イザヤ書65章13~25節 「新しい天と新しい地」

きょうは、イザヤ書65章後半のみことばからお話します。65章前半のところには、「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する、主の驚くべき答えが示されました。それは、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(65:1)ということです。つまり、イスラエルが神に逆らってバビロンに滅ぼされることになったのは、それによって救いが異邦人にもたらされるようになるためであったということです。しかも、それはユダヤ人がつまずき倒れるためではありません。かえってそのことによって、イスラエルが救われるためです。異邦人が救われることを見たイスラエルにねたみが引き起こされ、今度は彼らが主を呼び求めるようになるためです。そのようにしてイスラエルの中の幾人かが救われるためだったのです。何という神の知恵でしょう。神の知恵は底知れず深く、私たちはそんな神の計画をはかり知ることはできません。

そして、この箇所には、エルサレムが荒れ果ててしまったもう一つの理由が記されてあります。それは神の新しい創造です。新しい天と新しい地の創造です。先のことは思い出されず、心に上ることもありません。神は新しい天と新しい地を創造してくださるのです。この古い天と地は滅びます。地上のエルサレムは消えて無くなります。しかし、新しいエルサレムは決して滅びることはありません。私たちはそこに希望を置かなければならないのです。  きょうは、この新しい天と新しい地について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.新しい民の創造(13-16)

まず13節から16節までをご覧ください。13節と14節です。 「それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。」

「わたしのしもべたち」とは神の救いを受け入れ、神の民とされた人たちのことです。また、「あなたがた」とは、逆に、差し出された神の御手を拒み、神に反逆し続けていた人たちのことです。彼らは神の呼びかけに応じず、神の目の前に悪を行い続けます。そのような人たちには神のさばきが下ります。神のしもべたちが食べても、彼らは飢え、神のしもべたちが飲んでも、渇き、神のしもべたちが喜んでも、恥を見、神のしもべたちが心の楽しみによって喜び歌っても、心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめくようになるのです。

15節後半を見ると、神はご自分のしもべたちを「ほかの名」で呼ばれるようにされるとあります。それはどのような名でしょうか。「クリスチャン」です。神の民はクリスチャンという名で呼ばれるようになります。使徒の働き11章25節から26節までを開いてみましょう。

「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

イエスを信じる人たちが「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、彼らがアンテオケに来てからのことです。それまでは「この道の者」(使徒9:2)と呼ばれていました。それはイエス様がご自身のことを「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と教えておられたからです。ですから、信者同士では兄弟姉妹と呼び合っていましたが、一般では「この道の者」と呼ばれていたのです。それがアンテオケに来てからは「クリスティアノス」「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。なぜでしょう?彼らがいつもイエス・キリストのことを口にしていたからです。何でもかんでもイエス・キリストです。「クリスティアノス」とはキリストきちがい、キリストバカという意味です。これはキリストを信じる者たちにつけられたあだ名なのです。いつでも、どこでも、イエス・キリスト、イエス・キリストと言っていたので、こいつらはキリストきちがいだと、「クリスチィアノス」、「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。つまり、彼らはイエス様を信じてからは、だれの目にも明らかなライフスタイルを送っていたということです。それがクリスチャンです。

皆さんはどうでしょうか。クリスティアノスになっているでしょうか。イエス様でいつもいっぱいです、いつもイエス様のことを考えています。口を開いたらイエス様、寝ても覚めてもイエス様、そのようになっているでしょうか。いつもイエス様を愛し、イエス様に喜ばれる道を歩んでおられるでしょうか。いや、私は自分がクリスチャンだということはあまり言いませんが、自分の生活を通して証していますという方がおられます。それも立派です。しかし、私たちは立派だからクリスチャンになれたのではありません。本当に愚かで罪深い者であるにもかかわらず、神の恵みによって選ばれ、救いの中に入れていただきました。神様って何とすばらしいのでしょう。ハレルヤ!と証できたら、どんなにすばらしいかと思います。立派な人はこの世にはたくさんいます。しかし、立派じゃなくても救っていただける。そして、神に喜ばれるような生き方に変えられると証できれば、本当にすばらしいと思うのです。

大河ドラマの軍師官兵衛もイエス・キリストを信じて洗礼を受けましたが、洗礼を受けてからは、その胸にいつも十字架の首飾りをつけるようになりました。もちろん、クリスチャン大名の高山右近もそうです。官兵衛はこの高山右近に影響されてクリスチャンになりました。「キリシタンは人が苦しい時こそ助けてあげるのですよ。あなたの前にも門が開かれています」という右近の勧めで、彼は「私にも門が開かれているでしょうか」と言ってキリシタンになるのです。あの時代キリシタンとして生きていくことは並大抵のことではなかったと思いますが、そうした右近の証によって彼はキリシタンの道を歩むようになったのです。そして、それからは以前のそれとは全く違う生き方となりました。誰の目にも、この人はクリスチャンだとわかるようなライフスタイルになったのです。皆さんはどうでしょうか。

