私たちが救われる唯一の道は、この義を着る以外にはありません。私たちはこの方にあってのみ、神の義と認めていただくことができるのです。
ところで、ここには「復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身におおわれた」とあります。これはどういうことでしょうか。この「復讐」とか「ねたみ」とは、「しっと」という意味ではなく、「主の熱心」という意味です。神が、義と救いとさばきにおいて、熱心に働かれるということです。まさに救いは私たちの力ではなく、主の熱心によるのです。
18節と19節を見てください。 「主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」
これはどういうことかというと、主は報復するために、激しい流れのように来られるということです。つまり、これは再臨の預言なのです。イザヤの時代にはまだメシヤ、救い主キリストが来ていなかったので、キリストの初臨と再臨が一つの山脈のように重なって見えているのです。しかし、実際にはそこには時間的なズレがあって、山と山の間のくぼみのようになっているのです。そして、私たちはまさにそのくぼみの中にいるわけです。もう救い主は来られました。しかし、主は再びやって来られます。その時に主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をされるのです。そして、西の方では、主の御名が、日の昇る方では、主の栄光が恐れられます。それはまるで激しい流れのようです。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくるのです。私たちは今、それを待ち望んでいるのです。それは私たちにとっては救いの完成の時でもあるからです。
昨年、台風が次々に日本列島を襲い、各地に大きな被害をもたらしました。テレビでは京都の桂川の堤防が決壊し、川の水がものすごい勢いで観光地を呑み込んでいく映像を流していましたが、まさにそのような激しい流れのように、再び主がやって来られるのです。イエス様が最初に来られた時には主のしもべとして、ほんとうに見るべき麗しい姿もなく、私たちに仕えるために来られましたが、再び来られる時には、栄光の王として、キング・オブ・キングス(King of Kings)として、栄光のうちにやって来られるのです。このようなことを申し上げると、世の中の人は言います。「へ-え、イエス様がもう一回来るの?ウソだ!」と。また「聖書も教会もおもしくていいし、精神的にもいいこと言ってるんだけど、人が水の上を歩いただの、死んだ人が生き返ったとか、イエス様が再び来られるだの、そんなのはいただけないな。この時代に」という人もいます。けれども、そうではありせん。聖書には、私たちのいいなと思うところもあれば、どうかなぁと思うところもありますが、しかし私たちがどのように思おうが、キリストが再びおいでになられる時にはせき止められた堤防が決壊するような勢いでおいでになられるのです。
今は、「そんなのあるはずがない。あるなら、いつくるんだ」と全く信じられないようですが、それはちょうどノアの時代と同じです。ノアの時代もそのように言ってノアをバカにしていましたが、主はそのことばの通り洪水でこの地上を滅ぼされました。ただ箱舟に入ったノアとその家族だけが救われたのです。それと同じように、主のさばきの時、再び来られる日がやって来ます。それがまだ起こっていないのは、Ⅱペテロ3章にあるように、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われるのを望んでおられるからなのです(Ⅱペテロ3:9)。しかし皆さん、その日は確実に近くなっています。ジワリジワリと水の量は増しています。やがてせきとめられた堤防が決壊するような形で、栄光の主がやって来られるのです。皆さんは、その時のための備えが出来ているでしょうか。イエス・キリストという救いの箱舟の中に入っておられるでしょうか。
最後に21節を見ておわります。 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。」
これが神が私たちと結ぶ神の契約です。この契約のことばはいつまで経っても絶対に変更されることはありません。これが救いの道です。私たちが自分ではどうすることもできなかった、自分をがんじがらめに縛っていた罪の縄目から救われるために神が用意してくださった唯一の救いの方法なのです。救いはただ自分自身のために神に助けを呼び求める者に与えられます。自分の罪を正直に認め、神にあわれみを請う者に、とりなし手であられるイエス・キリストを通して与えられるものなのです。あなたはこの救いを受けておられるでしょうか。
