民数記5章

きょうは、民数記5章から学びます。1章から4章までのところには、イスラエル人の人口調査について記されてあります。イスラエルがこれからシナイ山を出発し約束の地に向かって進んで行く上で、体制を整えることはとても重要なことでした。そこで彼らはまずイスラエル人の人口を数えて登録しました。20歳以上の男子で軍務につくことのできる男子を登録し、また幕屋の器具を運ぶためにレビ人を登録しました。そして、宿営における部族ごとの配置も定めました。幕屋を中心として東西南北の方角ごとに位置したのです。その中心には神の幕屋がありました。神の幕屋を中心にした秩序を保って、約束の地へと向かって行ったのです。彼らはそのようにして自分たちがイスラエルの共同体の一員であることを自覚し、自分に課せられた任務をわきまえて、神を中心とした一枚岩となって前進して行ったのです。

それは神の教会も同じです。教会も自分たちがどの教会に属し、自分たちに託された使命や役割は何なのかを知ることによって、キリストを中心として一枚岩となって進んで行かなければなりません。イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。そのような教会はハデスの門も打ち勝つことができないほど強固で、この世の荒野を進んで行くことができるのです。

しかし、そのように戦闘態勢を整え、奉仕の体制を整えたら大丈夫かというとそうではありません。それを脅かすのがあります。それは宿営の外側からの脅威だけでなく、内側からのものです。それは罪の問題です。罪が宿営を破壊し、死をもたらす原因にもなります。ですから、この罪に対してしっかりと対処していかなければなりません。それがこの5章で取り扱われている内容ことです。それでは早速本文を見ていきましょう。まず1節から4節までをご覧ください。

1.  罪のきよめ(1-4)

「1ついではモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」4 イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行った。」

ここには、ツァラートの者、漏出物を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せとあります。なぜでしょうか?このツァラアトについてはレビ記で見たとおり、らい病とは違います。というのは、ツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であるからです。それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではありませんが、しかし,それは「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態のことで、汚れたものであることは確かです。漏出を病むというのは性病のことで、それは伝染性のある有害なものでした。また、死体も腐敗するとばい菌がつき、それが伝染する危険性がありました。ですから、このようなものが宿営の中に蔓延すれば、イスラエルの民は滅んでしまいます。どんなに外的から守られるために軍務につく者を配置しても、内部から崩壊する危険があったのです。ですから、外からの攻撃から自分たちを守るだけではなく、内側にある汚れを取り除くことが、彼らが存続していくために不可欠なことだったのです。

しかし、ここではこうした衛生的なことだけでなく、もっと大切な理由がありました。それは3節に書かれてあります。「わたしがその中に住む」という言葉です。そこは、神が住んでおられるところだからです。聖なる主が宿営の中に住まわれているので、汚れた者が宿営の中にいることはできなかったのです。つまり、このツァラアトの者とか漏出を病む者、死体によって身を汚している者というのは、罪の象徴だったのです。そこに罪、汚れがあれば、神がお住みになることはできません。なぜなら、神は聖なる方だからです。聖なるものと汚れたものは相容れないのです。ですから、イスラエル人たちは、自分たちの間にある汚れを取り除かなければならなかったのです。

考えてみると、イスラエルの民がここまで進んでくることができのはなぜでしょうか?300万人にもなる群集を導くことができた力は何だったのでしょうか?それはモーセやアロンに指導力があったからではありません。イスラエルに特別な能力があったからでもないのです。そこに神がおられたからです。神が彼らの真ん中に住んでおられたので彼らは一つになることができ、力強く前進することができたのです。その神がいなかったらどうなるでしょうか。何もすることができません。神が共におられるということ、神がその中に住んでくださるということがイスラエルの強さの秘訣であり、神の民の本質であって、それがなかったら何もすることもできないのです。ですから、神は宿営の中から汚れを追い出すようにと命じられたのです。

