イザヤ65:13-25 レジュメ

「新しい天と新しい地」

イザヤ65:13-25

 Ⅰ.新しい神の民の創造(13-16)

 「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対して、神は驚くべき救いの計画を語られた。それは「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)ということである。神の民であるイスラエルが神に反逆したので、神の救いは異邦人に向けられた。そればかりではない。そのことによってイスラエルにねたみを起こされ、彼らが救われるようにされた。これが神の計画である。だれがそのようなことを考えることができただろう。本当に驚くべき神の計画である。しかし、そればかりではない。神はこの救いを新しい天と新しい地の創造をもって完成させてくださるように計画された。「ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる。」(15)その名は「クリスチャン」である。クリスチャンはまことの神であるイエス・キリストによって祝福される。イエス・キリストによって先の苦難が忘れ去られる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)私たちはイエス・キリストにあって新しく造られた者なのである。

 Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17)この「創造する」という言葉は全く何もないところから何かを造り出す時に使われる言葉で、無からの創造のことである。神は今の天と地とは違う全く新しい天と地を創造される。そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもない。以前のものが過ぎ去るからである。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。これこそクリスチャンにとっての真の慰めではないだろうか。クリスチャンにとってイエス・キリストを信じて救われても、この世はある意味で住みにくい所である。信じれば信じるほど辛いことや、苦しいことが起こる。様々な迫害があったり、人々から認められないこともある。けれども神はクリスチャンにこの世とは違う全く新しい天と新しい地を備えてくださり、そこで暮らすことができるように計画してくださった。私たちはそのことを知り、そこに希望を置かなければならない。この地上のことで、「滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」ということで生涯を終えてしまうとしたらとても残念である。周囲がどのような態度を取るにせよ、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ!」と告白して歩む者でありたい。

 Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

 そのように歩む者を神は豊かに祝福してくださる。「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(18)「そこにはもう、鳴き声も叫び声も聞かれない。」(19)そればかりか、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」(24)と言われる。これまではどんなに祈っても答えられなかった。それは主の御手が短いからでも、主も耳が遠いからでもない。彼らの咎が彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたからである。しかし、今は違う。今は罪が赦され神との親しい交わりの中に入れられたので「神様!」と呼ぶと、すぐに答えられる。

 神の恵みによって神の民とされた私たちは、この新しい天と新しい地を待ち望むことができるようになった。私たちはやがて神が創造された新しい天と地に入ることができるがゆえに、今の時を忍耐をもって歩まなければならない。現在の困難を見て落胆したりせず、やがてもたらされる美しい将来を見て、そこに希望を置かなければならない。そういう人はこの地上の生活においても主から新しい力をいただいて、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。