イザヤ書62章1~12節 「黙っていてはならない」

きょうは、イザヤ書62章のみことばからお話したいと思います。タイトルは、「黙ってはならない」です。ここにはエルサレムの回復が預言されています。バビロンによって滅ぼされ、荒廃したエルサレムを、主がもう一度建て直してくださるということが約束されているのです。それは私たちに対する約束でもあります。主は荒廃した私たちの人生をもう一度立て直してくださるのです。では、早速、本文を見ていきましょう。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.黙っておられない神(1-5)

1節には、「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」とあります。シオンとはエルサレムのことです。ここには、主がシオンのために黙ってはおられることをせず、その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで、働いてくださることが約束されています。

ヘブル人への手紙7章24、25節にはこうあります。 「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」  キリストはいつも生きていて、あなたのためにとりなしをしておられます。黙っているということはありません。ずっと働いていてくださるのです。

何という励ましでしょうか。私たち人間はそうではありません。59章16節には、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」とありましたが、人のためにとりなす人がいないのです。いつも自分のことばかり。自分さえよければいい。自分のたるには祈っても、人のために祈ることができません。それが人間です。しかし、キリストはいつも生きていて、あなたのために、とりなしておられるのです。

これはイザヤの時代で言うなら、バビロン捕囚から解放されることを現しています。イスラエルは罪の結果70年もの間、捕囚としてはバビロンに囚われていましたが、そこから解放してくださるという約束です。主はそのためにずっととりなしておられたのです。

いったい主はどのように働いてくださるのでしょうか。2節をご覧ください。 「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」

「そのとき」とは、エルサレムが回復するときのことです。そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見るようになります。世界中のすべての人が、あなたの上に神の大いなる御業が成されたことを見て、神をほめたたえるようになるのです。そしてあなたは、主の口が名付ける新しい名で呼ばれるようになるのです。「新しい名」で呼ばれるというのは、新しい性質に変えられることを表しています。

そのような性質でしょうか。3~5節をご覧ください。 「あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」

それまでは、「見捨てられている」とか「荒れ果てている」と呼ばれていましたが、これからはそのように呼ばれることはありません。これからは「わたしの喜びは彼女にある」とか、「あなたの国は夫のある国」こう呼ばれるようになります。

どうですか、このように呼ばれたら、どんなにうれしいことでしょう。この「わたしの喜びは、彼女にある」という言葉はⅡ列王記21章1節に出てくる「ヘフツィ・バハ」という言葉です。そこではユダの王ヒゼキヤの奥さんの名前として使われています。彼女はヒゼキヤの喜びでした。「ヘフツィ・バハ」。「あなたは私にとって喜びだ」とか、「私の喜びはあなたにある」と言ってもらえる妻はどれほど幸せでしょうか。「あなたは私の悲しみだ」とか、「顔もみたくない」なんて言われたら、もう死にたい気持ちになるでしょう。逆に、「あなたは喜びだよ」なんて言われたら、もう天にも上るような気分になります。

私たちはもともと「見捨てられたもの」と呼ばれても致し方ないような者だったんです。自分勝手な道を歩み、何度も何度も神を裏切ってきました。もう見捨てられても、見放されてもしょうがない者だったのに、神は一方的なあわれみによって赦してくださいました。神はあなたを、「あなたはわたしの喜び」、「あなたは夫のある国」と呼んでくださるのです。

いったいこのような神が他にいるでしょうか。どの神があなたのことをこのように受け入れてくれるでしょうか。どの宗教があなたを心から喜んでくれるくれるでしょうか。ただ聖書の神だけが、イエス・キリストだけがあなたを喜び、あなたを心から受け入れてくださいます。なぜなら、キリストはあなたのためにいのちを捨ててくださったからです。いのちをかけてあなたを贖ってくださいました。だから、たとえあなたがどんなに裏切っても、たとえあなたがどんなに失敗を繰り返しても、あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、受け入れてくださるのです。