最近、私はこの本を読みました。これはアメリカのNASAでも働いたこともある韓国の科学者キム・ヨンギルという人の証です。シントロピーというのはエントロピーの反対で、調和とか、秩序という意味です。彼の人生がどのようにエントロピー、すなわち無秩序と崩壊、混乱の人生から、シントロピー、調和と秩序ある人生に回復されたかということが証されています。結論から言うと、それはイエス・キリストを信じることによってです。この天地を造られたお方こそ、この世界と私たちの人生にシントロピーをもたらすことができるということです。それにしても彼は一流の科学者です。その彼がどうやってイエス様を信じることができたのでしょうか。この本によると、彼は神様についてもっと知りたいというチャレンジを受け、ヨハネの福音書から読み始めるのですが、早くも2章のところで躓きます。カナの婚礼で、イエス様が水をぶどう酒に変えたという奇跡です。水を運んでいる間に化学方程式がH2OからC2H5OHに一瞬にして変わるのです。科学を信奉していた彼にとって、到底受け入れることのできない出来事でした。元素を変化させる核融合反応は常温では起こりえないからです。奥さんは小さい頃からクリスチャンの家庭で育てられた敬虔なクリスチャンですが、その奥さんに、こんなナンセンスなことがあるのかと質問すると、奥さんの答えはいつも簡単です。「そうやって問い正さないで聖書の言葉をただ信じるのよ。そんな疑って問い詰めてばかりいたら神様も気分を害されるでしょ。だから、ただ信じなさい。」ですから、疑問はたくさんありましたが、その疑問を脇に置いておいて、最後まで読んでみようと決心し、読み続けると、今度は6章です。ガリラヤのテベリヤ湖の向こう岸の山に登られたイエス様は、ついてきた群衆が牧者のいない羊のようなのをみてあわれまれた。夕暮れ時だったので、イエス様は弟子たちに、彼らに夕食を食べさせるようにと命じられました。そんなの無理です。こんなへんぴな所で、店もないし、あったとしても、これだけの人たちにどうやって食べさせろと言うんですか、と言うと、そこに少年が差し出した大麦のパン五つと小さい魚二匹をとり、感謝をささげて五千人あまりの人々に分け与えられました。彼らが十分に食べた後も多くのパンと魚が残ったと、聖書は記しています。これは科学者にとって、水がぶどう酒に変わることよりももっと信じがたい出来事でした。なぜなら、エネルギーの総量が変化してしまい、科学の基本法則であるエネルギー保存の法則、つまり、熱力学第一の法則に反するからです。 それで彼は信じられなくなってしまうのです。そして、妻に、約束とおり教会には行くけど、聖書は到底信じられない、と言いました。 しかし、NASAの同僚のクリスチャンたちが彼のために断食をして祈ってくれたそうです。自分のために食事もしない人がいるなんて、こんな迷惑なことはないと思いながら、もう一度創世記から読み始めたのです。そして、そこに記されてあるイエス・キリストについての預言を確かめたのです。それは数百回以上記されてありました。これには驚きました。というのは、科学の世界では常に人間の知識と理性を土台に組み立てられているので、たった1秒後に何が起こるかを確信して、預言することすらできないからです。なのに聖書は、旧約時代の約千年にわたって記された預言が新約の時代にことごとく成就しているのです。それは、聖書の御言葉が人間の知識や知恵ではなく、神に啓示によって記されたことを証明していました。そうした聖書の黙想と科学的な知識の探求から、創造主は実在し、人の人生を治めておられるという結論に到達しました。そして、ハル・リンゼイという人が書いた「惑星地球の解放」という本を読んだとき、彼がこれまで抱いていた様々な疑問が解決して、これまで断片的に蓄えてきた聖書の知識が一気につながり始めました。まるであちこちに散らばっていたジクソーパズルのピースがあるべき位置に納まり、一つの絵が完成したかのようでした。
「神は、実に、そのひとり湖をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
この御言葉の中に、神が私たちを救われた理由、代価、方法、そして結果のすべてが記されていることがわかりました。神が私たちを救われたのは、神の愛のゆえなのだということが・・・。私たちを救うために、神はひとの子であられるイエス様のいのちを私たちの人間の罪の負債の代価として支払われました。このことを信じるなら、私たちは永遠の滅びから救われ、永遠のいのちが与えられるということがわかったのです。これが福音であり、恵みなのです。彼は長い霊的漂流生活を終え、創造主であり、救い主であるイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。
「この方以外に救いはありません。世界中でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
このイエス・キリストだけが救い主であり、このイエスを救い主として受け入れるとき、あなたも罪から救われ、これまで崩壊と混乱でしかなかったあなたの人生に、秩序と調和の回復が、シントロピーがもたらされるのです。
あなたはイエスを信じていますか。信じて救われていますか。救いはただ主の御手の中にあります。このイエスを信じて、あなたも人生のシントロピーを体験してください。