Ⅰテサロニケ5:19~28

きょうは、テサロニケ第一の手紙からの最後のメッセージです。前回までのところでパウロは、主の再臨に備えた者の生き方として、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。と勧めてきました。これが、キリスト・イエスにあって神が私たちに望んでおられることです。そして、その続きがきょうの箇所です。特に、この手紙の最後にあるパウロの結びのことばが心に響きます。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」いったい、キリストの恵みがあふれる生活とはどのようなものなのでしょうか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.御霊を消してはなりません(19-22)

まず19節から22節までのところをご覧ください。「19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。22 悪はどんな悪でも避けなさい。」

ここには、「御霊を消してはなりません」とあります。どういうことでしょうか?御霊とは神の御霊である聖霊のことです。この聖霊を消してはならないというのです。御霊を消すということは聖霊を否定することです。Ⅰコリント12章1節から3節をご覧ください。

「1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」

神の聖霊によらなければ、だれも「イエスは主」と告白することはできません。私たちがイエスを主と告白することができるのは、この聖霊の促しと導きによるのです。イエス様を信じたくても聖霊の導きがなければそのように告白することはできません。しかし、聖霊がそのように促しているにもかかわらずそれを拒むことがあるとしたら、それは聖霊を否定することになります。御霊を消してしまうことになるのです。

またⅠコリント12章4節から7節のところも見たいと思います。ここには、「4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」あります。

ここでは御霊の賜物について語られています。御霊の賜物にはいろいろな種類があります。たとえば、知恵のことばとか、知識のことは、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。いったい何のためにこれらの賜物が与えられているのでしょうか?それは、みなの益のためです。そのような賜物が用いられることによって神の教会、キリストのからだである教会が建て上げられていくのです。みなが同じではありません。みんな違います。しかし、その違った賜物が与えられてこそ教会は建て上げられていくのです。それなのに、そうした賜物を否定することがあるとしたらどうなってしまうでしょうか。それはちょうど目が「耳ではないからからだに属さない」と言っているようなものです。だとしたら、いったいどこで見るというのでしょうか?鼻で見るんですか、それとも耳でしょうか。鼻や耳で見ることはできません。目で見るのです。目はからだの中でなくてはならない大切な器官なのです。それと同じように、私たち一人一人もキリストのからだを構成している器官なのです。一つのからだには多くの器官があるように、教会にもいろいろな賜物があります。その賜物を否定してはいけないのです。もし否定することがあるとしたら、それは御霊を否定することであり、キリストのからだを弱くしてしまうことになるのです。

しかし、パウロはこうした賜物の中でも預言をないがしろにしてはいけないと言っています。預言とは言葉を預かると書くように、未来のことを予め語ることも含めた神の言葉を預かり、それを語ることです。なぜ預言をないがしろにしてはならないのでしょうか。なぜなら、異言は自分の徳を高めますが、預言は教会の徳を高めるからです。それは必ず教会を養い育てます。だから預言をないがしろにしてはいけないのです。

パウロはこのことをⅠコリント14章1節のところでこう言っています。、「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。愛が一番です。なぜなら、愛はすべてを結ぶ帯だからです。たとい人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛が一番すぐれているものです。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛なのです。そして次は何でしょうか。次は預言です。御霊の賜物の中でも、特に預言することを熱心に求めなければなりません。神のことばをひたすら求めなければならないのです。なぜなら、神の言葉が私たちを養い育て、教会を建て上げるからです。

また預言だからといってもやみくもに信じてはいけません。それが本当に神からのものであるかどうかを十分に吟味しなければなりません。これは有名な先生が言ったことだからとか、これは有名な先生の本に書いてあったことだからといって、鵜呑みにしてはいけないのです。ここには、「しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」とあります。

この「見分ける」ということばは「吟味する」とか「検証する」ということです。元々は金属を試すことから出たことばです。それが本当に良いものであるかどうかをテストしました。そのように、それが本当に神から発せられたものなのかどうかを十分に吟味し、それが本物であるならば、たとえ自分の感情がどうであっても、喜んで従わなければならないのです。

使徒の働き17章11節には、ベレヤという町のユダヤ人のことが紹介されていますが、彼らはパウロが語ったことをよく調べました。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」彼らはパウロが語ったからといってそれを鵜呑みにすることをせず、はたしてそのとおりかどうかを吟味するために毎日聖書を調べたのです。そのため、彼らのうちの多くの者たちが信仰に入りました。毎日聖書を調べるくらいの努力をしたら、何が本物であるかがわかるでしょう。この時代にはまだ新約聖書はなく旧約聖書しかなかったので、彼らは旧約聖書をもって吟味しましたが、今の時代は旧約聖書に加えて新約聖書もあります。この聖書をもって調べるのです。そうすれば教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることはないはずです。

