Ⅰテサロニケ5章1~11節 「主の日に備えて」

きょうは、「主の日に備えよ」というテーマでお話します。先週は4章13節から、眠った人々のことについて学びました。イエス様を信じて死んだ人たちはどうなるのか。彼らはイエス様が再び来られるその時、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これがクリスチャンの救いの完成です。それはクリスチャンにとっての本当の慰めとなります。このことばをもって互いに慰め合わなければなりません。そして今日の箇所には、そのキリストの再臨にどのように備えたらよいかが語られています。

Ⅰ.主の日は突然やって来る(1-3)

まず、第一のことは、主の日は盗人のように突然やって来るということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。」とあります。

「それら」という言葉は原文にはありませんが、これはキリストの空中再臨、携挙のことであることは、前後の文脈からわかります。その時については、あるいはその時期については、書いてもらう必要がないというのです。なぜなら、彼らはその時についてよく承知していたからです。2節を見ると、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」とあります。彼らは主の日がどのようにしてやって来るかをよく承知していたのです。この「主の日」とは、主が再臨される日のことであり、神の激しい怒りが下る時でもあります。その日は夜中の盗人のようにやって来るのです。

3節をご覧ください。「人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如して滅びが彼らに襲いかかります。」この「彼ら」とは1節の「兄弟たち」とは別の人たちのことです。つまり、これはノンクリスチャンたちのことを指して言われているわけです。彼らが「平和だ。安全だ」と言っているようなときに、突然滅びが彼らに襲いかかるのです。もし泥棒が、いついつあなたの家に侵入しますからね、と事前に言ってくれたら、それに備えてしっかり戸締りとかをしてちゃんと用心することもできるのですが、それがいつなのかがわからないのです。それは突如として襲いかかって来るのです。

このことは、すでにイエス様が弟子たちにお話なさったことでもあります。マタイの福音書24章43節には、「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。の子は思いがけない時に来るのです。ですからこのことを知り、このために用心している人は幸いです。けれども、それがいつなのかはわかりませんが、その前兆があります。イエス様はこう言われました。「32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32-33)

これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいていることを知らなければなりません。いちじくの木から、たとえを学ばなければならないのです。枝が柔らかくなって、葉が出てくると、夏が近いということがわかるように、これらの前兆があれば、イエスの再臨が近いということがわかるのです。いったいそれはどんな前兆があるのでしょうか。

まず5節には、「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。大勢の偽キリストが現れます。「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。お隣の韓国はキリスト教の盛んな国ですが、多くの偽キリストが現れています。自分が再臨のキリストだと主張する人が50人もいるというのです。そしてそれを信じる人たちが少なくとも200万人から300万人もいるのです。日本のクリスチャン人口が約100万人ですから、これがどれほどの数であるかがわかるでしょう。これは韓国のキリスト教人口の約4分の1に相当するもので、多くの教会がこうした異端によって傷を受けており、その被害は深刻なものになっています。特に、「新天地」と言われるグループは素性を隠してひそかに教会に入り込むので見分けが難しく、韓国のキリスト教会の脅威になっているのです。

また6節には、「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょう」とあります。世の終わりが近くなると、戦争のことや戦争のうわさを聞きます。先に起こった二つの世界大戦は、歴史上前例を見ないほどの世界規模で行われました。そして今も戦いが止むことはありません。イスラム国(IS)をはじめ、イスラム過激派と呼ばれるグループが世界中でテロを企てています。これらのテログループはこれまでと違って豊富な資金源を背景に全世界から兵士を集め、世界中に拡がり続けているのです。

そして7節には、「方々にききんと地震が起こります」とあります。日本でも3年前に東日本大震災が発生しましたが、こうした地震やききんが世界中で頻繁に起こっているのです。その他、世の終わりの時には、不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。現代はまさにそのような時代となっているのです。インターネットが普及してからは、ネット犯罪と呼ばれる犯罪があとを絶たず、世界中に悪がはびこっています。

そして何といっても、世の終わりが近くなると、天の果てから果てまで、四方からその選びの民が集められるとあります。これは世界中に散らされているユダヤ人が集められるという預言ですが、この預言のとおりに、世界中に離散していたユダヤ人が集められ、イスラエルという国を再興しました。1948年5月14日のことです。これは世の終わりが近いということの確かなしるしと言えるでしょう。