16節をご覧ください。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。」

皆さん、クリスチャンはまことの神によって祝福されます。この「まことの神」とは誰でしょうか。まことの神とはヘブル語で「アーメンの神」です。それはイエス・キリストのことであります。黙示録3章14節にはこうあります。

「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」

1章17節と18節を見れると、これはイエス・キリストが書き送っている手紙であることがわかります。この方が「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方」と言っているのです。イエス・キリストこそまことの神であり、アーメンの神なのです。クリスチャンはこの神によって祝福されるのです。

Ⅰヨハネ5章20節にも、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」 とあります。この方こそまことの神、永遠のいのちです。イエス・キリストこそまことの神であり、クリスチャンはこのまことの神によって祝福されるのです。

そして、この方によって先の苦難が忘れ去られます。キリストを知る前は様々な罪、悩み、苦しみ、傷、痛み、悲しみ、重荷でいっぱいでしたが、キリストを信じたことによって、先の苦難が忘れ去られました。キリストの血潮によって洗い聖めていただいたのです。過去の罪悪感、罪責感にさいなまれなくてもいいのです。敗北感にいつまでもしたっていなくてもいいのです。キリストがあなたの罪を贖ってくださいました。あなたはキリストによって神のしもべ、クリスチャンとして新しく造られたのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。それは新しい創造です。キリストにある新しい創造です。先の苦難は忘れ去られ、すべてが新しくされるのです。私たちはよく人生をやり直せるリセットボタンがあったらいいなあ、と思うことがあります。過去の失敗、罪や汚れ、苦しみ、傷のすべてを消し去り新しくやり直すことができたら、どんなにいいだろうと思うのです。そして、神はイエス・キリストにあってあなたの人生も新しくやり直せる道を開いてくださいました。あなたがキリストを信じるなら新しく造られます。あなたがキリストのうちにあるなら、新しく造り変えられ、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

第二に、神の新しい創造のみわざは新しい天と新しい地の創造です。17節をご覧ください。 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」

ここで神はイザヤを通して、「新しい天と新しい地を創造する」と約束されました。今、私たちが住んでいるこの地球を中心とする世界は、「新しい創造」に対して「古い創造」に属しているものです。それが何年前であったかははっきりわかりませんが、創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した」とあるように、神によって創造されたものです。しかし、この古い天と地は過ぎ去ります。そして、神は新しい天と地を創造してくださるのです。    この「創造する」という言葉は、全く何もないところから何かを造り出す時に使われる「バーラー」ということばです。これは無からの創造を表わしています。それに対して、すでに在るものを使って何かを作るときは「アーサー」という言葉を使います。これはすでにある素材を使ってそこから何か別の新しいものを作ることで、人間にもできることです。ここでは「パーラー」です。神は今の転と地とは全く違う違う新しい天と地を創造するのです。

皆さん、私たちは今住んでいる世界がまるで永遠に続いていくように思いがちですが、そうではないのです。この罪によって汚れた天地は滅ぼされ、全く新しい天と地に造り変えられる時がやって来るのです。少し長いですがⅡペテロ3章7節から13節までをご覧いただきたいと思います。

「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:7-13)

ここには、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう、とあります。すべての物質、原子に至るまですべて溶け去ってしまうのです。天の万象が完全に崩壊して、見る影もなくなってしまいます。しかしながら、神を信じて救い出された神の子どもたちのためには、義の住む新しい天と新しい地とが備えられています。それは何でしょうか。そうです、天国です。

そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくざいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません(黙示録21:4)。この地上で経験した様々な悲しみや嘆き、痛みや苦しみのすべてが思い出されることがなく、心に上ることもないのです。なぜなら、以前のものは過ぎ去るからです。これまでのものとは全く違う、別の次元の世界がもたらされるのです。それはクリスチャンにとって本当に大きな慰めではないでしょうか。