テサロニケのクリスチャンは本当に純粋で、パウロを通して語られた神のみことばを、多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもって受け入れました。その結果、彼らは主にならう者となり、その信仰はすべての信者の模範となりました。それはマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、あらゆる所に伝わっていったほどです。しかし、そうした純粋な人たちだからこそ注意しなければならなかったことは、それを鵜呑みにしてはいけないということでした。Ⅰヨハネ4章1節には、「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものであるかどうかを、ためしなさい。」とあります。彼らに求められていたことはためすこと、吟味することだったのです。はたしてそれがほんとうに神からのものなのかどうかを検証して、見分けなければならなかったのです。あまり理屈っぽくなるのも問題ですが、信仰はこうした幼子のように純粋に受け入れるという面と、それがほんとうに神からのものなのかどうかを見分けるといった面の両面の作業が求められます。なぜなら、22節にも「悪はどんな悪でも避けなさい」とありますが、それが神に喜ばれ信仰への確かな道だからです。

Ⅱ.神は真実ですから(23-24)

次に23節と24節をご覧ください。ここには、「23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」とあります。

原文には、「平和の神ご自身が」の前に「de」という言葉があります。「de」というのは「しかし」という意味です。「しかし、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいます。」これは22節の言葉に続いています。「悪はどんな悪でも避けなさい。」無理です。そんなことできるはずがありません。こんなに汚れた者がすべての悪を避けるなんてとてもできません。「しかし」です。悪を避けることは自分の力ではできないかもしれませんが、しかし、平和の神ご自身があなたを助けてくださいます。あなたを全く聖なる者としてくださるのです。主イエス・キリストの再臨のとき、責められるところがないように、あなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださいます。ですから、神を信じてくださいというのです。

ここには、「あなたがたの霊、たましい、からだ」とあります。これは私たちの全領域においてという意味です。私たちは肉体だけの存在ではありません。私たちは霊、たましい、からだという三つの部分が一つになった統一体なのです。全人的な存在です。立派な家に住み、何一つ足りないものがない生活をしているのに、何だか虚しい。ポッカリ穴が開いたような感じがするのはなぜでしょうか。それは霊が死んでいるからです。私たち人間は神によって造られましたが、どのようにして造られたのかというと、「神のかたち」にとあります。この「神のかたち」というのは肉体のことではありません。これは「霊」のことです。なぜなら、神は霊だからです。この霊をもって神と交わり、神に祈り、神をほめたたえる者として造られました。そのとき私たちの霊は満たされ、生きる喜びが与えられます。しかし、人類最初の人であったアダムが神の命令に背き、取ってはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、神との関係が断絶してしまいました。聖書ではこれを罪と言っています。意味は「的外れ」です。的を外した状態になってしまったのです。本来なら神を愛し、神とともに生きるはずの者が、自分中心に生きるようになってしまいました。その結果、霊が死んでしまったのです。しかし、私たちが幸せになるためには、私たちのからだやたましいだけでなく、霊も健やかでなければなりません。なぜなら、私たちはそのように造られているからです。私たちは霊とたましいとからだが統一されて造られているのです。ですから、この三つの領域が完全に守られることによって、平和で、幸せな人生を送ることができるのです。

動物には霊がありません。霊があるのは人間だけです。動物にあるのはたましいとからだだけです。たましいというのは、感情の部分、情緒的な部分のことです。知・情・意の部分です。動物を見ていると喜んだり、悲しんだりしているのがわかります。私はフェレットを飼っていますが、毎朝エサをあげに行くと、私の顔を見るなりそわそわし始めます。ケージに前足をかけ、からだを大きく伸ばして、「早く出してけれ」みたいなことを言います。その表情をみるとわかるのです。かつてコロという犬を飼っていましたが、この犬も喜びを爆発させていました。私の姿を見るだけでしっぽをふって喜びを表現するのです。しかし、知らない人が近寄るとうなったり、吠えたりします。犬は飼い主には忠実ですね。飼い主がいれば喜び、いないと悲しみます。それは犬にもたましいがあるからです。でも犬には霊はありません。霊は人間だけに備わったものだからです。皆さんの中で犬が祈っているのを見たことのある人がいますか?いないでしょう。犬は祈りませぬ。それは人間だけが持っているものだからです。

それなのに、人間が祈れなかったどうなるでしょうか?もう生ける屍でしかありません。どんなにエステに行ってきれいになっても、どんなにジムに行ってからだを鍛えても、どんなに仕事をがんばって大金持ちになっても、生きる力、生きる喜びがありません。人間にとって一番大きな喜びは、神が共にいることだからです。これを永遠のいのちと言います。死んでも生きるいのち、復活のいのち、天国に導き入れられるいのちを持つこと、それが最高の喜びだからです。

皆さん、医学界の最大の発見は何だか知っていますか?それは、クロロフォルム(麻酔薬)の発見だと言われています。これは、ジェームズ・シンプソンによって発見されました。この麻酔薬が発見されたことによって、痛みをあまり感じることなく、手術が受けられるようになりました。歯を抜くときにも、麻酔薬のおかげで、痛みを感じることなく抜けるので本当に助かります。 ある時、この麻酔薬を発見したジェームズ・シンプソンが新聞記者から、「あなたの人生の最大の発見は何ですか?」という質問を受けました。新聞記者が期待していた答えは、彼の口から、「クロロフォルムの発見です」ということでしたが、シンプソン、そのようには答えませんでした。彼は「私の人生の最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられた永遠のいのちです。」と答えたのです。麻酔薬という偉大な発見をしたシンプソンであっても、人生最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられる永遠のいのちだったのです。