今、NHKの大河ドラマで豊臣秀吉に仕えた「軍師、官兵衛」の生涯を描いたドラマが放映されていますが、そこに親を早くに亡くして黒田家に引き取られ、幼い長政(松寿丸)と兄弟のように育てられた後藤又兵衛という家臣が登場しますが、彼は一度ならず二度も黒田家を裏切り、敵となってしまいました。しかし、戦いに敗れた又兵衛が謝罪のため黒田家を訪れたとき、彼は自分はとても許されるに値しない者と身を引こうとしましたが、そんな又兵衛に官兵衛の妻、光(てる)が、こう言って引き留めるのです。「又兵衛、おまえは一度ならず、二度も母を捨てるのですか?」何度捨てても、わたしはおまえの母なんですよ、そう言って受け入れるんですね。それを見ていて、ああ、私たちの天のお父さんと同じだなぁと思いました。いや、天の父はもっと完全な愛をもって受け入れてくださいます。何度失敗しても、悔い改めて立ち返るなら、どこまでも赦してくださいます。「見捨てられている」とか「荒れ果てている」という名前ではなく、「わたしの喜びは、あなたにある」と言ってくださる。それが天の父、あなたの神です。

ゼパニヤ書3章17節にはこうあります。 「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」

すばらしい約束です。イエス様の目に、私たちはこのように写っているのです。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与えてくださいます。主は高らかに、あなたのことを喜ばれるのです。主はあなたのことを怒っているのではもなく、嫌っているのでもありません。あなたのことを喜んでおられるのです。あなたがイエスを信じて、神の子とされたので、主はあなたのただ中におられるからです。あなたはなかなか神のみこころにかなった者になれないかもしれません。何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。それでも神はあなたのことを喜ばれるのです。

だから私たちは、その主から目を背けてはいけません。決してイエス様から離れてはならないのです。やっぱり自分はひどい人間だと落ち込んで、主の下に来ることを拒んではいけないのです。私たちをご自身のものとし、常に私たちを愛し、私たちを喜んでくださる主に心を開いて、あたかも親しい夫婦のように、すべてをさらけ出して、ありのままに出て行かなければならないのです。

Ⅱ.黙っていてはならない(6-9)

第二のことは、であれば私たちも黙っていてはならないということです。6節をご覧ください。 「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」

ここに、「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。」とあります。「見張り人」とはだれのことでしょうか。見張り人とは、城壁に敵がやって来ているかどうかを見張っている人のことです。イザヤの時代であれば、それはイザヤをはじめとした預言者たちのことでした。いわばイスラエルに向かって警告を発する人たちのことです。神のさばきが近づいているという警告です。彼らは、昼も間も、夜の間も、決して黙っていてはいけませんでした。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはなりませんでした。

それは私たちクリスチャンも同じです。神は私たちを見張り人としてこの世に置かれました。ですから、どんな時でも、その希望が実現するその時までこの世を見張っていなければなりません。黙っていてはならないのです。私たちはこの世の終わりが近づいているという警告を発するために、だから悔い改めて神を信じるようにと勧めるために、ここに置かれているのです。

このことについてパウロはこのように言っています。Ⅱテモテ4章2~5節です。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。これは、私が伝道者として召された時に与えられたみことばでもあります。それまでこの社会で普通に働いて、平凡でもいい、クリスチャンの家庭を築き、幸せに生きていきたいと思っていましたが、そのような時、友達が運転する車が車が崖から転落して友達が即死するという事故がありました。翌日、友人の家を訪れ、そこに横たわる友人の亡骸を見て、いったい人は何のためな生きているのだろうと、考えさせられました。その時主はみことばを通してこのように語りかけてくださいました。 「人は、たとえ全世界を得ても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょう。」  それで私はなくなる食物のためにではなく、なくならない食物のために働きたいと主のために働くことを決心したのですが、でも、現実的にはこの日本の社会で伝道者として立っていくことは困難なように感じました。しかし、そのような時に主はこのみことばをもって励ましてくださったのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くてもしっかりやりなさい。」時が良くても悪くても、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たすように・・と。

