イザヤ書66章1~5節 「主のことばにおののく者」

きょうからイザヤ書の最後の章に入ります。この章は64章12節のイザヤの祈り、あるいはイザヤの叫びに対する神の答えと同時に、このイザヤ書全体の結論となっています。  イザヤはバビロンによって滅ぼされ、荒れ果てた神の都エルサレムを見て、「主よ。これでもあなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)と祈りました。その祈りに対する神の答えは、驚くべき内容のものでした。

「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」(65:1)

つまり、そのことによってそれまで神を呼び求めなった異邦人たちに、神の救いがもたらされるようになったということです。いったいだれがそんなことを考えることができたでしょう。だれもできません。ただ神だけが永遠の計画をもって導いておられたのです。

そればかりではありません。65章17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」とあります。初めに神が天と地を創造したように、まったく新しい秩序をもって新しい天と新しい地を創造されると言われたのです。先の事は思い出されず、心に上ることもありません。罪によってもたらされる悲しみや叫びは消え去ります。そういう新しい天と新しい地を創造するというのです。これこそ真の希望であり、慰めです。この時イスラエルはバビロンによって滅ぼされるという歴史的なクライシス、危機に直面していましたが、神はそのような時に真の慰めと希望を語ってくださったのです。

このイザヤ書は40章から後半部分が始まりました。それは「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という語りかけをもって始まりました。いったい何が慰めなのでしょうか。それは、この新しい天と新しい地がもたらされるということだったのです。古い天と地は過ぎ去り、先の苦難は忘れられ、心に上ることもありません。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、そういう世界がもたらされる。それこそ本当の慰めです。

そしてこの66章にも65章同様、神のさばきと祝福が網を編むかのように交互に語られながら、神の民に対する深い神のご計画が明らかにされて行くのです。

Ⅰ.天はわたしの王座、地はわたしの足台(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」とあります。

主のイスラエルに対する最後の問いかけ、チャレンジです。それは「あなたの建てる家はどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」です。これはいったいどういうことなのでしょうか。「あなたがたの建てる家」とはエルサレムの神殿のことです。彼らはエルサレムの神殿こそ神がおられ、神の霊が満ちておられるところと信じていました。しかしここで神は、わたしのために建てる家はどこにあるのか。どこにわたしにとってのいこいの場があるというのか、と言うのです。そのような家はどこにもありません。なぜなら、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」だからです。そんなちっぽけな神殿にこの天地万物を創造された方をお入れすることなどできません。

イスラエルの王ソロモンは、エルサレムに神殿を建てその奉献の日にこのように祈りました。Ⅰ列王記8章27節です。

「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)

この天地を造られた創造者なる神を入れることができるものなどない。どんなに立派な神殿を建てようとも、いやこの天の天でさえも、この神をお入れすることなどできないと言ったのです。

いったいなぜ神はこんなことを言われたのでしょうか。それは当時のイスラエルの中に神殿を中心とした宗教儀式を行っていれば神に認められるといった間違った考えを持っている人たちがいたからです。それがいかに重要な位置を占めていたかは、バビロン捕囚後に帰還したイスラエル人たちが真っ先に取り組んだのが、この神殿の再建工事であったことからもわかります。エルサレムの神殿はユダヤ教の信仰にとって中心的なことであり、そこでの宗教的な務めを行うことが最も重要なことだったのです。ですから、それさえ行っていれば神に認められると思っていたというのも納得できます。それは今日のクリスチャンが日曜日の礼拝を守っていれば救われていると誤解したり、献金をしたり、奉仕をすれば神に認められると勘違いしているのに似ています。こうした宗教的な行いが悪いのではありません。むしろ、こうした行いはクリスチャンとして当然のことでしょう。しかしこうしたことをしていれば自分が聖められていると考えているとしたら、それは違うということです。そうしたことで聖められることはできません。

私たちの神はこうした神殿にお住みになられる方ではないからです。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」と言われる神は、人間の手でこしらえた家などでゆっくりと休まれる方ではないのです。こうしたものは天にあるもののひな型にすぎません。実体は神殿という建物にあるのではなく、天にある神の御座にあるのです。ですから私たちはこうした外見的なことに惑わされないで、神の喜ばれることはどんなことなのかを正しく理解し、それを求めていかなければならないのです。

Ⅱ.わたしが目を留める者(2)

では、神が求めておられることはどんなことでしょうか。2節をご覧ください。 「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心を砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

