Ⅰテサロニケ3章1~13節 「クリスチャンの励まし」

きょうはⅠテサロニケ3章のみことばから「クリスチャンの励まし」について学びたいと思います。パウロはこの手紙においてずっと思い出すことに焦点を絞って語ってきました。彼ら自身の信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い出させ、また、パウロたちが激しい迫害の中でどのように主に仕えてきたのかを思い出させて、激しい苦闘の中にあっても、何とか主にとどまってほしいと願ったのです。その願いはこの3章においても続きます。しかし、ここでは思い出させることによってではなく、実際に同労者のテモテを彼らのところへ遣わして励まそうとします。ここにクリスチャンの励ましとはどのようなものなのかが教えられています。きょうはこのところからクリスチャンの励ましについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.パウロの励まし(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんできず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」

「そこで」とは、2章17節を受けての「そこで」です。2章17節には、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。」とあります。パウロは彼らの顔をみたいと切に願っていたので、もはやがまんできなくなり、パウロたちだけがアテネにとどまり、テモテをテサロニケに遣わしたのでした。なぜそんなにも彼らの顔を見たいと思ったのでしょうか。彼らのことが心配だったからです。心配だったのでテモテを彼らのところへ遣わし、彼らが苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもいないように励まそうとしたのです。

私はここにクリスチャンの励ましとはどういうものなのかが教えられていると思います。それは、他の人たちの霊的状態に常に気を配り、彼らが様々なことで動揺し信仰から脱落することがないように励ますものであるということです。様々なこというのは、たとえばテサロニケの教会の場合はユダヤ人からの激しい迫害がありました。そうした苦難の中で信仰が動揺する人たちがいたのです。それは姿、形を変えて、現代の私たちクリスチャンも経験していることです。5節を見ると、「誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思い、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです」とありますが、パウロはちゃんと知っていたのです。彼らがそうした事態に直面したときどんなに気弱になるか、また、その弱さに付け込んで誘惑者であるサタンがどんなに巧妙に働きかけるのか・・・を。私たちは全能の神を信じる者として、神がいつもともにいて助けてくださるということを信じていますが、そうした事態に置かれるとすぐに躓いてしまうような弱い者なのです。特に、誘惑者であるサタンは、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っています。私たちにはそうしたサタンの誘惑に勝利するだけの力はありません。神は力ある方だと信じていても、その神から離れてしまえば私たちには何の力もないのです。そのような時、いったい私たちはどうやって信仰に立ち続けていることができるのでしょうか。互いに励ますことによってです。クリスチャンは互いの信仰の状態や戦いについて無関心であってはなりません。互いの霊的状態に配慮しながら、動揺することがないように、信仰に堅く立ち続けることができるように励まし合わなければならないのです。

無理です!私は自分のことで精一杯なんですから・・。とても他の人のことまで配慮する余裕なんてありません。そう思っている方も少なくないと思います。しかし逆なんです。私たちが他の人のことを顧みて、その人が信仰に堅く立ち続けるように励ましいくなら逆に自分自身が恵まれ、自分自身が強められることになるのです。ですから、私たちは自分のことだけでなく他の人のことも常に顧み、パウロがテモテをテサロニケに遣わして励ましたように、具体的な行動をもって励ましていかなければならないのです。

信仰から離れていく人は、ある日突然そうなったのではありません。実はそれ以前から礼拝を休みがちになったり、クリスチャンとの交わりを避けるようになったりするなど、事前にそのシグナルを送っていたはずなのです。それを早期に発見し、手遅れにならないように励ましていれば、その中の相当数の方々は信仰にとどまっていることができたのではないでしょうか。ですから私たちは他のクリスチャンの霊的状態に常に気を配りながら、励ましていかなければならないのです。

3節を見ると、彼は「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように」テモテを遣わしたとあります。また、5節でも、「あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」とあります。初代教会の交わりの豊かさは、このように実際に会って目に見える形での交わりにあずかりたいと熱心に願っていたことにあります。彼らはただメールでのやりとりや、「祈っています」といったお決まりの挨拶程度の交わりではなく、実際に会って顔と顔とを合わせ、手を握り合い、声を掛け合う交わりを求めていたのです。使徒ヨハネはその手紙の中でこう言っています。

「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(Ⅱヨハネ12)

