きょうはレビ記24章全体から学びたいと思います。まず1~4節までをお読みします。
1.日ごとに、週ごとに(1-9)
「1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。2 「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前に整えておかなければならない。」
これは既に出エジプト記27章20-21節において、主がモーセに語られた内容と同じです。主はモーセにイスラエル人たちに命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させ、祭司アロンはそれを会見の天幕の中の、あかしの箱の垂れ幕の外側、つまり聖所でそれをともしておかなければなりませんでした。夕方から朝まで。
ご存知のように、この油は聖霊を象徴しています。聖所のともしびを絶えずともしておくために油を用意しておかなければならなかったように、私たちはいつも聖霊に満たされていなければならないということです。
次に5節から9節までをご覧ください。
「5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く、一つの輪型のパンは十分のニエパである。6 それを主の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、ニ並びに置く。7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、主への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。8 彼は安息日ごとに、絶えずこれを主の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」
これも既に出エジプト記で語られたことです(出エジプト25:30)。聖所に入ると右側にこの備えのパンがありました。机はアカシヤという材木によって作られていましたが、すべて純金でおおわれていました。その上に12個のパンが2列に6個ずつ置かれていました。この12個のパンはイスラエルの12部族を表しています。それは安息日ごとに、絶えず主の前に、整えておかなければなりませんでした。このパンは何を表していたのかというとキリストのいのちです。神のみことばです。それを週ごとに絶えず、整えておかなければならなかったのです。乳香を添えて・・。乳香は祈りを表していましたね。すなわち、このパンと乳香は、祈りとみことばによって神との交わりを絶やしてはいけないということを教えていたのです。これらはいわば私たちの日常的な奉仕と言えるでしょう。ともしびの油といい、このパン、乳香といい、前にも語ったことをなぜここでもう一度語られているのでしようか。
それはレビ記全体を見るとわかります。この前の23章では主の例祭について教えられていました。それは過越の祭りから始まり、種なしパンの祝い、初穂の祭り、そして五旬節があります。これらは春の祭りです。そして秋には、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪の日、そして仮庵の祭りでクライマックスを迎えます。イスラエル人は今、シナイの荒野にいますが、約束の地に入ったとき、彼らは農作業によって食物を得ます。収穫の時期に沿って、このような盛大な祭りをして、主を礼拝するのわけです。そして私たちはこれら一つ一つの祭りには意味があって、それはキリストの十字架と復活、聖霊の降臨、そして携挙、再臨、千年王国という主イエス・キリストのみわざを表しているということを知りました。この例祭について教えられているそのあとで、、このともしびやパン、乳香について語られているのは、しかも、これらは以前、主がモーセにすでに教えられたことなのに、ここで繰り返して教えられているのは、そうしたイスラエル全体の祭りの中にあって、日々の小さな務めをないがしろにしてはならないということなのです。日ごとの、あるいは週ごとの、そうした小さな務めを忘れてはならないし、むしろ、そうした小さな務めの中に、そうした全体的なことがある、あるいは、そうした全体的なことの中にこうした小さな積み重ねがあるということを教えたかったのではないでしょうか。これらのことは日ごとに、あるいは週ごとに、絶えず主の前に行われなければならないことなのです。
私は昨日まで同盟の働きで仙台と岩手の北上に行ってきました。今はそういう時期なのかなあと思って、自分なりに与えられた務めを忠実に果たしていこうと思っていますが、こうしたことに取り組んでいて思うことは、こうしたことで振り回されて日々の働きをおろそかになってしまうというか、見失ってしまう危険性があるということです。あっちに行って、こっちに行って、あれをやって、これ をやってといううちに、日々の小さな務め、絶えず主の前に備えていかなければならない奉仕が忘れられてしまうということです。
それは僕だけに限らず、私たちクリスチャンのすべてにいえることではないでしょうか。あっちで聖会があり、こっちで聖会がありと走り回るのは構いませんが、それによって毎日の、あるいは週ごとの務めが忘れられてしまう。神がご自身の血をもって買い取ってくださった神の教会こそが私たちの信仰生活の土台であるはずなのに、その土台をしっかりと築かないで全体的なことで走り回ってしまう。そういうことがあるのではないでしょうか。やはり私たちは日ごとの糧を、日ごとに神の前に出て祈ること、つまり祈りとみことばによって祭壇を築き、いつも聖霊に満たされることを求めていかなければなりません。
2.律法が適用される範囲(10-14)
次に10節から14節までをご覧ください。
「10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。12 人々は主の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。13 そこで、主はモーセに告げて仰せられた。14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。」
