きょうはレビ記23章後半部分からお話します。23章には、イスラエルが守るべき主の例祭について教えられています。全部で七つあります。それは、過ぎ越しの祭り、種を入れないパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。前回はこのうち最初の四つの祭りについて学びました。これらはいったい何を表していたのでしょうか。過ぎ越しはキリストの十字架の贖いを表していました。また、種なしパンの祭りは罪なきキリストご自身、あるいは、キリストによって罪が取り除かれたことの感謝を、初穂の祭りは復活の初穂としてのキリストです。そして七週の祭り、五旬節は聖霊降臨でした。それらはすべて春の収穫を祝う祭りですが、キリストがこの歴史に現れたことによってすでに成就した出来事です。
コロサイ2章16~17節には、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」とありますが、これらの祭りはすべてイエス・キリストを指し示すものであって、次に来るものの影だったのです。
そしてきょうは残りの三つの祭りについて学びます。すなわち、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。先の四つの祭りは春の収穫を祝う祭りであったのに対して、残りの三つの祭りは秋の収穫を祝う祭り、秋の祭りです。それは「第七の月」つまり九月から十月にかけて行われる祭りなのです。そして、春の祭りがキリストが初めに来られた時に成就した出来事を示していたのに対して、この秋の祭りはキリストが再び来られる時に成就する出来事を示しています。ですから、私たちは今、ちょうどその中間地点にいるわけです。その間主は農夫と同じように、秋の収穫のために実が結ぶのをじっと待っておられます。そして、実が結ぶようにと、細心の注意を払って作物を育てておられるのです。私たちは、キリストが戻って来られる日に備えて、自分の生活において実を結んでいるかどうかを吟味し、主がいつ戻って来られてもいいようによく備えておかなければなりません。
1.ラッパを吹き鳴らす日(23-25)
それでは23節から25節までをご覧ください。
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」
秋の祭りは、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合から始まります。このラッパを吹き鳴らす日とはいつのことを指しているのでしょうか。ラッパは、大抵、雄羊の角で作られていましたが、それはイスラエルの民が一箇所に集まったり、荒野の旅において出発したり、あるいは戦争を始めたりした時に吹き鳴らされました。しかし、ここで最も重要なことは、これが世の終わりに吹き鳴らされるラッパであるということです。ヨエル2章1~3節をご覧ください。
「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」(ヨエル2章1節-3節)
これは世の終わりを預言したヨエルの預言です。それは「主の日」という言葉で表されています。その日が近い・・・と。それはやみと、暗黒の日、雲と、暗やみの日です。これから後にこのようなことは起こりません。これからのがれるものは何一つないのです。それは世の終わりの神のさばきの日だからです。その日が来る時、角笛を吹き鳴らさなければならないのです。
これは明らかにテサロニケ人への手紙にある「最後のラッパ」とつながりがあります。Ⅰテサロニケ4章16-17には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。つまり、これはキリストの『空中再臨』(携挙)という出来事において成就することなのです。
また、Ⅰコリント15章51-52節には、「復活(終わり)のラッパ」について語られています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」終わりのラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
また、これは、エリコ陥落の際に吹かれた角笛と同じです。ヨシュア6章3~4節には、「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」とあります。
この時吹かれた角笛(ラッパ)は、後に起こることの『影』でした。本体は、黙示録11:15にあります。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
「そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。」(ヨシュア6:20)
民がラッパを吹き鳴らしたとき、城壁が崩れ落ちたように、神の御使いがラッパを吹き鳴らすと、空中の権威を持つ支配者(エペソ2:1)、暗やみの世界の支配者たち(エペソ6:12)の陥落し、この世の国はキリストのものとなるのです。
ですから、このラッパは、キリストが花婿として花嫁(教会)を迎えに来る時(空中再臨)に、「いってらっしゃい。/今、迎えに出ましたよ。」の合図として、花婿の父(御父)が吹くラッパなのです。Ⅰテサロニケ4:16のラッパは、まだ『携挙』は起きてないのでまだ吹かれていませんが、その日が刻一刻と近づいています。私たちはみな、いつこの角笛が、ラッパが鳴ってもいいように、準備していなければなりません。
2.贖罪の日(26-32)