パウロもまた10節で、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」と言っています。彼らの交わりは、顔と顔を合わせての交わりだったのです。私たちはメールやLINE、フェイスブックといった通信の便利な時代にあって、こうした交わりの原則を忘れがちになりがちですが、顔と顔を合わせての交わりの豊かさと祝福というものを大切にしていきたいものです。へブル人への手紙10章25節には、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とありますが、なぜいっしょに集まることをやめたりしないのかというと、この顔と顔を合わせての交わりが重要だからなのではなでしょうか。

また、そればかりではなく、パウロはテサロニケの人たちにこう言っています。「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」

どういうことでしょうか。パウロははっきりと、クリスチャンの苦難は「定められている」ものであると断言しているのです。それは思いがけないことではなく、当然のことであるということです。また4節にあるように、それはまたテサロニケに滞在していた時にも前もって言っておいたことですが、それが今、果たしてその通りになっただけのことなのです。すなわち、こうした苦難は先刻承知のことなのですから、決してあわてふためいたり、信仰をぐらつかせたいしないでほしいということなのです。新しく信じた人や求道中の人に向かって私たちは、クリスチャン生活はすべてがバラ色であるかのような印象を与えやすいものですが、信仰を持ったことのために生じる困難もあるということを前もって語りながら、免疫をつけるというか、困難に対する心構えも同時に持つように勧めていく必要があります。その中で、キリスト教の救いがどんな確かで、苦難に勝ち得てあまりあるものであるかを力強くあかしして、励ましていかなければならないのです。

Ⅱ.パウロの生きがい(6-10)

次に6節から10節までをご覧ください。

「6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

テモテの報告をパウロたちが聞いたのは、彼らがコリントにいた時でした(使徒18:5)。そして、テモテの報告は実に喜ばしいものでした。テサロニケの教会は、パウロたちの予想をはるかに越えて、主にあって固く信仰に立っていました。そればかりではなく、彼らの互いの間に愛が満ち溢れていたのです。また将来の、キリストの再臨の希望を持っていました。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(Ⅰコリント13:13)テサロニケの教会には、この信仰と希望と愛が溢れていました。

仮にパウロが、テサロニケには大勢のクリスチャンはいたけれども、パウロが宣べ伝えた福音とは異なるものを信じていた、と聞いたらどうだったでしょう。きっとその心は苦しみもだえたことと思います。あるいは、彼らの間に愛がなかったとしたら、悲しんだことでしょう。将来の、輝けるキリストの再臨の希望もなかったとしたら、残念に思ったに違いありません。けれども、今テモテが持ち帰った報告は、こうした心配や不安を一掃するほどのすばらしい喜びの知らせだったのです。

また、彼らはパウロたちのことをいつも考えていて、パウロたちが彼らに会いたいと思っているように、彼らもまた、しきりにパウロたちに会いたがっているということを聞いて、この上もない喜びを感じました。それは遠く離れてはいても、彼らもまた祈りの中でパウロたちのことを思い出してくれていたことを示しているからです。

このようなわけで、パウロはテサロニケの人たちの信仰によって、慰めを受けました。パウロの宣教の働きは苦しみの患難の連続でしたが、そうした押しつぶされそうになるプレッシャーやストレスとの戦いの中にあっても、こうした彼らの信仰はオアシスのような慰めをパウロにもたらしてくれたのです。

このことから、クリスチャンの励ましについてのもう一つの大切な原則が教えられます。それはクリスチャンの励ましは決して一方通行ではないということです。クリスチャンの交わりは、互いに良いものを分かち合う関係なのです。ちょうど愛情を注いで子供を育てると、その子供からも多くの喜びと慰めを受けるように、クリスチャンの交わりも互いに良い者を分かち合う関係なのです。パウロほどの人物であれば、直接神から慰めを十分受けているのだから、人間からの慰めや励ましなど必要なかったのではないかと考えられがちですが、決してそうではないのです。ピレモンに対しても彼は、「あなたの愛から多くの喜びと慰めを受けました。」(ピレモン7)と言っています。激しい霊的戦いの中に置かれ、大きな責任を持っている人ほど、その孤独で厳しい働きのゆえに他の人からの励ましと慰めを何よりも必要としているのです。

そして、こうしたテサロニケの人たちのような信仰の姿を見ることは、彼にとっての生きがいでもありました。8節には、「あなたがたが主にあって固く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。」とあります。パウロの生きがいは、人々が主にあって堅く立っているということでした。それは何にも代えがたいほどの力と励ましをパウロに与えてくれるものだったのです。パウロにとって他の兄弟姉妹の信仰の成長を見ることなしには、生きる目的も喜びもなかったのです。彼は自分だけの信仰が保たれ、神との交わりが満たされて満足するような信仰ではありませんでした。主にある人々とのよき信仰の分かち合いを離れては、クリスチャンとして存在理由を見いだせないと思うほど、他の兄弟姉妹のことを思い、彼らが主にあって堅く信仰に立っていてくれることを生きがいとしていたのです。

