Ⅱテサロニケ1章1~4節

きょうからテサロニケの第二の手紙に入ります。この手紙もパウロとシルワノとテモテから、テサロニケのクリスチャンたちに宛てて書かれた手紙です。この手紙は第一の手紙が書かれてから数か月後に書かれたものだと言われていますが、いったいなぜ書かれたのでしょうか。テサロニケの第一の手紙が書かれたのは紀元51年頃で、これはパウロの手紙のの中でも最も初期に書かれた手紙ですが、それは救われたばかりのテサロニケのクリスチャンたちを励ますためでした。彼らはその地の住人とユダヤ人から激しい迫害を受けていたので、そうした中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるようにと励ますために書いたのです。それにプラスして、彼らの中には主の再臨について誤解している人たちがいて、それによって落ち着きのない生活をしている人たちがいたので、この主の再臨について正しく教えるために書いたのです。

では第二の手紙は何のために書かれたのでしょうか。2章1~3節には、「さて、兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。」とあります。彼らの中には、主の日がすでに来たかのように言う人たちがいて、それがあたかもパウロたちから出た手紙によって語られたかのように言ったので、それを聞いたある人たちは落ち着きを失ったり、心を騒がせていたのです。そこでパウロはこの主の再臨について正しく教え、そのことによって生じた混乱を静めるために、この手紙を書き送ったのです。

皆さん、だれにも、どのようにも、だまされないようにしなければなりません。主の日の前にはこのような不法の人が起こりますが、主は来臨の輝きをもってそれを滅ぼされます。ですから、私たちはみことばの教えを正しく理解し、だれにも、また何にもだまされないようにしなければならないのです。

Ⅰ.目に見えて成長する信仰(3)

それでは、まず3節をご覧ください。

「3 兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。」

パウロは、テサロニケ人の教会へあいさつを書き送ると、彼らに感謝しています。なぜなら、彼らの信仰が目に見えて成長し、彼らの間で、相互の愛が増し加わり、すべての迫害と患難に耐えながら、その忍耐と信仰とを保っていたからです。この信仰、愛、希望の三つはクリスチャンの特質であり、キリスト教信仰において尊ばれているものです。Ⅰコリント13章13節にも、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。この信仰と希望と愛こそクリスチャンの基本的な特性であって、この三つの特性がそろっていないと健全な信仰の歩みをすることができません。けれども、このテサロニケのクリスチャンたちには、この三つの特性が備わっていたのです。

パウロはテサロニケの第一の手紙でも、彼らの信仰と愛と望みの忍耐についてふれました。1章3節です。奇しくもテサロニケの第二の手紙でも同じ1章3節で、そのことを思い起こして感謝しているのです。

まずここには、「あなたがたの信仰が目に見えて成長し」とあります。この「目に見えて成長し」という言葉は、原語のギリシャ語では「ヒュペラウクサネイ」という一語です。これは英語の「hyper」の語源になった言葉でもあります。「hyper」とは「超」という意味です。超えているということです。限界を超えています。よくハイパーレスキュー隊という言葉を耳にすることがありますが、ハイパーレスキュー隊というのは普通のレスキュー隊を超えている部隊のことです。普通のレスキュー隊では救助が困難な時に出動するのがハイパーレスキュー隊です。彼らは限界を超えて救助にあたるので「ハイパーレスキュー隊」と言われているのです。このテサロニケのクリスチャンたちの信仰は、まさにハイパーでした。限界を超えていました。彼らの信仰は限界を超えるほど目に見えて成長していたのです。その信仰に対してパウロは、感謝をささげずにはいられなかったのです。

思えば、パウロがテサロニケに滞在して伝道したのはたった三週間のことでした。そんなに短い期間であったにもかかわらず彼らの主イエスに対して信仰には、目を見張るものがありました。限界を超えるほどの強い信仰に成長していたのです。救われたばかりだからこそ燃えていたということもあったかもしれませんが、彼らの信仰はそのような一時的なものではありませんでした。それは、彼らが激しい迫害や患難にありながらも忍耐と信仰とを保っていたことからもわかります。

信仰とは、自分と神様とを結ぶパイプのようなものです。この信仰以外に神様と私たちを結ぶものはありません。この信仰によって私たちは、罪の赦しと永遠のいのちを受けました。すべての罪が赦され、いつも神が共にいてくださることを実感することができるようになりました。