このことは、神の共同体である教会にも言えることです。私たちの間にも聖さが保たれていなければなりません。だれかが罪を犯し、指摘しても悔い改めないのであれば、自分たちで取り除いていかなければならないのです。それは、共同体においては、一人の罪が全体の罪として数えられているからです。たとえば、ヨシュア記にアカンが罪を犯したときのことが記されてあります。アカンがアカンことをしたのです。彼は聖絶のものをいくらか取ったのです。聖絶のものは主のものなのに、彼はそれを盗んだのです。そのとき、神は何と言われたでしょうか。「イスラエルが罪を犯した。」(ヨシュア7:11)と言われました。それはアカン一人だけの問題ではありませんでした。イスラエル全体の問題だったのです。そこでヨシュアが率いるイスラエルは、アカンを石打ちによって殺し、自分たちの中から悪を取り除いたのです。教会の中に神のいのちがあるためには、聖めが必要です。教会が力をもって前進するためには、私たちの間にある汚れをきよめなければなりません。

2.  他人に罪を犯した場合(5-10)

次に、5節から10節までをご覧ください。ここには、他人に対して罪を犯した場合どうしたらよいかが教えられています。

「5 ついではモーセに告げて仰せられた。6 「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、7 自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。8 もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものはのものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。9 こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。10 すべての人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべての人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。」

他人との不和は争いの種になるので、きちんと処理しておくようにということです。そして、ここにはまず、仲間に対して犯した罪は、主に対して不信の罪を犯すことになると言われています。仲間が傷つけられることがあれば、それは主を傷つけることになるということです。私たちが迫害を受けることは、主も迫害を受けることです。ですから、クリスチャンを迫害していたパウロに主イエスが現されたとき、「サウロ、サウロ。どうしてわたしを迫害するのか。」(使徒9:1-5)と言われたのです。ですから、もし兄弟に対して罪を犯したなら、自分の犯した罪を告白してきちんと処理しなければなりません。

しかし、ここではただ告白するだけでなく、それ相応の償いが求められています。その者は罪過のためにその総額それにその五分の一を加えて、被害者に支払わなければなりませんでした。この五分の一、20%を加えなければならなかったのはなぜでしょうか。それは、被害者の受けた心の傷やしこりといったものに対する補償です。そのように弁済することによって真の和解が成立するのです。それほどに、イスラエルが宿営での生活を営んでいくときに、和解が重要であったことがわかります。お互いが敵対的になり、分裂し、孤立していくようになるなら、イスラエルが共同生活を営んでいく上で致命的となります。したがって、主は、危害を加えた者が、罪を告白して、弁償することを命じられたのです。このような関係の修復は、イスラエルだけではなく、教会にとっても必要不可欠なことなのです。

8節に注目してください。ここには、弁償を受け取る権利のある親類がいなければどうしたらいいかが書かれてあります。その場合は、それは主のものであり、祭司のものとなります。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうです。弁償を支払う相手がいなくとも、支払わなければいけません。主に対する罪なのですから、この罪が取り除かれなければいけないからです。そのときは、祭司のところに弁償を持ってきます。こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなるわけです。すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のもの、主のものになるのです。

3.姦淫の罪を犯した場合(11-31)

次に、もし妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯した場合はどうしたらよいかについて見たいと思います。少し長いですが、11節から31節まで見たいと思います。まず15節までをお読みします。

「11 ついではモーセに告げて仰せられた。12 「イスラエル人に告げて言え。もし人が妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、13 男が彼女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れており、彼女は身を汚したが、発見されず、それに対する証人もなく、またその場で彼女が捕らえられもしなかった場合、14 妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こって妻をねたむか、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こって妻をねたむかする場合、15 夫は妻を祭司のところに連れて行き、彼女のために大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きなさい。この上に油をそそいでも乳香を加えてもいけない。これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物だからである。」

ここでは妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、男が女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れていて、発見されず、そのことに対する証人もなく、またその場で彼女が捕えられもしなかった場合どうするかということです。そして、そのことで夫は疑いを抱いているわけです。夫は、もしかしたら他の男がいるかもしれない、と勘ぐっていますが、その証人はどこにもいません。現場で捕らえられることもありません。ただ夫が、そうではないかと疑っているのです。そのような時はどうしたらよいか。実に生々しい、具体的な問題です。そういう番組もありますね。しかし、ここにはそういう時にはどうしたらよいかの具体的な方法が示されています。