「これらすべて」とは、神が造られたすべてのものを指しています。「これらすべてはわたしのものだ」この「わたしのもの」には※がついています。下の欄外の説明には、七十人訳、シリヤ語による、とあります。七十人訳聖書とはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、それをシリヤ語に訳したものという意味です。その訳からこれを「これはすべてわたしのものだ」と訳したのです。しかし、原語のヘブル後ではこれは「ある」ということばが使われているのです。つまりヘブル語では「これらすべてはある」なのです。「これらすべてはある」ではどういう意味なのかさっぱりわからないので、七十人訳の、シリヤ語の訳を参考に「これはすべてわたしのものだ」と訳したのです。  新共同訳聖書ではこれを、「これらすべて、それゆえに存在すると主は言われる」と訳しています。こちらの方がよく訳していると思います。「ある」を「存在する」と訳したのです。「これらすべて、わたしの手で造り、これらすべて、それゆえに存在すると主は言われる。」(新共同訳)主はこれらすべてを造られました。それゆえにすべてのものが存在しているのです。これらすべてのものは神のものであるという意味です。

ですから、たくさんのものを神にささげればそれで神が喜ばれるかというとそうではなく、神のために立派な神殿を建てればそこに神が住まわれるのかというとそうでもないのです。すべてのものを造られ、すべてのものはこの方のものなのであり、すべてのものの根源であられる神が求めておられるものはそういうものではなく、私たちの心、私たち自身です。そのわたしたちとはどのような私たちなのかというと、ここにはこうあります。

「―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

皆さん、神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。「へりくだって心砕かれる」とは、単に謙遜になることではありません。自分の心が悲しみと絶望で打ちひしがれ、粉々に砕かれた状態になることです。自分が本当に罪深い人間であることを思い知らされ、神の前にある自分の魂が砕かれることなのです。それがへりくだるということです。そのようなへりくだった心で神の言葉を聴くからこそ、神のことばにおののくことになります。

ダビデはバテ・シェバという女性と姦淫を行い、その罪を預言者ナタンに示されたとき、へりくだって心砕かれ、神の前に悔い改めました。詩篇51篇には、そんなダビデの悔い改めの歌が記されてありますが、彼は、「1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。」と祈りました。「2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」と心から主に求めました。「3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」と正直に罪を認めました。そして、「7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」と罪の赦しを求めました。また、「10神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈りました。そして、「16たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と神のご恩寵にすがったのです。これがへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者の姿です。

「おののく」という単に恐ろしいということではなく、「ものすごい」といった畏怖の念が含まれた言葉です。生きておられる神が語られる言葉を、神の言葉として聴く時、そこにこうした怖れが生まれるのは当然のことです。

神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。 神様助けてください。もうみことばがないと生きていけません。私には神のことばが必要です。神のことばによらずして生きることなどできません。あなたのみことばだけが私の生きる支えです、と神のみことばを救いの唯一の希望とする人です。神は、このような者を決してさげすまれることはされないのです。

Ⅲ.自分かってな道を選ぶ者(3-5)

第三のことは、それとは逆に神のことばを聴かないで自分かってな道を選ぶ者です。3節から5節を見てください。3節をお読みします。 「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。」

どういうことでしょうか。これは牛をほふる人は、人を打ち殺しているということではありません。羊をいけにえにする人は、犬を絞め殺しているということでもないのです。穀物のささげものをしながら、豚の血をささげているわけでもありません。乳香をささげながら、偶像をほめたたえているということでもないのです。そうではなく宗教的な敬虔さを誇る者たちが形だけ、外見だけを重要視して、霊的な礼拝とそれにふさわしい信仰の歩みの重要性を忘れている人たちを非難していることばなのです。そのような人がいくら律法が命じているところのいけにえをささげたとしても、それは偶像礼拝にすぎないのです。なぜなら、彼らは自分勝手な道を選び、その心は忌むべき物を喜んでいるからです。彼らは神が喜ばれることよりも自分の考えを優先させ、あくまでも自分の考えに従っていけにえをささげていました。彼らは神のみことば(教え)に従うことを求めていたのではなく、自分を優先させていたのです。ですから、どんなに外見では敬虔を装っていても、その実は偶像崇拝そのものだったのです。

それは私たちも注意しなければならないことです。もし私たちがへりくだって、心砕かれることなく、神のことばに聞き従おうとせず、あくまでも自分の思い、自分の考えで進もうとするなら、どんなに熱心に集会に集っても、どんなに一生懸命に奉仕をしても、どんなに多額の献金をささげても、決して神に喜ばれることはないのです。立派な神殿を建てれば神は喜んでくださると思ったら大間違いです。それは人を打ち殺し、犬を絞め殺し、豚の血をささげ、偶像をほめたたえていることと何ら変わりません。それは偽善であり、神が最も忌み嫌われることなのです。イエス様はそんな偽善者たちを厳しく戒められました。「白く塗った墓」(マタイ23:27)と。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、彼らの外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいなのです。