また、信仰とは徹底的に神と主イエスに信頼することです。神が私たちに最も望んでおられることは、私たちが富や名誉を得ることではなく、神に信頼し、神を求めて生きることです。ですから聖書はこう言っているのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)そして、テサロニケのクリスチャンたちは、この神に対する信仰と神に従う信仰、そして、主が再び来られる再臨信仰を持っていました。そのような彼らの信仰を、パウロはどれほど喜んだことでしょうか。それは目に見えて成長するほどの著しい成長を遂げていたのです。

皆さんの信仰はどうでしょうか?テサロニケのクリスチャンたちのように目に見えて成長していますか、それとも、そんなに急激にではなくとも、少しずつ、少しずつ成長しているでしょうか。目に見えるほどの著しい成長であっても、少しずつであっても、神が私たちに望んでおられることは、私たちの信仰が成長することです。Ⅱペテロ3章18節には、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(Ⅱペテロ3:18)とあります。私たちも主イエスの恵みと知識において成長する者でありたいと願います。

Ⅱ.増し加わっている愛(3)

次に彼らの愛について見ていきましょう。3節のところでパウロはこのように言っています。「あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。」

彼らは信仰において目ざましく成長していましたが、それは信仰ばかりでなく愛においても同じでした。彼らの間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっていたのです。Ⅰテサロニケ3章12節を見ると、これはパウロの祈りの答えであったことがわかります。パウロはこう祈りました。

「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」神様は、このパウロの祈りに答えてくださり、その数か月後にパウロがこの第二の手紙を書いた頃には、彼ら相互の間には愛が増し加えられていたのです。

愛は、最大の徳です。たとい人があらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい人が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与えても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛こそ私たち人間にとって最も必要なものなのです。ところが、この愛が現代の社会において最も欠けているものでもあります。

インドで苦しんでいる人々に愛の手を差し伸べたマザー・テレサが来日した際に、このように言いました。「私たち人間にとって最も本質的なことは、不幸な人々の面倒を見ることではなく、その人を愛することです。人にはパンへの飢えがあるように、愛とか親切な心、思いやりの心などに対する飢えがあります。この大きな飢えや欠乏のためにこそ、人々はこんなにも苦しんでいるのです。」

人間にとって愛こそ最も大切なものであるということは昔も今も変わらない真理なのです。そして、テサロニケのクリスチャンたちの間には、この愛が増し加わっていました。彼らは神の愛を実践していたのです。しかも彼らが置かれていた状況は迫害と患難という厳しい状況でしたが、そうした中にあっても彼らの間に愛が増し加わっていたということは、彼らがそれほど神に愛されていたという証拠でありますし、彼らが福音の本質をきちんと理解していたということですから、パウロがどれほど喜んだかわかりません。それは喜びを越えて感謝となり、神にささげたほどです。

Ⅲ.見上げた忍耐(4)

そればかりではありません。彼らには見上げた忍耐がありました。4節にはこうあります。「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。」

ここには「誇りとしています」とあります。何を誇りとしていたのかといいますと、彼らが迫害と患難に耐えながらも、従順と信仰とを保っていたことです。彼らはキリストを信じる信仰のゆえに外部の人々から迫害され、さまざまな苦難を受けたにもかかわらず、それでもひるむことがありませんでした。それはパウロが誇りとしたほどであり、まことに見上げたものだったのです。Ⅰテサロニケ1章6節には、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とありますが、彼らはそのような苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、みことばに従いました。それゆえに、この神のことばは、信じている彼らのうちに働いたのです。私たちの中にも神のみことばを聞くと初めは喜んで受け入れる人がいますが、困難や苦難に会うとすぐにつまずいてしまう人がいます。「こんなはずじゃなかった・・・」と。

イエス様は、種まきのたとえの中で岩地に落ちた種について教えられました。「20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13:20-21)

岩地に蒔かれた種はすぐに芽を出すものの、太陽が上り、焼けてしまうと、根がないために枯れてしまうのです。根がないクリスチャンはすぐにつまずいてしまいます。いつもみことばに裏付けられ、それがどういうことなのかを悟る人は、困難や迫害が起こっても枯れることはありません。むしろ、それを肥やしにして、もっと大きく成長していくのです。

テサロニケのクリスチャンたちはそうでした。彼らは迫害と患難に耐えながらその従順と信仰を保っていたのです。この「従順」と訳されていることばには※がついていますが、下の脚注の説明を見ると、そこに「忍耐」とあります。これは忍耐のことです。彼らは迫害と患難に耐えることで忍耐を育んでいたのです。真の忍耐は本を読んだり忍耐についての講義を聞くことによって得られるものではなく、迫害と患難という体験を通して得られるものなのです。ですから、ローマ人への手紙5章2節から5節にこうあるのです。