人はみな、いつかは必ず死にます。死亡率は100%です。しかし、イエス・キリストを救い主として信じるなら、死んだ後も、天の御国に入り、永遠に生き続けるのです。この永遠のいのちこそ、私たち人類にもたらされた最高の発見なのです。イエス・キリストを信じるなら、神があなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださるのです。

24節を見てください。それは神が真実な方だからです。その根拠はあなたにあるのではなく、神にあります。あなたがたを召された方は真実な方ですから、きっとこのことをしてくださいます。あなたにできなくても、あなたが失敗しても、あなたがするのではありません。あなたを召してくださった神がしてくださいます。そのことを信じてほしいと思います。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるのはあなたの働きではなく、御霊なる主の働きです。イエスによって救われた人は、イエスによってずっと救われ続けます。救ってくださった方にその責任があるからです。神が私たちを救ってくださったのですから、それが完成する日まで、イエスが再臨するその時まで守ってくださいます。だからとって、イエスに丸投げするわけではなく、私たちの側にも責任があって、私たちも神に自分をゆだねなければなりませんが、そうするなら、神が喜ばれるような者に創り変えてくださいます。あなたは神が望まれる者に変えられているでしょうか。いつも喜んでいるでしょうか。絶えず祈っていますか。すべてのことについて感謝していますか。もしそうでなければ、あなたは神が望まれる者になっていません。でも、神はあなたをそのような者に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。そう信じて、おそれないで、あなた自身を神に明け渡していただきたいと思います。

Ⅲ.すべての兄弟たちに(25-28)

最後に、25節から終わりまでを見て終わります。25節には、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」とあります。パウロが救われたばかりのベイビークリスチャンたちに祈ってくださいとお願いしています。教会の創立者が、生まれたばかりのクリスチャンに、私のためにも祈ってほしいと言っているのです。ほんとうにへりくだった人です。へりくだっていなければこのように言えことはできません。あなたのために祈ってやります、あなたのためにしてやります、聞いてやります、となるのですが、パウロは、私のためにも祈ってほしいと、頭を下げているのです。それだけ牧師には祈りが必要であるということです。私のためにも祈ってほしいと思います。それは私が成功するためではなく、私が神の国の建設のために用いられ、神の栄光があがめられるためにです。

26節、27節には、「すべての兄弟たちに」が強調されています。「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつしなさい。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」

ただのあいさつではありません。聖なる口づけをもってするあいさつです。聖なる口づけの「聖なる」という言葉は「フィレマー」というギリシャが使われています。「フィレマー」とは兄弟愛を目に見える形で表してという意味です。そういうあいさつをしなさいというのです。この世でしているようなありきたりの、表面的であたりさわりのない、形だけのものではなく、心からの、相手のことをおもんぱかりのあいさつをしなさいというのです。

「ハレルヤ!お元気ですか?先日はお体の具合がよくなかったと聞いていましたが、その後いかがですか?毎日のお仕事の中で信仰を守るのは大変なことでしょう。どのようにしておられるんですか?神の聖霊が兄弟を守ってくださるように祈っています。」というふうに。

教会に行ったけどだれからも声をかけられなかったとか、だれも親切にしてくれなかったということがないように、回りの人たちのことを気にかけたいあいさつされなかったとか、だれもいうことがないように、できるだけ回りにおられる方々のことを気遣いたいですね。日本人はどちらかというとどこかよそよそしいところがあって、自分から声をかけるというのが苦手なことがありますが、私たちはイエス様を信じた時から自分捨てました。今、私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。だから、イエス様が望んでおられるように、イエス様が願っておられるように生きていきたいと思います。だからそのようにするのです。聖なる口づけをもってあいさつしなさいとあるように、「あなたにお会いできてうれしい」「あなたのために祈っています」ということを、目に見える形で表したいものです。そしてそのためには、いつも兄弟姉妹に関心を持って祈っていることが大切です。

27節の「すべての兄弟たち」は、この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、とあります。これは主の命令です。主の命令によって、私たちにもこの手紙が読まれました。これがすべての兄弟たちに読まれるようにしなければなりません。他の兄弟たちにもです。すべての人に対してです。なぜなら、この手紙が読まれるとき、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あふれるようになるからです。主の日が近づいています。主イエスが再び来られるそのとき、主にあって眠った人たちは、すなわち、主イエスを信じた人たちは、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。それが私たちの救いが完成です。この希望は失望に終わることがありません。これは失望に終わらない希望、究極の希望の言葉なのです。これが私たちの慰めとなります。ですから、私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるようにしなければならないのです。そしてここに希望を置き、私たちの主イエス・キリストの恵みにあふれた人たちがもっともっと起こされるようにと祈る者でありたいと思います。イエス・キリストの恵みが、あながたとともにありますように。