レビ記22章1~33節

レビ記22章

きょうはレビ記22章から学びます。21章では神に祭司に対して汚れから遠ざかるようにと教えられていましたが、きょうのところはその続きです。ここには祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないことが教えられています。まず1~9節までを読みましょう。

1..聖なるささげ物(1-9)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるもとのすべきものである。わたしはである。彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人がのために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしはである。アロンの子孫のうち、ツァラアトの者、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしはである。彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別するである。」

21章に続きアロンとその子ら、すなわち祭司たちに語られています。先週もお話したように、この祭司というのは私たちクリスチャンのことでもあります(Ⅰペテロ2:9)。その祭司に対してどんなことが言われているでしょうか。2節には、「イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。」とあります。どういうことですか?祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないというのです。具体的には3節の内容です。汚れたままで聖なるものに近づいてはならないということです。「聖なるもの」とは、主にささげられた聖なるささげもののことです。そのささげものに汚れたまま近づいてはいれないということです。その汚れとは具体的にどのようなものなのかが4節~8節にあります。すなわち、ツァラートの者、漏出のある者、死体によって汚された者に触れる者、精を漏らす者、人を汚す、群生するものに触れる者、どのようなものでも、人を汚れさせる人にふれる者です。覚えていますか、ツァラートや漏出のある者は隔離され、宿営の中に入ることができませんでした。祭司がツァラートにかかったり、漏出を持ったりすることがあります。そのとき、彼は汚れているので、ささげ物の分け前をもらうことができませんでした。そのようなものに触れる者は、夕方まで汚れるとされていたからです。そのような者は、からだに水をあびなければなりませんでした。水をあびてきめられた後で食べることができたのです。

しかし、日が沈めば、彼はきよくなり、聖なるものを食べることができました。つまり、次の日には食べることができたということです。どういうことでしょうか。私たちは、この祭司たちと同じように、日々きよめられる必要があるということです。日常生活を歩んでいくなかで、汚れたものにふれてしまうことがあります。というか、そういうことは日常茶飯事です。世の汚れにふれてしまうことがよくあるのです。すなわち、汚れた思い、陰口、うわさ話、嘘、偽り、無神経な態度等、そういうことは日常茶飯事に行なわれていて、それに振り回されたり、影響されてしまう場合があるのです。そういうものが私たちの中にこと頭の中に入ってくるのです。そのような汚れを、その日のうちにきよめていただかなければなりません。次の日にまで持ち越してはならないのです。神は一日という単位を大切にしておられます。その日の汚れをその日のうちにきよめていただき、次の日には新しい一日を始めなければなりません。

エペソ4:26には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけまん。」とあります。どういう意味でしょうか。怒りという感情は神が人間に与えてくださったものですからある意味で自然なものですが、それをいつまでも正当化していると悪魔に機会を与えてしまうことになるということです。人の怒りは神の義を全うするものではありません(ヤコブ1:20)。ですから、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければなりません。そうした汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばをすなおに受け入れるようにしなければならないのです。だから、日が暮れるまで行き取っていてはならないのです。憤ることもありますが、それをその日のうちに解決しなければなりません。怒りは神の義を全うしないからです。

怒りは火山のマグマのようなものです。それは意識しなくても表に現わさなくても心の内の深いところに燃えたぎっています。機会があれば大爆発しますが普段からふつふつと火の玉となって不平不満となって周りに当たり散らしています。ですからいつも心の内を神様に探って頂きマグマを取り除かないと、いつか、突然にして大爆発してしまうことがあるのです。ついつい不平不満を周りに愚痴っていたり、当たり散らしたりして、トラブルメーカーのような人もいますが、あなたが気に入らないそのような人も、あなたが苦手な人も神様の造られた愛する人達なのです。互いに赦し合わなければなりません。マグマを取り除いて隣人を愛する事は自分の力や努力では出来ませんが、それができるようにと、キリストが十字架にかかって死んでくださいました。キリストが十字架につけられたのは、敵意を廃棄して、平和をもたらすためです。