「2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

ここには、「患難が忍耐を生み出し」とあります。忍耐を生み出すのは患難なのです。それによって忍耐が生み出され、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すのです。この希望は失望に終わることはありません。この希望はイエス・キリストによってもたらされる永遠の栄光につながっていくからです。イエス・キリストが再臨されるときにもたらされる栄光です。これが本当の希望です。「目に見える望みは、望みではありません。」(ローマ8:24)「だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちには、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)イエス・キリストによってもたらされる栄光、イエス・キリストが再びおいでになられるとき、私たちの卑しいからだが栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。これこそ本当の望みです。これは忍耐によってもたらされるのです。忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すのです。それゆえにヤコブはこう言ったのです。

「2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。3 信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」なぜなら、信仰が試されると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるからです。まあ、口で言うのは簡単ですがいざこれを実践しようとすると、かなり大変であることがわかります。なかなかできないからつまずくのです。しかし、テサロニケのクリスチャンたちはこの希望のゆえに、忍耐と信仰を保っていました。彼らのこのような忍耐強さを知ったパウロは、どれほどうれしかったことでしょう。彼はここでこう言っています。「誇りとしています。」これ以上の称賛のことばはないでしょう。「誇りとしています。」そんなテサロニケのクリスチャンたちの信仰は、パウロの誇りでもあったのです。

あなたの信仰はどうでしょうか。試練や患難、苦難に会うとき、あなたはそれをどのように受け止めておられますか?日本のクリスチャンを評して、ある人がこう言いました。「一年目は熱心に働き、二年目には悩み、三年経つといなくなる」これでは残念です。これはまさに岩の上に蒔かれた種です。確かにいろいろな理由があると思いますが、それがどんな理由であるにせよ、どんなことがあっても主イエスから離れない信仰、主イエスにとどまっている信仰、いや、それを肥やしにして逆に強められていく信仰者にさせていただきたいと願うものです。私たちの信仰は筋肉のようなものなのです。ウエイトトレーニングとか、何らかの付加をかけ、それに耐えることによって筋肉が鍛えられるように、私たちの信仰も患難や試練、困難といった付加かがかかることによって鍛えられ、強くされていくのです。それは私たちの信仰が成長を遂げた完全なものとなるために、なくてはならないものでもあるのです。

ヤコブ5章11節に「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」とあります。

ヨブは、甚大な試練を受けました。それは、普通の人が耐え切れないような大きな試練でした。財産を奪われ、家族の命を一瞬のうちに取られたのです。そればかりか自分の健康も害し、妻からも見捨てられ、その友からも苦しめられました。ヨブは、大きな怒りを誰かにぶっつけたい気持ちだったでしょう。しかし、彼は忍耐し、神様に信頼したのです。その結果、どうなったでしょうか。最後に神は、以前にもまして彼を祝福してくださいました。ヨブの所有物を二倍にし、七人の息子と三人の娘を与えてくださいました。彼は老年を迎え、長寿を全うしました。神は彼のあとの半生を前の半生よりも祝福されたのです。このヨブの実例が指し示しているのは、再臨の主を待つ信仰者の忍耐です。主は必ず来られ、キリスト者の忍耐を祝福で締めくくってくださいます。だから、耐え忍んだ人は幸いなのです。心に染み渡る約束ではありませんか!最後まで望みを捨てずに、待ち続け、耐え続けましょう。テサロニケのクリスチャンたちの忍耐は、常に彼らが神を待ち望んでいたからこそ出来た忍耐だったのです。

新聖歌385番の作者ジョン・アーネスト・ボード(John Ernest Bode)は次のように歌いました。

「主よ 終わりまで仕えまつらん みそばはなれず おらせたまえ
世の戦いは はげしくとも 御旗のもとに おらせたまえ

主よ 今ここに 誓いをたて しもべとなりて 仕えまつる
世にあるかぎり このこころを つねにかわらず もたせたまえ

これは彼の3人のこどもが堅信礼を受ける時に作った詩だそうです。信仰を告白していよいよこれから神の聖徒として歩む自分のこどもたちが、その信仰をずっと持ち続け、終わりまで主に仕えていくことができるように、それは彼の祈りでもありました。四番の歌詞は「常に変わらずもたせたまえ」とあります。それは、常に変わらず支えてくださいという意味です。主よ、終わりまで、あなたのしもべとして、あなたに仕えることができますように。世のたたかいは激しくても、主よ、あなたの御旗のもとにおらせてください。この世にある限り、この心が常に変わることがないように支えてください。これを、私たち一人一人の祈りと決意としたいと思います。