まさにいちじくの木の枝が柔らかくなって、葉が出てきています。夏が近づいているのです。イエス様は戸口まで近づいているのです。私たちは今、そういう時代に生きているのです。それなのに人々は「平和だ。安全だ。」と言っています。しかし、人々が「平和だ。安全だ」と言っているまさにそのようなときに、突如として滅びが襲いかかるのです。

Ⅱ.しかし、兄弟たちを襲うことはない(4-5)

第二のことは、しかし、クリスチャンには、そのように主の日が、盗人のようにやって来て襲うようなことはありません。4節と5節をご覧ください。「4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。」

「兄弟たち」とは、先ほども言ったように、キリストにある人たちのことです。神のさばきは突如として彼らに襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。大抵の場合、盗人がやって来るのは夜です。まあ白昼堂々というケースもありますが、大抵の場合は夜なのです。それは暗やみのわざだからです。ですから、光の子どもであるクリスチャンを襲うということはありません。むしろ、その日はクリスチャンにとっては喜びの日です。なぜなら、花婿であられるキリストが花嫁である教会を迎えに来る時だからです。

ヨハネの福音書8章12節に、次のようなイエスのことばがあります。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスは世の光であられ、このイエスを信じ、イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。盗人が突然現れてあなたを滅ぼすというようなことはないのです。

またヨハネの福音書5章24節には、こうあります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」イエスを信じる者はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。この場合のさばきとは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきであると同時に、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことでもあるのです。なぜなら、9節にあるように、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」

皆さん、クリスチャンは、キリストが再臨される時にさばかれることはありません。神は私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにとお定めになられたからです。かつてはそうではありませんでした。エペソ2章3節にあるように、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:4-5)

どんなにいい人でも神の怒りから免れることはできません。どんなにいい人でも、神の目にはそうではないからです。みんなさばかれて致し方ないような者なのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。イエスを主と告白し、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じただけで救ってくださいました。あなたがどれだけいい人で、どれだけ良いことをしたかなどということは全く関係ないのです。ただイエスを救い主と信じただけで救われたのです。イエス以外には救われる道はありません。このイエスを信じた人は光の子ども、昼の子どもですから、暗やみが襲いかかるということはないのです。あなたはイエスを救い主と信じておられるでしょうか。

Ⅲ.だから慎み深くしていましょう(6-11)

ですから、第三のことは、慎み深くしていましょう、ということです。6,7節には「6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」とあります。

この「慎み深く」ということばは「しらふ」とも訳せることばです。「酔う者」に対しての「しらふ」です。イエス様は、ゲッセマネの園で祈っておられたとき、弟子たちに、「誘惑に陥らないで、目をさまして、祈っていなさい。」(ルカ22:40)と言われました。それは、これからイエス様が捕えられ、裁判にかけられ、むち打たれ、ののしられ、あげくの果てに十字架につけられて殺されるという事態に備えるためでした。それなのに弟子たちはどうしていたかというと、すっかり眠りこけていたのです。実際に眠っていたというだけでなく、霊的にも眠っていました。その結果どうなったでしょうか。実際の場面に遭遇したときどうすればよいかわからず、結局、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。そしてペテロは、「イエスなど知らない」と三度も主を否定して、大きな罪を犯してしまいました。眠っているとはこういうことです。自分の周りで起こるかもしれない、いろいろな状況を考えることができないで、自分のことしか考えられないのです。そうなると、何か困難が訪れたとき簡単に罪に陥ってしまうのです。眠っていると、罪を犯しやすくなるのです。だから、誘惑に陥らないように、目を覚ましていなければなりません。こういうことが起こったら自分はどのようにすべきか、このような事態に陥ったら自分はどのようにしてキリストに従うべきなのかを予期しながら、しっかりと備えておなかければならないのです。

その具体的な備えがどのようなものなのかが、8節にあります。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」昼の者として慎み深く生きるためには、信仰と愛と望みによって生きなければなりません。ここではただの信仰、愛、希望ではなく、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、とあります。エペソ人への手紙6章にある霊の戦いのときに身に着ける、神の武具と同じようにたとえられているのです。兵士の胸当てとして、信仰と愛をつけます。そして、頭にかぶるかぶととして救いの望みをかぶるのです。