そのような時には、夫は妻を祭司のところに連れていきます。そして、大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きます。そこには油を注いでも乳香を加えてもいけません。なぜでしょうか?この油は聖霊のことを表しているからです。イエス・キリストを信じる者に与えられるいのちの御霊のことだからです。ですから、穀物のささげ物に油がまざっているということは、イエス・キリストを信じる者の中に聖霊が住んでおられることを表しているのです。しかし、これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物なので、油を入れてはいけないのです。

ところで、なぜここに夫婦の問題が取り上げられているのでしょうか。それは、私たちのすべての関係の基本がここにあるからです。イスラエルの共同体において、部族、氏族という単位がありましたが、もっとも小さな単位はもちろん家族であり、その中でも夫婦が最小単位です。この夫婦の関係が土台であり、夫婦が一心同体になっていることがイスラエル共同体の大前提であったのです。それはちょうど原子が分裂したら、物質はそのままで存在することはできないように、夫婦に亀裂が生じたら、共同体全体が存続できなくなってしまいます。だから、主は、妻の不信の罪について、その疑いがあるだけでも、それを明らかにするように命じておられるのです。

ではなぜ妻だけの問題が取り上げられているのでしょうか。夫だって、姦淫の罪を犯すのではないでしょうか。むしろその方が多いかもしれません。それなのに、ここでは妻の問題だけが取り上げられているのです。いったいそれはどうしてなのでしょうか。ユダヤ教のラビ、教師は、これは男女相互に適用される、と解釈しています。それはそうでしょう。妻だけに適用されることだとしたら、問題になります。それにのになぜここには妻だけが取り上げられているのでしょうか。

ここで鍵になる言葉は「ねたむ」という言葉です。聖書には、主ご自身が、「わたしはねたむ神である」とおっしゃっておられます。だから、ほかの神を拝んではいけないのです。主だけを拝し、主だけに仕えなさい、と命じられています。そして、主はご自分を夫になぞらえて、イスラエルを妻にして、ご自分とイスラエルとの関係を表しておられるのです。そうです、ここには神とイスラエル、キリストと教会との関係が示されているのです。ですからここにはただの姦淫の罪ということではなく、霊的姦淫の罪について定められているのです。霊的に姦淫の罪を犯すということは、単に罪を犯すことよりも深刻な問題です。妻が夫に対してどのような罪を犯していても、夫が妻を愛しているなら、それを赦すことができますが、他の男に行ってしまったら、どうなってしまうでしょうか。それは関係そのものの一切が切れてしまいます。同じように、私たちが神に対していろいろな罪を犯しても、神は赦してくださいますが、他の神に移ってしまったら、もうそこで関係は切れてしまうのです。パウロはコリントの教会に対してこう言いました。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(Ⅱコリント11:3)それはこのことを語っていたのです。コリントの教会は、偽使徒たちによって異なるイエス、異なる福音、異なる霊を受けていました。そこでパウロは、エバが蛇によって欺かれたように、キリストの花嫁であるあなたの思いも汚されているのではないか、と心配していたのです。

16節から22節までをご覧ください。「16 祭司は、その女を近寄らせ、の前に立たせる。
17 祭司はきよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れる。18 祭司は、の前に女を立たせて、その女の髪の毛を乱され、その手にねたみのささげ物である覚えの穀物のささげ物を与える。祭司の手にはのろいをもたらす苦い水がなければならない。19 祭司は女に誓わせ、これに言う。『もしも、他の男があなたと寝たことがなく、またあなたがた夫のもとにありながら道ならぬことをして汚れたことがなければ、あなたはこののろいをもたらす苦い水の害を受けないように。20 しかしあなたが、もし夫のもとにありながら道ならぬことを行って身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば、』21 ―そこで祭司はその女にのろいの誓いを誓わせ、これに言う―『があなたのももをやせ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあってがあなたをのろいとし誓いとされるように。22 またこののろいをもたらす水があなたのからだに入って腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』その女は、『アーメン、アーメン』と言う。」

ここで彼らは不思議な方法でその疑いを晴らしました。夫が妻を祭司のもとに連れて行くと、祭司は、その女を近寄らせ、主の前に立たせます。そして、きよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れます。それはのろいをもたらす苦い水です。祭司は女に誓わせてその水を飲ませますが、もし女に汚れたことが何一つなければ女は何の害も受けず、もし女が道ならぬことを行って身を汚していたら、その水がからだに入るとき、腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせました。現代でいうとうそ発見器のようなものかと思いますが、それにしても、何とも奇妙な方法です。いったいこれはどういことなのでしょうか。