罪を悔い改めてイエス・キリストを信じた者にとって、この世はある意味で住みにくい所かもしれません。神が共におられるということを感じながら歩めるということは感謝なことですが、一方で、信じれば信じるほど辛いことや、苦しいこと、受け入れられないようなことにぶつかるのも事実です。迫害があったり、人々から認められなかったり、多くの軋轢(プレッシャー)なども起こります。しかし神はいつまでもクリスチャンをそのままにしておくことはなさいません。やがて新しい天と新しい地で暮らすことができるようにしてくださいます。ですから私たちはここに希望を置き、この希望に結びつくような生涯を送らなければなりません。この地上の目の前のことで「スッテン、バッテン、滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」といったことだけで生涯を終えてしまうとしたら、何と残念なことでしょう。周囲がどうであれ、どんなことが起ころうとも、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ」と告白して歩むものでありたいと思います。これが、神がイザヤを通してイスラエルに、いや私たち人類に伝えたかったことなのではないでしょうか。

最近、福田姉を天に送らせていただきましたが、他にもたくさんの方が病気で苦しんでおられます。そうした方々のところに行って賛美したり、祈ったりして思うことは、私たちにとって最後はこれしかないんだなぁ、ということです。死んでも生きるいのち、永遠のいのちこそ、私たちにとっての究極の望みなのです。

Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

最後に18節から終わりまでを見て終わりたいと思います。18節をご覧ください。 「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」

ここで神は「エルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と言っておられます。このエルサレムとは何のことでしょうか。これは先ほど申し上げた新しい天と新しい地の聖なる都のことです。天のエルサレムのことです。黙示録21章2節には、「わたしはまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るの見た。」とあります。この「聖なる都、新しいエルサレム」のことです。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれません(19)。数日しか生きられない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もなく、百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされます(20)。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べるようになります(21)。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはありません(22)。この世では自分がどんなに汗水流して働いても搾取されるということがありますが、新しいエルサレムではそういうことはありません。働いたら働いた分だけ報いを受けることができます。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが飢えて他人が食べることはないのです。

24節には、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」とあります。すばらしいですね。「イエス様」を呼ばないうちに「何だい」という答えがかえってきます。私たちのことをすべてご存じであられる主がいつもそばにいて、すぐに答えてくださるからです。今まではそうではありませんでした。「主よ、聞いてください。」と祈ってもウンともツンともでした。罪があったからです。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠いので聞こえないのでもないのです。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていました。その罪が全部取り除かれて、神と非常に親しい交わりの中に入れられたので、「神様」と呼ぶとすぐに答えてくださるのです。

そして25節には、狼と子羊が共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、神の聖なる山のどこにおいても、これらが害を加えることはなく、そこなわれることはありません。そこには弱肉強食はありません。一緒になって草やわらを食べるようになります。そういう平和な世界がやってくるのです。

ところで、新しいエルサレムにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙示録21:4)はずなのに、20節を見ると、「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳でならないで死ぬ者は、のろわれたものとされる」とあるのはどういうことでしょうか。寿命が伸びて長生きすることと、死がないというのは全く違います。

実はこの19節までと20節以降の内容は、同じ終末の預言でもちょっと違う時代のことを描いています。19節までの内容はこの天地が滅び失せた後にもたらされる新しい天と新しい地の光景ですが、20節からのところは、その前にもたらされるこの地上の千年王国の預言です。イザヤはこの千年王国とその後にもたらされる新しい天と地という二つの光景を区別せずに見ていたのです。それはちょうど私たちが遠くを見るときと同じです。たとえば、こちらから大阪と広島の方を見ると実際にはそこにはかなりの距離がありますが、だいたい同じ位置関係に見えるのと同じです。イザヤも世の終わりの幻を見たとき、実際には千年王国と新しいエルサレムの間にはかなりの時間的な差がありますが同じ終わりの時代に起こることとして見えていたのです。

新約聖書のヨハネの黙示録では、それがもう少しはっきり描かれています。キリスト再臨されるとき、キリストにある者は一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います。その後、キリストとともにこの地上の平和な千年間を治めた後、新しい天と新しい地、聖なる神のエルサレムに入ります。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。

これは決してたわごとではありません。主イエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいたものだからです。キリストは、弟子たちにこう言われました。 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたのために場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)  その場所こそ天国です。イエス様はその場所を備えるために天に昇られました。その場所を備えたら、私たちを迎えに来てくださいます。そして、その日は近いのです。

ですから、私たちはこのような希望が約束されていることを知り、たとえ現実の生活において辛いことや苦しいこと、耐えられないと思うようなことがあってもここに希望を置き、神にすがりながら、讃美と感謝をもって歩んでいきたいと思うのです。あなたはやがて新しい天と新しい地に入るのです。先の苦難は忘れられ、あなたの目の涙はすっかりぬぐい取られます。あなたは神の慰めを受けるようになるのです。神の約束に信頼しましょう。