いよいよレビ記26章に入ります。25章においては安息年、ヨベルの年、そして買戻しの権利について学びました。きょうのところには、神に聞き従う者への祝福と、そうでない者へのさばきが語られています。
Ⅰ.神の命令(1-2)
まず1節と2節をご覧ください。ここには、「26:1 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」とあります。
主はこれまでも、イスラエルの民に数々の戒めを与えられましたが、ここでは極めて単純に、神の命令を与えられています。それは、「自分のために偶像を造ってはならない」こと、また、「それを拝んではならない」、「安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない」ということです。なぜなら、「わたしがあなたがたの神、主だから」です。これは十戒にも定められている戒めです。なぜここにきて、このようなことか戒められているのでしょうか。それは、これがすべての戒めの中心的なポイントだからです。神の戒めというとあれをしてはならない、これもしてはならない、といったいろいろな戒めを思い出しますが、神に対してしなければならないことはそれほど多くはありません。いや一つだけです。それは何かというと、主だけを愛し、主に従いなさい、ということです。
ルカの福音書10章41-42節には、イエス様をもてなすために気が落ち着かずイライラしていたマルタが、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私を手伝うように妹におっしゃってください。」と言ったことに対するイエスのことばが記録されています。そのときイエスはこういわれました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。(ルカ10:41-42)」それと同じです。どうしても必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけです。それは主を第一にして、主の御言葉を聞いて生きるということです。このような単純な生活の中に、神のみわざを経験することができるのです。
これは教会も同じです。教会にとって必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけなのです。それは何でしょうか。神のみ言葉を聞き、それに生きるということです。神を愛し、神を第一にして生きることです。あれもしなければならない、これもしなければならい、ということではありません。何かをすることで忙しくなってしまい、肝心のみ言葉を聞くことが後回しになってしまうと、神の祝福が見えなくなってしまいます。
Ⅱ.神の命令に従う者への祝福(3-13)
次に3節から13節までをご覧ください。ここには、神のおきてに従って歩む者への祝福が語られています。
それは第一に、豊かな収穫です。4-5節をご覧ください。
「26:4 わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。」
普通大麦の収穫は四月ごろに、小麦の収穫が五月ごろに行われますが、それがぶどうの取り入れ時まで続きます。ぶどうの取り入れ時とは八月なので、それまで続くということです。そして、ぶどうの取り入れ時は、種まきの時まで続きます。種を蒔くのは十月以降、つまりぶどうの収穫が種蒔きの時である十月まで続くということです。それだけ豊かな収穫をもたらされるということです。ヨハネ1章16節には、「私たちはみな、この方(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とありますが、その祝福は無尽蔵の豊かさです。恵みが与えられたかと思いきや、さらに大きな恵みがその上に押し寄せる豊かさです。
第二に、安全が約束されています。6節をご覧ください。
「26:6 わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。」
これは敵や獣の襲撃がなく安心していることができる、というものです。この豊かな日本に住んでいると、こうした安全は当たり前に思ってしまいますが、イスラエルではそうではありません。いつ何時、敵に襲われるかわかりません。ですから、当時の町は城壁に囲まれていたのです。しかし主は、そんな彼らに平和と安全を与えてくださいます。
第三に、勝利の約束です。7-8節をご覧ください。
「26:7 あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。26:8 あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」
これは、戦いにおける勝利の約束です。どのようにして勝利するのでしょうか。五人が百人を追いかけ、百人が万人を追いかけるのです。どのようにしてこんなことが可能になるのでしょうか。主が戦っていてくださることによってです。イスラエル人の戦いは、その多くがごく少数によって行われていました。代表的なのはギデオン率いる三百人によって、十三万五千人のミデヤン人に勝利した出来事です(士師7:7)。
第四に、出産の祝福です。9節です。
「26:9 わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。」
聖書には、子どもは神からの賜物であり、神の祝福の象徴として語られています。神がアブラハムに与えられた祝福の約束も、彼の子孫を星の数のように、海辺の砂のようにふやす、というものでした。
第五の祝福は、豊かな収穫の約束です。10節をご覧ください。
「26:10 あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。」それは倉庫に保管されている作物の古い穀物を取り出さなければいけない程です。それほどの豊かな収穫がもたらされるということです。
そして六つ目の祝福は、主の臨在の約束です。11-13節をご覧ください。
「26:11 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。26:12 わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。26:13 わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。」