あなたの生きがいは何ですか。私たちはパウロの生きがいを生きがいとしたいものです。自分の喜びや満足ではなく、他の兄弟姉妹が信仰に堅く立っていてくれることを喜び、そのことを切に祈り求める者になりたいと思うのです。

Ⅲ.パウロの祈り(11-13)

 

第三に、パウロの祈りです。11節から13節までをご覧ください。

「11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」

テモテの報告を聞き、テサロニケの人たちの信仰を知ったパウロは喜びにあふれ、神への感謝へと導かれました。しかし、それだけで終わってはいません。その感謝の祈りは新たな祈りへの導火線になっているのがわかります。試練の中にあるクリスチャンが一番危機に陥りやすいのは、試練の最中にある時ではなく、それを乗り越えたと思われる時であるからです。試練に直面している時は、多くのとりなしの祈りがささげられますが、解決の知らせが伝えられると、みな安心してさっと祈りの手を引っ込めてしまうからです。ですから、パウロは喜びの知らせを聞いたからこそ、なお一層テサロニケの人たちのために祈っているのです。

パウロはここで三つのことを祈っています。第一に、主イエスご自身が、道を開いて、彼らのところに行かせてくださるように。第二に、彼らの互いの間の愛が増しくわえられますように。そして第三に、キリストの再臨に備えて、彼らが主の前に聖い歩みをすることができるようにということです。

まずパウロたちがテサロニケに行くことができるように、主ご自身が道を開いてくださるようにと祈っています。これは2章18節のところで、パウロたちが彼らのところに行こうとしても行けないのはサタンがそれを妨げているからだと言っていますが、その障害を取り除いてくださるのは全能の神ご自身です。パウロは、人間のどのような熱意と願望をもってしても、神が道を開いてくださらなければそれは不可能であることを知っていました。また、逆に、それがどんなに難しい状況にあっても神が道を開いてくださるなら、必ず可能になると確信していました。すべては神のご計画と導きの内になされるのです。私たちも私たちの置かれている環境の中で、神が道を開いて導いてくださるならば必ずそうなるし、そうでなければ開かれることはないということを覚え、どんな小さなことでも祈りによって道が開かれることを求めていきたいと思います。

次にパウロは、彼らの互いの間の愛が増し加えられるようにと祈っています。苦難の中にある教会は、その問題が解決し良い方向へ動き出すと、兄弟姉妹相互の結束が深められ、これまでにない愛の一致を生み出されます。しかし、同時にそれは逆の作用を生み出すこともあるのです。たとえば、迫害する者に対して憎しみを持つことが正当化されたり、そうした苦しみの中で動揺する弱い信仰者をさばいてみたり、やっぱり自分が正しかったと片意地になった信仰に陥ってしまうこと等です。心にゆとりを与えないほどの困難な事態は、兄弟姉妹の間にさまざまなあつれきを引き起こしやすいのです。

だからパウロは、「あなたがたの互いの間の愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と祈ったのです。苦しみだけが満ちて愛が失われた群れは悲惨ですが、苦難が増すにつれて愛が満ちていく教会は、決して動揺したり倒れたりすることなく、そこに神の栄光が豊かに現されていくからです。

そしてパウロは、キリストの再臨についても祈っています。真の愛に満ちたクリスチャン生活とは、主が再び来られる日に備えて、聖く、責められるところのない者として整えられていく生活だからです。主イエスは終末の前兆として、多くの人たちの愛が冷えることを預言しました(マタイ24:12)。またパウロは終わりの日にやってくる困難な時代には、自分を愛したり、金を愛したり、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が出てくると言いました(Ⅱテモテ3:1-3)。まさに今はそのような時代ではないでしょうか。愛と聖さが急速に失われている時代にあって、私たちはこの二つの特質をしっかりと追い求め、キリストの再臨に備えて主にある信仰の友がしっかりと整えられるように祈り求めていかなければならないのです。

私たちはますます、主によって心を強めていただかなければなりません。苦難は必ず訪れます。しかし、たとえ苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように励ましていく。それがクリスチャンの真の交わりなのです。