ここでポイントとなるのは、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちから出るようになったが、その息子が御名を冒涜したことについて、どのような処罰が下されたかということです。
十戒の中には、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)」とあります。そして具体的に、「神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。(同22:28)」という定めもあります。この律法が果たしてイスラエル以外の外国人にも適用になるのかということです。
ここには、「イスラエルの女を母としても、エジプト人を父とする者」とあります。イスラエル人のうちにこういう人たちが出ていました。出エジプト12章38節を見ると、イスラエルがエジプトを出てきた時に、多くの外国人も出て来たとあります。こうした外国人がイスラエル人と結婚することによって、このような人たちが大勢いたのです。
聖書では、父がイスラエル人であれば母が異邦人でも子供はイスラエル人ですが、その反対はイスラエル人にはなりません。それでイスラエル人ではない者に、イスラエルに対して与えられた神の律法が適用されるのかどうかが分からなかったので、人々は主の命令を待ちました。それで主からの答えはどういうものであったかというと、「石で打ち殺しなさい」というものでした。つまり、イスラエルの宿営にいる限り、異国人であってもイスラエルの律法が適用されるということです。
それはこの旧約聖書の律法が、そのままイスラエル以外の全人類に適用されるということなのでしょうか。そうです、それはイスラエルに限らず私たち全人類に対する神のみこころが示されたものです。しかし、その解釈は必ずしも文字通りではないということです。たとえば、律法では姦淫の罪を犯す者は石打ちに定められていました。しかし、イエス様は姦淫の現場で捕えられた女の罪を赦されました。イエス様は、「あなたがたの中で罪のない人からこの人に石を投げなさい」と言うたので、「わたしもあなたを罪に定めなさい」と言われ、彼女を赦されたのです。それは、義人はいない、一人もいないからです。聖書はすべての人が罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない、とあります。姦淫についても実際に姦淫を犯したかどうかではなく、だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯していると言われました(マタイ5:27)。兄弟に向かって「能なし」とか「ばか者」7というような者は人を殺していると言われました(同5:22)。そのような者は燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。そういう意味ではだれも正しい人などいません。私たちに求められているのはただ悔い改め、神のみこころに歩もうとすることです。ですから、旧約の律法はすべての人に適用されますが、その意味、もしくは解釈は慎重になされなければならないということです。もしもし通りそれを解釈するならば、本来の神のみこころとはき全く違った方向に行ってしまうのです。ですから重要なことは肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって産まれることです。ヨハネ1章13節を開いてください。ここには、
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
とあります。もっぱら神によって生まれたのでない限り、血筋によっても、自分の人間的な頑張りによっても、また他の人が認知するにしても、決して神の子供になれません。
けれども、神の御霊によって生まれた経験を持たずして、あたかも神の家族の中に属しているように振舞ったらどうなるのでしょうか?普段は、それらしく振舞うことができても、いざその人の根幹に関わる事項で確執が起こった時に、その人はこれまで表向き信じていたという化けの皮が剥がれてしまいます。その時に、主ご自身を呪う言葉、あるいは言葉に表さなくても明らかに呪っている行動に出てくるのです。それがこのイスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする息子の根本的な問題だったのです。
真に御霊による新生を体験している人は、どんなことをしても神を呪うことはできません。呪ったとしても、悔い改めに導かれるだけでしょう。イスラエルの宿営の中にいたそのエジプト人は、そのように表向きイスラエル人のように生きていただけであって、神によって生まれ変わってはいなかったのです。
私たちは、神はえこひいきをされる方ではないことを知っています。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11)」エジプト人だからと言って、異なる律法ではなく一つの定めしかなかったように、聖書や教会から遠く離れている人々に対して、神はご自分の聖さを引き下げることはなさいません。やはり罪人として裁かれます。したがって私たちは、全ての人に対してその人が罪から救われるように祈っていかなければならないのです。
3.目には目。歯には歯(15-23)
最後に15節から23節までをご覧ください。
「15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。16 主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。21 動物を打ち殺す者の償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。22 あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」23 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、主がモーセに命じられたとおりに行った。」
ここには、神を呪うものは、だれであっても、その罪の罰を受けなければならない、とあります。。たとえ、それが異国人であってもです。主の御名を冒涜する者は殺されなければなりません。そこにはイスラエル人と異国人の間に差別はありません。