まず信仰の胸当てです。信仰を胸当てとして着けなければなりません。なぜでしょうか。この信仰が望みへとつながっていくからです。せっかく信仰の種が蒔かれても、岩地に蒔かれた種のように、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうようであれば、実を結ぶことはできません。あるいは、いばらの中に蒔かれた種のように、この世の心づかいや富の惑わしによってふさがれてしまうなら、実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためには、良い地に蒔かれなければなりません。みことばを聞いてそれを悟らなければならないのです。聞いたみことばを信仰によって心に結びつけられなければならないのです。

また、胸当てとして愛も着けなければなりません。神はこの愛をイエス・キリストによって現してくださいました。ここに愛があります。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子をお与えになられました。ここに愛があるのです。この愛を胸当てとして着けなければならないのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、激しい迫害と極度の貧しさの中にあっても貧困で苦しんでいたユダヤの兄弟姉妹のために喜んで献げることができたのはどうしてでしょうか?それは彼らが神に深く愛されていたからです。この愛こそが私たちをキリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおりに信仰を堅くし、あふれるばかりの感謝へと導いてくれるのです。ですから、この神の愛を胸当てとしてしっかりと身に着けなければならないのです。

それからもう一つは、救いの望みのかぶとです。これは先週見たとおりです。やがてキリストが救いを完成してくださるということに望みを置くのです。私たちはイエス様を信じた瞬間に救われ、永遠のいのちが与えられます。しかし、その救いが完成するのはいつかというと、イエス・キリストが再臨される時なのです。そのとき、私たちは朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。そのとき、それまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の喜びに満たされるのです。これが私たちの救いが完成するときです。

しかし、目の前に困難があったり、苦しみがあったりすると、なかなかこの望みを抱くことができなくなります。やがて天の御国の栄光に与るということがわかっていても、目の前のことですぐにつぶやいてしまうのです。この望みは「かぶと」だと言われています。ヘルメットです。頭がやられたらイチコロころです。敵であるサタンはこのことをよく知っているのす。そして、私たちからこの希望を奪おうとして躍起になっているのです。しかし希望というかぶとをしっかりかぶっていれば、サタンは何もすることができません。ですから、救いの望みというかぶとをかぶっていなければならないのです。いつも希望を告白していなければならないのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。この世の人たちには信仰がありません。したがって、愛もありません。ましてや永遠の希望などないのです。彼らが求めているのはこの世の一時的なものにすぎません。そのようなものはやがて朽ちていきます。いつまでも残るものは信仰と希望と愛なのです。テサロニケの人たちは、この三つの徳を持っていました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐を持っていたのです。それゆえに、たとえ救われたばかりでも、たとえ敵から迫害されるという苦しみの中にあって、キリストにしっかりととどまり続けることができました。私たちに求められているのは、この信仰と愛の胸当てを身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって、慎み深く歩むことなのです。

最後に、11節を見て終わりたいと思います。ここには、「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」とあります。ここで強調されていることは「互いに」ということです。互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。このことからわかることは、一人ではイエスの命令を守ることはできないということです。一人の方が落に感じるかもしれません。一人でいた方がだれかと関わる必要もないので問題がなくていいと思うかもしれません。一人でいた方が何の制約も受けることなく、自由に聖書を学ぶことができるのではないかと考えるかもしれませんが、それは間違いです。それはあなたをこの信仰と愛と救いの望みから引き離すためのサタンの巧妙なたくらみなのです。なぜならここに「互いに」とあるからです。一人ではイエス様の命令を守ることはできないし、神のみこころに歩むことはできません。私たちは神の教会に集まってこそ、この互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさいという命令を守ることができるのです。

へブル人への手紙10章25節を開いてください。ここには、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

ここで鍵になる言葉は「かの日」という言葉です。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか、です。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日、その日が近づいているのですから、ますますそうしようではありませんか。いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おうではないかということです。たまに教会に行きますとか、何とか日曜日だけは行くようにしています、では足りません。本気で再臨を信じているのなら、本気でかの日が近づいていると信じているのなら、ますますそうしなければなりません。一緒に集まることをやめたりしないで、ますますそうしなければなりません。これが世の終わりに生きるクリスチャンの姿なのです。

それがいつなのか、またどういう時かについて、私たちは知りません。しかし、確かなことは、それが確実に近づいているということです。それは盗人のように、突如として襲いかかります。その時、私たちは慌てることがないように、しっかりと備えておきたいと思います。信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。今しているとおり、いっしょに集まることをやめたりしないで、かの日か近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。それが世の終わりに生きるクリスチャンに求められていることなのです。