みなさん、今は良い時でしょうか、それとも悪い時でしょうか。良い時もあれば、悪い時もありますね。どちらかというと悪い時かもしれません。パウロがここで言っているように、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを変え、自分たちのために寄せ集め、真理から耳を背け、空想話にそれて行くような時代だからです。パウロはこういう時代になるということを、この時からちゃんとわかっていました。というのは、昔も今も本質は変わらないからです。どちらかというとその傾向が強くなっているということです。しかし、たとえ時が悪くても、みことばを宣べ伝えなければなりません。困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければならないのです。だれも信じないからだめだと悲観するのではなく、神の約束に信頼しても、みことばを宣べ伝えなければなりません。それが私たちに求められていることです。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。そうすれば、主が働いてくださいます。私たちに求められていることは、この「見張り人」としての使命を果たすことなのです。見張り人として神の警告を発しなければなりません。黙ってはなりません。この町にはわたしの民がたくさんいる、と主は言われます。そう言われる主のみことばを信じて、みことばを宣べ伝えなければなりません。黙っていてはいけないのです。なぜなら、神はあなたのために黙っていないからです。キリストはあなたのために、いのちを捨ててくださいました。そして、今もあなたのためにとりなしておられるからです。そうであるなら、私たちもキリストのように人々のためにとりなす者でなければなりません。エルサレムのために祈らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの救いが来る(10-12)

最後に、10節から12節まで見たいと思います。10節には、「通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。」とあります。なぜなら、あなたの救いが来るからです。

11節をご覧ください。 「見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」  主は地の果てのすべての人に聞こえるように、大声で呼び掛けておられます。

これは黙示録22章12節にも引用されているみことばでもあります。やがて世の終わりになると、イエス・キリストがさばき主としてやって来られます。その時、主はそれぞれのしたわざに応じて報いてくださるのです。あなたの救いがやってきます。それがもうすぐ完成するのです。

12節を見てください。ここには、また新しい名前で呼ばれると言われています。そのとき彼らは、「聖なる民」、「主に贖われた者」と呼ばれるようになります。「尋ね求められる者」とか、「見捨てられない町」と呼ばれるようになるのです。これまでは、そうではありませんでした。これまでは見捨てられ、荒れ果てていました。しかし、やがてイエス・キリストが来られるとき、あなたは聖なる民、主に贖われた者、見捨てられない町と呼ばれるようになるのです。なぜなら、あなたはイエス・キリストによって贖われた者だからです。イエス・キリストにあるという、たったこれだけのことで、神のものとされたからです。あなたに何か得があったからではありません。あなたが何かすばらしい、特別なことをしたからでもないのです。ただあなたが神を信じ、キリストによって罪贖われて神の子どもとされたので、あなたは特別の存在となったからです。あなたは神にとって喜ばれる存在であり、目の中に入れても痛くないほど尊い者となったのです。それは一方的な神の恵みによるのであって、あなたはそれをもうすぐ受け取る日がやって来るのです。あなたは救い主によってその報いを受け取ります。見よ。あなたの救いがもうすぐ来るのです。あなたはこのことを地の果てまで聞こえるように叫ばなければならないのです。

あなたが今、ここにいるのはそのためです。あなたはこのすばらしい喜びの知らせを宣べ伝えるために、ここに置かれているのです。それまで荒廃していた生涯が神のあわれみによって、そのひとり子が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実を信じることによって救われ、見捨てられない町と呼ばれるようになるというすばらしい知らせを伝えるために、ここに置かれているのです。

神のみこころは、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることです。この救いの知らせを、ひとりでも多く人に伝えようではありませんか。主が地の果てにまで聞こえるように叫ばれたように、私たちもこの救いのことばを大きな声で叫ぼうではありませんか。