これはもろもろの祝福の中でももっとも優れた祝福です。「わたしの住まいを建てよう」とは、主の臨在を表しています。天の天も、主をお入れすることなどできないのに、その主が住まわれる家を建ててくださいます。それは物質的な家ではなく霊的なに家、つまり、聖霊の宮である私たちのからだのことを指しています。その私たちの間を、主は歩んでくださるということは、何と大きな恵みでしょうか。また、主は決して彼らを忌み嫌うことはありません。好意をもって見つめていてくださいます。言い換えると、数ある目に見える祝福は、目に見えない祝福、霊的祝福の証し、あるいはしるしであったということです。
また12節には、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」とあります。これは神との個人的で、人格的な結びつきのことです。黙示録21章3節、4節には、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」とあります。これこそ、私たちにとっての究極の祝福です。その祝福へと導いてくれるのです。
Ⅲ.神の命令に従わない者へのさばき(14-39)
次に、神の命令に従わない者、つまり神のおきてを拒み神の命令を破る者には対するさばきが語られます。
まず第一に不安と恐れ、病です。敵からの攻撃です。16節と17節をご覧ください。
「26:16 わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。26:17 わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。」
ここでは先ほど語られた「安心」「安全」の代わりに恐怖がもたされるということが語られています。そればかりではありません。肺病や熱病によって目が衰えます。また、心をすり減らさせる、心
の病のことでしょう。また、せっかく種を蒔いてもその収穫は敵に奪われるようになるのでむだになります。敵が襲いかかり、打ち負かされ、踏みつけられます。だれも追いかけて来ないのに、ただおどおどと逃げ惑うばかりです。
第二のことは、飢饉。18節から20節をご覧ださい。
「26:18 もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。26:19 わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。26:20 あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。」
19節には「あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き」とありますが、これは神により頼まず、おのが力で成し遂げたと言って誇っている者を指しています。自分に今与えられているものがあたかも自分の力で成し遂げたかのように思い込んでは誇り、神に感謝もせずも神に栄光を帰することをしないなら、神はその高慢を打ち砕くのです。どのようにでしょうか。あなたがたの地を青銅のようにし、あなたがたの天を鉄のようにしてです。これはその地が産物を出さず、地の木々も実を結ばないで、すなわち、飢饉によってということです。
ところで、18節には「さらに、七倍重く懲らしめる」とありますが、これはどういうことかというと、その程度が極めて強くなることを意味しています。「七」という数字は完全数ですが、神がこれを完璧に行なわれるということです。
第三に、獣による襲撃です。21節、,22節をご覧ください。
「26:21 また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。26:22 わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。」
神が獣を野に放つので、その獣がこどもを奪い、家畜が絶やし、人口が減少するのです。そして、道は荒れ果ててしまうことになります。そしてここにも「七倍も激しく」とあります。神の怒りの激しさが現されています。
第四のさばきは、敵の襲来です。23節から26節までをご覧ください。ここには、敵によって町が包囲されることが語られています。主は彼らの上につるぎを臨ませ、契約の復讐を果たさせるのです。また、主は彼らの中に疫病を送り込まれるので、彼らは敵の手に落ちることになります。26節には、パンがないので、満ち足りないと言われています。それぞれの家で窯を使う燃料がないので、十人が一度に同じ窯を使うからです。普通なら一つの家庭で一つの窯が必要だったのに、十人が使っても十分な位、非常に少量のパンだったのです。そして、何十グラムとかいう単位で、残り少ないパンを計ることで、食いつないだ様子がここに書かれています。もちろん、空腹で体が弱まっている時には、免疫力がなくなっているので疫病も蔓延します。
そして第五のさばきは、もっとおそろしいことが起こります。それは親が自分の息子、娘たちの肉を食べるようになるという警告です。27節から33節をご覧ください。
「26:27 これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、26:28 わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。26:29 あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。26:30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。26:31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。26:32 わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。26:33 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」