「実にキリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」エペ2:14。

ですから、私たちはこの方にあって自分が赦され、他の人も赦すことができます。その日のうちに怒りや憤りといったあらゆる悪を捨て去ることができるのです

そのような汚れを、次の日にまで持ち越すことはよくありません。一日の終わりに、神のみことばを読み、罪を告白してきよめていただき、次の日を出発させなければなりません。そうしなければ、ここで書かれているとおり、神のパンを食べることができない、つまりイエスさまとの交わりを持つことができなくなってしまいます。もちろん、私たちは、罪に定められることはありません。神の前に、キリストにあってきよく、傷のない者とされました。けれども、主との交わりがでできなくなってしまう、そのことによってもたらされる喜びを持つことができなくなってしまうのです。ですから、日々きよめていただく必要があるのです。

そうすれば、罪を負って死ぬことはありません。逆に罪の中で生き続けるなら、死ぬ可能性があります。これはクリスチャンへの警告でしょう。罪の中で生き続けるようなことがあれば、死んでしまうこともあるのです。クリスチャンであるということは、日々のきよめがある人であり、ないのであれば、その人はもはやクリスチャンとは呼ばれなくなってしまうこともあるのです。キリスト教信仰の本質は、この悔い改めにあるというのはそういうことです。どんなに罪深い者でもその罪を悔い改めるなら主は赦してくださいますが、自分がきよめられたと過信して悔い改めることをしないなら、死んでしまうこともあるのです。

2.一般の者は食べてはならない(10-16)

次に、10~16節までをご覧ください。

「一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。祭司の娘がやもめ、あるいは離縁された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。イスラエル人に、そのに奉納する聖なるものを汚し、聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別するだからである。」

これはどういうことでしょうか。祭司に分けられたささげものの肉やパン、穀物といったものを、一般の者はだれも食べてはいけませんでした。祭司と同居している雇い人もです。しかし、祭司に金で買われた者、つまり奴隷は食べることができました。また、その家で生まれたしもべも、食べることができました。

これは、キリストにある神の祭司にならないかぎり、ささげものを食することはできないということです。それは神との交わりを表していますので、キリストを信じて祭司にならなければ、神との交わりを楽しむことはできない、ということです。クリスチャンらしく、ふるまうことはできるでしょう。けれども、同居しているだけでは食べることができないのです。しかし、金で買われた人(奴隷)は食べることができました。彼は贖われたからです。私たちは買い取られることによって、主との交わりにあずかることができるのです。自分がどんなにみじめで、神の祝福にあずかるには到底できないような存在であっても、主イエス・キリストが流された血の代価を受け入れるならば、その交わりにあずかることができるのです。それは私たちが一生懸命にきよい生き方をしてもかなわないことですが、キリストの血潮によって買い取られた、と信じるなら食べることができるのです。そして、自分はもはや神のものであり、自分自身のものではない、と信じることによって、神の祝福のすべてを受け取ることができるのです。

祭司の娘でも、一般の人と結婚したら、聖なる物は食べることはできません。これはどういうことかというと、祭司以外の人との結婚、すなわち、異邦人と結婚することを指しています。それは神が忌み嫌われることです。神の祭司に求められていることは聖であること、すなわち、この世と分離することですから、それがなされなければ神の祭司ではなくなってしまうのです。その結果、神との交わり、キリストのいのちにあずかることができなくなってしまうのです。しかし、離婚されて、子どもがいなければ、父の家に戻ることができます。一般の人との交わりから解かれるからです。それは汚れからの解放を意味していました。

しかし、一般の人はだれも、それを食べてはいけませんでした。もしだれかが、あやまって食べてしまったらどうなるでしょうか。それに五分の一をプラスして祭司に渡さなければなりませんでした。あやまってだれかに害を与えてしまったとき、それに等しい償いをすればよいというのではなく、それに五分一をプラスしなければなりません。それは物理的な被害以上に、大きな損傷を与えてしまったからです。その償いとして、害を与えた額よりも、さらに五分の一を加えられた額で償わなければならなかったのです。

3.主へのささげもの(17~25)

