イザヤ62:1-12 レジュメ

イザヤ62:1~12 「黙っていてはならない」

 Ⅰ.黙っておられない神(1~5)

 主はシオンのために黙ってはいない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで、エルサレムのためにずっと働いていてくださる。このシオンとかエルサレムというのは、神の民であるクリスチャンのことでもある。主は私たちクリスチャンのために、いつも生きてとりなしていてくださる。「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」「新しい名」とは、新しい性質のことである。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。その名は、「わたしの喜びは彼女にある」(4)である。あなたはもう「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」などと呼ばれることはない。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。

 いったいこのような神が他にいるだろうか。どの宗教があなたのことを喜んでくれるだろうか。ただ聖書の神だけが、まことの救い主イエス・キリストだけが、あなたをこのように喜んでくださる。なぜなら、あなたは神の救いを受け入れ、神のものとされたからだ。あなたがどんなに罪を犯し、失敗を繰り返すような人でも、神の目には高価で尊い。神はあなたを喜んでくださるのである。

 Ⅱ.黙っていてはならない(6~9)

 第二のことは、だからあなたも黙ってはならない、ということである。「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」(6)

 「見張り人」とは、この時代で言えばイザヤをはじめとした預言者たちのこと。イスラエルに向かって神の警告を発する人たちのことである。それは同時に、私たちクリスチャンたちのことでもある。その見張り人に命じられていることは何か?昼の間も、夜の間も、黙っていてはいけない、ということである。世の終わりが近いことを知り、悔い改めて神を信じるようにと警告を発せなければならない。パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず、教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)と言った。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(同4:3~4)

 まさに今、そのような時代が来ている。インターネットやスマホの情報に振り回され、それが絶対であるかのように思い込み、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代が来ているのである。しかし、そのような時でも、みことばを宣べ伝えなければならない。困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければならないのである。どうせ誰も信じないのだから伝えないのではなく、だれも信じなくても伝えなければならない。黙っていてはならない。それが見張り人である私たちの務めなのである。

 Ⅲ.あなたの救いが来る(10~12)

 第三のことは、あなたの救いは必ず来るということである。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」(11)これは黙示録22章12節にも引用されている。世の終わりには、イエス・キリストがさばき主としてやって来られる。そのとき、主はそれぞれのしわざに応じて報いてくださる。その報いとは私たちの過ちに対するさばきではなく、私たちの労苦に対する報いである。「彼らは、聖なる民、主に贖わされた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」(12)それまでは見捨てられていたかのようであった。荒れ果てた者だった。しかし、やがてイエス・キリストが来られるときはそうではない。あなたは聖なる者、見捨てられない町と呼ばれる。なぜ?なぜなら、あなたの罪は贖われたからである。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの中にあることによって、あなたの罪は完全に贖われた。それゆえに、あなたは神のものとなり、神に喜ばれる者となった。

 であれば、たとえ今、私たちの目の前にいろいろな困難があっても、たとえ涙ばかりが流れるような現実の中にあっても、私たちは落ち込む必要はない。この与えられた希望のゆえに、忍耐をもってそれを乗り越えていくことができる。見よ。あなたの救いが来る。もうすぐ、それが実現しようとしている。だから、そのことを覚えて、この神の救いを待ち望む者でありたい。また、このすばらしい救いを宣べ伝えなければならない。黙ってはならない。キリストのとりなしによって救いの中に導き入れられた私たちは、キリストのように人々のためにとりなす者でなければならないのである。