次に、贖罪の日についてみていきたいと思います。26節から32節をご覧ください。
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」
第七の月の十日は大祭司が年に一度、至聖所に入って務めを果たす特別な日です。それは「贖罪の日」(ヨム・キプール)と呼ばれています。この贖罪の日については、すでに16章で学びました。最初に大祭司が自分の罪のためのいけにえとして雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをします。次にアロンは二頭の山羊を取り、一頭は主のため、もう一頭はアザゼルのためとし、主のためのやぎはほふられて、雄牛と同じようにその血を至聖所に携えて行き、イスラエルの罪の贖いとして贖いのふたに注がれました。大祭司はいけにえの雄牛とやぎを順番に殺し、それぞれの血を持って神殿の一番奥の至聖所に入り、モーゼの十戒が納められていた聖なる箱の上の「贖いのふた」の上に七回ずつ振りかけます。最後に大祭司は身代わりのやぎの頭に手を置いて全ユダヤ人の罪を告白します。身代わりのやぎは荒野へ放されます。これが「スケープゴート」の語源です。
いったいこれは何を表していたのでしょうか。これは私たちの罪が天の御座において永遠に赦されていることを示すものです。この箇所では、「身を戒める」ことが強調されています。これは断食のことです。主から罪の赦しと清めをいただくために、彼らは自分の罪を深く悔い改めることが求められました。それを断食という形で表したのです。また、この日にはいっさいの仕事をしてはいけませんでした。これは、キリストの救いの完成を表しているからです。救われるために私たちが行なうべきことは何一つありません。それを全き安息によって表しているのです。
それにしても、なぜ雄牛の血と山羊の血が流されなければならなかったのでしょうか?出エジプト記12章の過ぎ越しにおいて用いられたものは一歳の雄の羊でした。しかも全く傷のない・・。しかし、ここでは羊ではなく雄牛であり、雄やぎです。なぜ羊ではなかったのでしょうか。へブル9章7節を見てみましょう。ここには、『第二の幕屋 [至聖所] には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪(burut)のためにささげるものです。』とあります。キリストの血は私たちのすべての罪を洗い流します。自分で知っている罪も知らないで犯した罪もです。
調べてみると、ヘブライ語では罪を表す単語が三つあります。一つは“ペシャ(pesha)”で、もう一つは“ケット(chet)”、そして三番目は“ブルット(burut)”です。ペシャは、ギリシア語でこれに相当する言葉は“ハマルティア(hamartema)”です。意味は的外れです。それに対し“ケットは、“行き過ぎる”という意味です。つまり、罪の行為を表しています。それに対して“ブルット(burut)”は、知らずに犯した罪”を表しています。そしてこのへブル9章7節の「民が知らずに犯した罪」ということばは、このブルット(burut)が使われているのです。つまり、大祭司が年に一度だけ至聖所に入り罪の贖いをしたのは、知っていながら犯した罪と、知らずに犯してしまった罪のすべてのためであったということです。もちろん、子羊の血が流されたことによって、その血を受け、それをかもいと門柱に塗られているということの前提(救われる前の罪が赦されたということ)があってのことですが・・・。ですから、子羊の血、雄牛の血、雄山の血はそれぞれ、私たちの罪のすべてが神の前に洗い聖められたことを表しているのです。イエスの血はその両方の罪をも私たちを神から遠ざけ、てくださいました。イエスの血はすべてのものに有効なのです。このために子羊の血と山羊の血がささげられなければならなかったのです。こうして贖罪の日には、キリストの血が私たちのすべての罪を清めてくれたことを表しているのです。ちなみに、雄牛の血がささげられたのは、強いものが弱いもののために死ぬことを表していました。
そしてこれはイスラエルの救いだけでなく、キリストの再臨と大きく関係があります。救われていない人たちに子羊の血について知らせる必要があるのは事実です。しかし山羊の血についても同様に知らせなければなりません。私たちはみな山羊の血も必要としています。イエスの血は犯したすべての罪だけでなく、知らずに犯したすべての罪からも私たちをきよめてくださるのです。イエスの再臨に備えるために、ただ未信者が悔い改める必要があるというだけでなく、私たちも悔い改める必要があるのです。
3.仮庵の祭り(33-44)
最後に仮庵の祭りを見ていきたいと思います。
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。七日間、あなたがたは火によるささげ物を主にささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物を主にささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。以上が主の例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、火によるささげ物、すなわち全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、主にささげなければならない。このほか、主の安息日、また、あなたがたが主にささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」こうしてモーセはイスラエル人に主の例祭について告げた。について次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。」