りそめにも人を打ち殺す者があれば、その人は必ず殺されなければなりません。動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければなりません。もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければなりません。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならないのです。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。自分がした行ないにしたがって、それと同じ報いを受けるように主は定めておられます。人のいのちを取るのならば、自分のいのちが取られます。目には目、歯には歯、傷には傷です。それが聖書の原則です。
神は、罪を犯した者に対して、そのさばきを曲げるようなことはなさいません。これは新約聖書でも同じです、ユダヤ人でもギリシヤ人でも、すべての人が罪を犯し、すべての人が神の前で有罪とされている、とパウロは言っています。しかし、イエスはこれとは違うことを教えられました。マタイの福音書5章38-48節です。
「38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
これはいったいどういうことでしょうか。イエス様はここで、この旧約聖書の真意がどういうことなのかを教えてくださったのです。すなわち、それは敵を愛するということです。もし私たちが人を憎いと思ったら、『殺してはならない』という律法を実際に犯してしまうことになります。また、情欲を持って女性を見たならば、それは実際に姦淫を犯したのと同じです。その同じ文脈の中でイエス様はこう言われたのです。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」
これはなかなかできることではありません。というか、できないでしょう。どうですか。私の知っているアーサー・ホーランドという伝道者は、『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさ いなんて、俺にはできない。俺は殴られたら何倍にもして返して、ボコボコにしてから、神よ彼を哀れみたまえって祈る』と言っています。でも、それが本音ではないでしょうか。だって、普通に考えても、右の頬を打たれたら、反射的に殴り返そうとするのが普通です。皆さんも小さい頃によくけんかをしたことがあるかと思いますが、ケンカをして泣きながら家に帰ると親は何と言いましたか。「いいから、殴り返してらっしゃい !」って言われませんでしょうか? また、すごく強い復讐心を持っている方もまれにいますよね。「自分がこんな風になったのは例えば、親のせいだ!」と思って、いつか復讐してやると心に誓って生きている人って少なくありません。やられたらやり返す。二倍にして。そう、倍返しです。それが現実の私たちの姿だと思います。
実は神様もそういう方です。そういうと皆さんびっくりするかもしれませんが、神様の原則のひとつに『刈り取りの原則』があります。種を蒔けばその実を刈り取るという原則です。
「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、」(ガラテヤ6:7b‐8a)
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23a)
しかしこれら二つのことばはここで終わってはいません。続きはなんと言っているかというと、こうです。
「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」ガラテヤ6:7b‐8
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリスト・イェスに ある永遠のいのちです。」ローマ6:23a
これら二つの聖書のことばは何を言っているのでしょうか? それは、わたしたちは自分の罪の刈り取り、神からの復讐を受けなくてはならない存在なのに、 神はイエス・キリストの十字架での死によって、私たちが受けなければならない刑罰のすべてを身代わりに受けてくださり、私たちの代わりとしてくださったということです。ただそのことを信じるだけで、永遠のいのちを与えられるようになったということです。神はそのひとり子であるイエスを犠牲にしてまで私たちを愛し、救いを用意してくださったのです。神の愛はそこまで深く、完全なのです。
だから、あえて神はわたしたちに自分で復讐をするなといっているのです。復習は神に任せなさい・・・と。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません 。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 (ローマ12:19)
神は復讐されるべきあなたを自分の御子を犠牲にするほどの愛で愛してくださっているのだから、復讐はしなくてもいいだろう?とわたしたちの語っているのです 。別の箇所で次のように言っています。
神が復讐よりも私たちに求めておられることは愛することなのです。神と同じ完全な愛で他人を愛することだったのです。自分を愛する者を愛することは誰にでもできます。そんなのは神を信じていない異邦人でもできます。しかし、神が完全であるように私たちも完全でなければなりません。つまり、自分に敵対する者を愛し、迫害する者のために祈ってこそ天の父の子どもだと言えるのです。
ですから、旧約の律法で「目には目を・・」とありますが、神が私たちに求めておられることは、天の父と同じように完全であることです。復讐は神に任せて、自分の敵を愛すること、迫害する者のために祈ること、それが神の求めておられることなのです。確かに、私たちは自分のした行為に応じて報いを受けなければならない者です。しかし、そんな者を神は赦してくださいました。神は御子イエス・キリストによって、私たちにいのちを与えてくださいました。ですから、私たちは目には目をという原則を聞いていますが、それよりもはるかにまさる神の愛に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。