もちろん、それは神殿なんていらないということではありません。神を礼拝する場所なんてどうでもいいと言っているのではないのです。礼拝なんて行かなくてもいいとか、献金なんて必要ない、と言っているのではないのです。こうしたことも大切なことですが、それが信仰の結果として生まれたものでなければ、全く意味がないのです。それが目的になり、神に従うことがないがしろにされているとしたら、そうしたことは全く意味がないばかりか、偽善的なものとして神に忌み嫌われることになってしまうのです。

イスラエルの王として最初に立てられたのはサウル王は、預言者サムエルを通して語られた神のことばに従いませんでした。彼は、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよと言われたにもかかわらず、牛や羊で最も良いものは聖絶せず、ただ値うちのないものだけを聖絶したのです。あるとき、サムエルがサウル王のところに行ってみると、何やら羊の声や牛の声が聞こえてくるではありませんか。メェヱ、メェエ。「いったいこれはどういうことですか」と尋ねると、サウルはこう答えました。 「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」(Ⅰサムエル15:15)  一見、理屈が通っているかのように聞こえますが、それは全くの誤解です。サウルは自分では主の声に従っているつもりでしたが、実際には自分の思いに従って行動していたのです。

こういうことって、実は私たちの中にもよくあるのです。神に従っていますよ、と言いながら、実際には自分に都合がいいように受け止めて行動しているということが・・・。しかし、それは神が喜ばれることではありません。それゆえに神は、そういう人を座から降ろされてしまうのです。サムエルはサウルにこう言いました。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

皆さん、聞き従うことはいけにえにまさります。耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさるのです。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。」いくら全焼のいけにえをささげても、それが神に聞き従うことに優るわけではないのです。大事なのは、自分の考えや判断、善し悪しに従って判断するのではなく、神のことばに従うことです。ただへりくだって、心砕かれ、神のことばにおののくこと、神のことばに聞き従うことなのです。そうでないと神の命令を行っているようでも、その実は、ほとんど自分の考えに基づいた信仰になってしまいます。

5節には、「主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』しかし、彼らは恥を見る。」とあります。

ここには、ただ宗教的に熱心になるとどうなるかが語られています。そういう人はまことの信者を馬鹿にしたり、あざ笑ったり、迫害したりします。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』」 これはどういうことかというと、ユダヤ人が、主のことばに真剣に聞き入る同じユダヤ人を押しのけるということです。彼らは同じユダヤ人たちにこう言ってあざ笑うのです。「主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。」

主のみことばにおののき、神のみことばに聞き入るユダヤ人たちは終わりの日にもたらされる神の栄光を喜びをもって待ち望みますが、偽善者たちはそうではありません。彼らはそうした姿を見てあざ笑い、ののしり、迫害するのです。しかし、そのような偽善者の最後はどうなるでしょうか。「しかし、彼らは恥を見る。」そうした人たちは、最後に恥を見るようになるのです。

皆さん、神が私たちに願っておられることは、私たちが神のことばを聞いておののくことです。神のみことばに耳を傾けることなくただ宗教的な行いに熱心になるのではなく、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののくことなのです。皆さんはどうでしょうか。神のことばにおののいておられるでしょうか。

私たちの人生には二つの道があります。一つはへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく道であり、もう一つの道は自分勝手な道です。この二つの道を同時に歩くことはできません。どちらかの道を選ばなければならないのです。しかしどちらの道を選ぶかによって、その人にとって正反対の結果がもたらされることになります。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく人には神が目を留めてくださる、つまり、神の祝福がもたらされます。その人には新しい天と新しい地を受け継ぐようになるのです。しかし、もう一つの道である自分勝手な道を歩む人には恐怖がもたらされます。その人が行き着くところは永遠の滅びです。彼らにとって自分自身が神なのです。彼らは神のことばに聞き従うよりも、自分の思いを優先します。彼らの心は偶像崇拝で満ちていて、自分の欲が満たされることを喜び、自分が正しいと思う通りに歩むので、その結果、自分の身に滅びを招くことになるのです。あなたはどちらの道を選びますか。

イエスさまはこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

私たちにはいつも自分勝手な道を歩もうとする誘惑があります。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。みんなと同じことをしていた方が安全で楽なように見えます。しかし、それは滅びに至る道なのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。しかし、その行き着くところは永遠のいのちです。その道だけが天国に通じる道なのです。その狭い門から入ってください。いのちに至る道を歩んでください。その道は狭く、それを見いだす者はまれですが、それこそ私たちを永遠のいのちへと導き、永遠の輝きをもたらす道なのです。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が私たちに願っておられることは、ただへりくだって心砕かれ、神のことばに聞き従う者です。私たちはそういう者にさせていただきたいと思います。そういう人にはやがて神の栄光がもたらされることになるのです。