まずこの水とはみことばのことでしょう。エペソ5章26節には、「みことばにより、水の洗いをもって」とあります。みことばが水として表現されているのです。みことばが洗うのです。みことばが見極めるのです。その水の中に、幕屋の床にあるちりを取って入れます。これは創世記3章14節のところに、神は蛇に対して、「おまえは、…ちりを食べなければならない。」と言われましたが、のろいを表しているものと思われます。それは神のみことばの中にあるさばきであると言えます。というのは、ヘブル4章12、13節に、こう書いてあるからです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とありますが、実は次の言葉に続きます。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。神のみことばによって、また、聖霊の働きによって、隠れたこともみな裸にされて、さらけ出されるのです。祭司はその女にのろいの誓いを誓わせるというのは、祭司が誓わせたことが女のことばになるということです。もし彼女が嘘を言っていたらのろいがもたらされ、本当だったら害を受けることがないということです。

それからどうなるでしょうか。23節から31節までを見ていきましょう。「23 祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落とす。24 こののろいをもたらす苦い水をその女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って苦くなるであろう。25 祭司は女の手からねたみのささげ物を取り、この穀物のささげ物をに向かって揺り動かし、それを祭壇にささげる。26 祭司は、その穀物のささげ物から記念の部分をひとつかみ取って、それを祭壇で焼いて煙とする。その後に、女にその水を飲ませなければならない。27 その水を飲ませたときに、もし、その女が夫に対して不信の罪を犯して身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれ、そのももはやせ衰える。その女は、その民の間でのろいとなる。28 しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、害を受けず、子を宿すようになる。29 これがねたみの場合のおしえである。女が夫のもとにありながら道ならぬことをして身を汚したり、30 または人にねたみの心が起こって、自分の妻をねたむ場合には、その妻をの前に立たせる。そして祭司は女にこのおしえをすべて適用する。31 夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。」

なんと今誓ったことを書物に書き、それを苦い水の中で洗い落とします。つまり、自分のことばが自分の腹の中に入って、自分のうちに実現するということです。ここで、真実が明らかにされます。姦淫の罪を犯していれば、女は子を宿すことができないようなからだになり、犯していなければ何の害も受けなくてもすみます。これは、本当に罪を犯していない人にとっては、この上もなくうれしいことです。夫から疑いをかけられていたけれども、今、潔白であることが証明されたからです。自分が罪を犯したとも、犯していないともわからないような状況でしたが、神は、この方法によって、彼女の純潔をためされたのです。

しかし、私たちはどうでしょうか。主に罪を探られたら、主の前に立っていることができるでしょうか。この苦い水を飲んだら、それがのろいとなって害を受けるような者なのではないでしょうか。しかし、私たちの代わりにのろいを受けてくださった方がおられます。苦い水を飲まれた方がおられるのです。だれでしょうか。そうです、私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは私たちの代わりにのろいとなってくださいました。私たちのために苦い水を飲んでくださいました。酔いぶどう酒です。十字架の上で・・・。それは私たちがさばかれることなく、そのさばきを代わりに受けるためでした。私たちはこのイエス・キリストの十字架の身代わりによってのろいをうけない者にしていただけたのです。イエスは、姦淫の現場で捕えられた女に、こう言われました。「わたしもあなたを罪に定めなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:10-11)私たちはキリストによってすべての罪が赦されました。私たちは神ののろいではなく、神の恵みによって聖い者にしていただけたのです。すべての罪が赦されて、身の潔白が証明された人は何と幸いなことでしょう。自分の疑いが晴らされて身の潔白を証明できた女が躍り上がるような喜びに満ち溢れたように、私たちも救い主イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、このキリストの中にいることによって日々イエス様のように変えられ、やがてくる終わりの時にキリストの花嫁として、いつまでも主とともにいられるということはこの上もない喜びです。この喜びのゆえに、私たちはますます私たちの代わりに死んでくださったキリストに感謝し、この方に中にずっととどまっていたいと思います。たとえ道から外れることがあっても、そののろいを受けてくださったキリストの愛のゆえに、悔い改めて神に立ち返る者でありたいと思います。