仮庵の祭りは、43節にあるように、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出しました。それは同時に、人は肉体という「仮庵」に70~90年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える時でもあります。
また、仮庵の祭りは、主イエスが地上に来られた事を象徴する祭りでもあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネによる福音書1章14節)
この「住まわれた」は、「仮庵となられた」ということを意味します。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事により、神と人との和解をもたらされました。ですから、仮庵の祭りは、和解の祭りでもあります。神と人、ユダヤ人と異邦人の和解を祈り願うことも大切です。
そればかりではなく、仮庵の祭りは、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもあります。救いの完成の型でもあるのです。ヨハネの黙示録21章3節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、…」 とあります。
この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々が仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに代表を送るとあります。(ゼカリヤ書14章16節)つまり、仮庵の祭りとは、再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。
神様は旧約の時代から、繰り返し、繰り返し、様々な方法で終わりの時代の事を示してくださっています。エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことから始まり、この地で歩まれたキリスト、そして千年王国の到来の喜び。すべてがつながっています。そのすべての喜びを、この祭りによって祝うのです。それが40節にある内容です。この仮庵の祭りが、春の過越の祭りから始まる一連の主の例祭の締めくくりとなるのです。
ところで、イエス様は、この仮庵の祭りの最終日に、有名な言葉を言われました。ヨハネ7章37節~39節です。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(37-39節)
この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りの終わりの多いなる日にというのは、この祭りの終わりの日の最高潮に達する日、祭りが最も盛大な時に、イエス様はこういわれたのです。この祭りの終わりの日にはどんなことが行われたのでしょうか。この日には「水取りの儀式」というのがあったようです。イスラエルの民が荒野で40年間放浪の旅をしたとき、神がにがい水を甘い水に変えてくださったことや、モーセをとおして岩から水を出してくださった出来事を思い出しながら、かつて神が神の民の渇きをいやしてくださったことを思い起こし、そのことに感謝しながら、神の救いの完成を待ち望みながら、大祭司がきれいな祭服を着て金の柄杓をもってシロアムの池から汲んだ水を神殿に向かって運びました。行列になって・・・。イエスはそれを群集とご覧になりながら、「聖書のことばにあるように」とあるように、旧約聖書のある歌を引用してこう言ったのです。そのことばとは、イザヤ書イザヤ12章3節のみことばです。そこには、こう歌われています。「あなたがたは喜びながら、救いの泉(井戸の水)から水を汲む。その日あなたがたは言う。主に感謝せよ。・・」有名な「マイム・マイム」の歌です。キリストはこの「水を捧げる祭り」と、「生ける水の川」とを重ね合わせながら、真の生ける水は、後に与えられる聖霊であると証されたのです。 この水を捧げる祭りについては、大変な歓喜が伴ったようで、ユダヤ教の口伝律法の一つであるミシュナーにも「水を汲み出すこの祭りを見ていない者は、人生の喜びを知らない者である。」と述べているほどです。この仮庵の祭りの中で行われる行事は別名「シムハット・ベイト・ハ・ショエイヴァー」(水を汲み出す場所での喜び)とも言われています。(Wikipedia “Simchat Beit HaShoeivah”より引用)
これは千年王国の時に、御霊がこの地上に豊かに注がれることを預言しています。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ44:3)」御霊が注がれると、荒地が潤いを取り戻すという約束ですが、イエス様はこの約束を御霊の初穂である、私たち信じる者に対して与えておられます。
終わりの日には主がこの地に御霊を注がれ、この地を回復されますが、その前に私たちの心の奥底に、生ける水の川として、その潤いをほとばしる形で与えてくださると約束しておられるのです。私たちが心の中に与えておられる祝福を、私たちは後の世では全世界的に見ることができるようになるのです。私たちはその日がやってくることを信じ、それを待ち望む者でありたいと思います。