ここにも「七倍も重く」懲らしめるとあります。これは本当に凄惨です。親が自分の息子や娘の肉を食べるという事態が起こるのです。それがバビロンに包囲されたユダに起こりました(Ⅱ列王6:28-29)。また、「高き所に死体が積み上げられる」とありますが、これは外国が、自分が征服した民を侮辱するため、彼らが拝んでいる神の祭壇に彼らの死体を置くことで、その祭壇を汚しているのです。これも、バビロンはユダの国に対して行いました。そして町々は廃墟となり、聖所は荒れ果てます。ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、これが実現しました。これは紀元前1400年頃、モーセがシナイ山において神から与えられた言葉なのです。バビロン捕囚は紀元前586年ですが、858年前にこのことが前もって預言されていたのです。神の言葉はこれだけ確かなものなのです。
そして第六番目のさばきは、滅びです。あるいは、敵の国で捕えられるということです。34節から39節までのところです。
「26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。26:35 地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。26:36 あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。26:37 追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。26:38 あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。26:39 あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。」
これはユダヤ人が捕囚の民となって、七十年間、バビロンに捕え移されることによって成就します。彼らがバビロンによって滅ぼされ捕囚となって連行されたのは、神に背いたからなのです。ここには安息年のことが指摘されていますが、彼らが引き抜かれたのは彼らが七年ごとに訪れる安息年を守らなかったからです。そして、彼らはバビロンへと連行されて行きました。バビロン捕囚です。彼らは敵の国にいる間、ここに書かれている通りになりました。敵国において脅かしと恐れの生活を歩みました。そればかりではありません。紀元70年には今度はローマによって世界中に散らされ、敵の国にいる間、迫害と虐殺の連続でした。そして、先ほど出てきた荒れ果てた地というのも、ユダヤ人が十九世紀にイスラエルの地に帰還を始める前までは、沼地と荒地しかなかったと言われています。実に、イスラエルは、祝福のみならず、裁きにおいても神の存在を世界に知らしめる証人となっていたのです。
そして私たちが知らなければならないのは、この離散の状態になることこそ神が最もイスラエルに経験してほしくなかったことなのです。主が何度も何度も、「わたしは、あなたがたをエジプトから連れ出した神である」と宣言されました。それは、彼らが奴隷状態になっていることを神ご自身が最も望んでいなかったからです。それで、彼らにイスラエルにカナンの地を与えられたのです。ところが、その初めの状態に戻ってしまいました。これは悲惨なことです。
けれども、これはキリスト者にとっても大きな警告となっています。ペテロが第二の手紙でこう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2:20)」初めから知らずに罪に溺れていることのほうが、知ってから溺れるよりはましだ、とペテロは言っています。このことを避けるために、主はイスラエルに対して、また私たちに対して、何とかして振り返ってほしいと願い、懲らしめを与えられるのです。
Ⅳ.神の慰め(40-46)
しかし、神の警告はこれだけで終わっていません。そこから悔い改めて神に立ち返る者への回復と慰めを語っています。最後に40節から46節までを見て終わりたいと思います。まず40-41節をご覧ください。
「26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」
いよいよイスラエルは自分たちの過ちに気が付きます。自分たちが不実なことを行い、神に反抗して歩んだ自分たちの罪と先祖たちの罪、咎を告白します。彼らは敵国へと送り込まれたことによって、自分たちの過ちにやって気づくわけです。これが、主がイスラエルに望まれていたことでした。ここに「無割礼の心」とありますが、これは男性の性器が包皮で覆われていることによって感覚が鈍るのと同じように、心が神の声に対して鈍くなっていたことを示しています。けれども、今彼らはそれを悔い改めて、神に立ち返ります。これこそが神の懲らしめの目的であり、懲らしめによってその罪の愚かさに気づき、自らその罪を楠改め、神に立ち返るのです。するとどういうことが起こるでしょうか。42-46節です。
「26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。26:46 以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。」
ここにすばらしい神の慰めの約束があります。彼らが離散の民になったことによって、もうこれで終わりと考えてもおかしくありません。けれども、アブラハム、イサク、ヤコブに神が与えられた約束はそれでも有効だったのです。主はイスラエルをお見捨てになりません。今も見捨てておられないし、今後も見捨てることはありません。異邦人の救いが完成したら、今度は彼らを救ってくださるのです。アブラハムとの契約を思い出すというのです。
このように、神の選びというのは確かなのです。私たちがイスラエルに対して、私たちの勝手な思いで「イスラエルは見捨てられた」と考えるならば、私たちが罪に陥って、とことんまでどん底に落ちたら、主は私たちをお見捨てになる、と言っているのと等しいのです。これでも、主は予め知っておられる者たちを、決して見捨てたりなさらないのです。もちろん、土地から引き抜かれるという痛みを味わいました。こんなひどいところを通らずして、主とともに歩むことができれば最高です。だから、通らないで従順でいることのほうが大事なのです。けれども、たとえ失敗しても、主は再び立ち上がる機会を与えてくださるのです。