「主のことばにおののく者」
イザヤ66:1-5
Ⅰ.天はわたしの王座、地はわたしの足台(1)
65章に続き、祈りの応答が語られる。「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの立てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』」(1)
これはイスラエルに対する最後のチャレンジである。神のために彼らが建てる家はどこにあるのか?どこにもない。たとえどんなに立派な神殿を建てようとも、この天地を創造された神を入れることなどできない。いったなぜ神はこんなことを言われたのだろうか。それは当時のイスラエルの中に神殿を大切にし、そこで行われている宗教儀式を守っていれば救われるという間違った考えを持っている人たちがいたからである。しかし、神のために建てる家などどこにもない。実体は神殿にではなく、天にある御座にある。それこそ大事にしなければならないものなのに、彼らはそれを忘れていた。
Ⅱ.わたしが目を留める者(2)
「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。」(2a)「これらすべて」とは、神が造られたすべてのものである。神はこれらすべてのものを造られた。それゆえ、すべてのものは神のもの。だからたくさんのものを神に献げれば神が喜ばれるかというとそうではない。神のために立派な神殿を建てれば、神が満足されるかというとそうでもない。神はすべてのものを造られ、すべw
のものを持っておられる。それゆえ、神が我々に求めておられるものはそのような物ではなく、私たち自身、私たちの心なのである。それゆえ神はこう仰せられる。「―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(2b)神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者である。「へりくだって心くだかれ」とは、単に謙遜になることではない。自分の心が悲しみと絶望で打ちひしがれた状態になることを指す。また、「おののく」とはただ恐ろしさに震えるということよりも、神のことばに圧倒され、ひれ伏さずにはいられないような畏怖の念を持つことである。神のことばがなければ生きていくことはできない、神のことばだけが自分の生きる支えですと、神のことばを救いの唯一の希望とする人のことである。神は、このような者に目を留めてくださる。
Ⅲ.自分勝手な道を選ぶ者(3-5)
それとは逆に、自分勝手な道を選ぶ者がいる。そのような者は「牛をほふる者は、人を殺す者。羊をいけにえとする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。」(3)である。どういうことか?彼らは表面的には敬虔にふるまっているようだが、その実は偶像をほめたたえる者であったということ。なぜなら、彼らは自分勝手な道を選び、その心は忌むべき物を喜んでいたからである。彼らは神に喜ばれることよりも自分の考えを優先させ、あくまでも自分の考えに従っていけにえをささげていた。彼らは神のみことばに従っているようでも、実際には自分の選択を優先させていたのである。それは偶像礼拝と同じことだ。
このようなことは、私たちの信仰生活にも言える。もしへりくだって心砕かれることなく、神のことばにも聞き従おうとせず、自分勝手な道を選ぶなら、どんなに熱心に信仰生活をしていても全く意味がない。それは見せかけの信仰であり、偽善的な信仰にすぎず、神が最も忌み嫌われることなのである。神が私たちに願っておられることは、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののくことである。神のことばを聞いて、それに従うことである。
あなたは神のことばにおののいておられるだろうか。私たちの人生には二つの道がある。一つはへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく道であり、もう一つの道は自分勝手に歩む道である。どちらの道を歩むかは自分で決めなければならない。しかし、もしあなたがへりくだって心砕かれ、神のことばにおののくなら、神はあなたに目を留めてくださる。あなたは神の御国を相続するようになるのだ。私たちはそのような道を歩む者でありたい。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,1