次に17~25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえをにささげるなら、あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れないからである。また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえをにささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。盲目のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものをにささげてはならない。また、これらのものをへの火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕かれたもの、裂かれたもの、切り取られたものをにささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」

ここで再び祭司からすべてのイスラエル人に対して語られます。イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人が主にささげものをささげる時に、主が受け入れられるためにはどうしなければならないかについてです。そして、それが全焼のいけにえの場合、牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければなりませんでした。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならなかったのです。それは、ささげ物も、神ご自身を現わしていたからです。あるいは、神への供え物であるイエス・キリストを表していたからです。完全な方には、完全ないけにえが要求されるのです。それは和解のいけにえも同じです(21)。

私たちは、神に受け入れられるためにあらゆる努力をします。しかし、それらがみな不完全であることは百も承知です。私たちは、完全な方には、完全ないけにえをささげなければなりません。つまり、イエス・キリストにつながれた自分を見ること以外に、神に受け入れられることはできないのです。キリストに結びつけられた自分を主の御前にささげるときに、初めて主は、私たちを受け入れてくださるのです。主の御前に、ありのままの自分で出てきてください。これが、本当の献身です。

2 5節には、何かこのようなものを受けて、神のパンとしてささげてはならない、「何かこのようなものを受けて」とは、欠陥のあるものを受けてということです。外国人は、イスラエル人に与えられた律法など知りませんから、平気で欠陥のある動物をささげてしまう危険性がありました。相手は善意でしてくれること、与えてくれるものがありますが、私たちは、それをそのまま受け入れることはできないのです。

4.主への感謝のいけにえ(26~33)

最後に26~33節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それはへの火によるささげ物として受け入れられる。しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしはである。あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、で ある。」

ここには、牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておかなければならない、とあります。八日目以後、それらは主への火によるささげ物として受け入れました。なぜでしょうか?それは、この赤ん坊が乳離れをするためです。母親から赤ん坊を奪い取るようなことはしていけません。神は、動物にさえ、あわれみを示しておられるのです。私たちの生きている世界は、合理化、効率化が進んで、このように弱いものに対する配慮を無視して、突き進んでいます。この前の学びでもそうですが、貧しい者たちをしいたげる者は、格別のさばきを受けます。今の日本は、そのような社会ではないでしょうか。

28節には、「しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。」とあります。ここにも、神の動物にたいするあわれみがあります。母親と同じ日にほふってはいけません。そんなことをしたら母親がどんなに悲しむことでしょう。

29節には、主に感謝のいけにえをささげるときは、どのようにささげなければならないかが語られています。それは「あなたがたが受け入れられるように」です。これは「自ら進んで」と訳すことができます。つまり、感謝のいけにえをささげるときには、自ら進んでささげなければならないということです。そうでなければ感謝になりません。

パウロも献金の教えの中で、「いやいやながらでなく、人から強いられてでもなく、自分で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)と言いました。だれから強いられたり、いやいやながらするのではなく、心で決めたとおりに、喜んでささげる。そのようないけにえこそ主に喜ばれるいけにえなのです。

「その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。」

朝まで残すのは、次の日に食べ物がなくなるのでは、と思い煩うからです。けれども、こういうものはみな、異邦人が求めているものです。けれども、私たちの天の父は、それが私たちに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とを第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。私たちは、その日その日に与えられるマナで養われなければなりません。焦って明日の分も集める必要はありません。必要であれば神が二倍の祝福を与えてくださいます。そうでないと、せっかく集めたものも腐ってしまいます。心配や思い煩いも私たちの心を汚しますね。私たちは日々、主に拠り頼み、主から新しい力、恵み、あわれみを受けなければならないのです。

そして31節から33節にこうあります。

「あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、である。」

ここには、私たちがなぜ、聖なる歩みをしなければならないのかの理由が記されてあります。それは主が私たちを聖別してくださったからです。主は私たちを罪のエジプトから連れ出してくださいました。ですから、私たちは私たちを罪から救い出してくださった方にならって聖でなければならないのです。私たちは贖われた者、自分が神のものである、という意識を持っていることが、こうした聖なる歩みを行う原動力となるのです。