Ⅱテサロニケ2章1~12節

新年あけましておめでとうございます。教会ではきょうが新年の礼拝となりますが、この新しい年もみことばから教えられ、主のみこころに歩ませていただきたいと思います。 この新年の礼拝で私たちに与えられているみことばは、Ⅱテサロニケ2章1節からの箇所です。1章のところでパウロは、テサロニケのクリスチャンたちが受けている迫害と患難の意味を語り、彼らを励ましました。それは彼らを神の国にふさわしい者とするためであって、やがてキリストが来臨されるとき、報いとして安息と栄光を受けるためであるということでした。けれども、テサロニケの教会の中には、このキリストの再臨についての間違った理解から、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしている人たちがいました。そこでパウロは迫害と患難の中にあるテサロニケのクリスチャンたちを励まし主の再臨について正しく教えるために、この第二の手紙を書いたのです。

これはテサロニケのクリスチャンたちだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンに対する神からのメッセージでもあります。こうして新しい年を迎えるということは、同時に、主の再臨がより近づいているということでもありますから、私たちはこの主の再臨について聖書から正しく理解し、だれからも、どのようにも、だまされないようにしなければなりません。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話をします。第一に、主のご再臨はいつやって来るのですか。その前には二つの兆候があります。背教が起こり、不法の人が現れるということです。不法の人と呼ばれる人が現れなければ、主の日は来ないのです。第二のことは、しかし、今は、その不法の人が来ないように、引き止められているということです。そして第三のことは、その時になると不法の人が現れますが、主は御口の息をもって滅ぼしてしまわれるということです。

Ⅰ.終わりの日の二つのしるし(1-4)

それでは、本文を見ていきたいと思います。まず1節から4節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」

パウロはテサロニケのクリスチャンたちに、イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関して、お願いしています。霊によっても、あるいはことばによっても、あるいはパウロたちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように勘違いして、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないようにしてください・・・と。イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関してというのは、主の空中再臨とそのときに起こる携挙という出来事のことであります。

このことについてはすでに、Ⅰテサロニケ4章13節から18節までのところで学んだとおりです。聖書は、主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、天から下って来られます。そのときキリストにあって死んだ人たちが、まず初めによみがえり、次に、生き残っているクリスチャンたちが、たちまち雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになると言っています。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。これが主の日に起こることです。

ところが、テサロニケのクリスチャンたちの中には、彼らがまだ地上にいるというのに、主の日がすでに来たかのように話している人たちがいたのです。その日にはクリスチャンたちは引き挙げられると言われているのに地上に残っていたら大変なことになります。いったいこれはどういうことかと混乱しますよね。自分は救われていなかったのかと悩むに違いありません。

「霊によって」とは、別の霊、間違った霊、悪霊のことです。「ことばによって」とは、人のことば、人の考え、人の思いによってということです。神のことばによってではなく人のことば、人の教えによってということです。そして「私たちから出た手紙によって」とは、パウロたちから出たかのような手紙によってということで、パウロたちの名を名乗る偽物の手紙が当時出回っていたことがわかります。このようなことを言いふらす人たちは、いかにもそれが聖霊の導きによって示されたかのように語ったり、パウロが教えた内容であるかのように言って惑わしていたので、彼らは落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしていたのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。彼らは人のことばに振り回されていて、聖書に書かれてあることをよく吟味していなかったということす。彼らは幼子のような純粋な信仰を持っていましたが、聖書をよく調べるという点では弱かったのです。ですから、誰かが主の日はすでに来たかのように言うのを聞くとすぐにそれを間に受け、落ち着きを失い、心を騒がせていたのです。私たちも注意したいですね。誰か他の人が語る言葉を聞いて、あるいはそうした類の書物を読んで、それがあたかも神から出たかのように思い込みと、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせてしまうことになります。しかし、もしその言っていることをみことばによってよく吟味するなら、そのように落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

あのベレヤのユダヤ人たちはそうでした。彼らはたとえパウロが語ったことであっても、それが本当に聖書に書いてあることなのかどうかを毎日聖書によって調べました。そのように聖書によってきちんと確認するなら、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

では主の日はどのようにしてやって来るのでしょうか。3節と4節をご覧ください。

「3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。4 彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」

ここでパウロは主の日が来る前に二つの前兆があると言っています。一つは「背教」であり、もう一つは「不法の人」すなわち「滅びの子」の出現です。「背教」とはギリシャ語で「アポスタシア」と言いますが、これは「元々立っている所から離れて立つ」という意味です。すなわち、元々立っていた信仰から離れてしまうことを指しています。聖書に書かれてあることに背くことと言ってもいいでしょう。これは英語のapostasy(背教、背信という意味)の語源になったことばです。主の日が近くなると、社会全体、全世界がアポスタシアの状態になります。聖書から完全に離れた社会、それがまかりとおるような社会になるのです。現代はまさにそういう社会ではないでしょうか。それがますます加速しているように思えます。パウロはⅡテモテ3章1~5節のところでこう言っています。

「1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

現代はまさにここに書いてあるような社会ではないでしょうか。それは神から離れた人間の、もともと立っていなければならない所から離れた人間の姿なのです。これはずっと昔から見られる傾向ですが、世の終わりが近くなるとその傾向がもっともっと強くなります。まさに今はこのような時代を迎えているのです。

主の再臨の前兆としてここに挙げられているもう一つのことは、「不法の人、すなわち滅びの子が現れる」ということです。彼は4節に、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高くあげ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあるように、神に反抗し、自分を神よりも高く上げ、自分こそ神であると宣言する反キリストのことです。反キリストはサタンの手先となってキリストに対抗するのですが、パウロは、この反キリストが現れなければ主の日は来ないと言っています。それは何の根拠もなく言っているのではありません。このような不法の人が現れることは実はずっと昔から、旧約聖書で預言されていたことだったのです。

たとえばダニエル書7章24,25節には、「十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もう一人の王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼はいと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼしつくそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。」(ダニエル7:24,25)とあります。これは世の終わりのひと時とふた時と半時の間、すなわち3年半の間、神に敵対して、聖徒たちを滅ぼしつくそうとする反キリストのことを預言していたのです。彼は、「彼の軍勢は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」(同11:36)のです。彼はエルサレムの神殿の至聖所にズケズケと入って来て、我こそが神であると宣言するのです。

この「荒らす忌むべきもの」については、イエスさまも語られたことです。マタイの福音書24章15節から29節です。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。19 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」

多く聖書学者は、これはB.C.2世紀にエルサレムの神殿を踏み荒したセレウコス朝シリヤのアンティオコス・エピファネスのことだろうと考えていますが、それは一つの型にすぎません。世の終わりには彼とは別の、不法の人、滅びの子、反キリストが現れるのです。彼が現れなければ、主の日はやって来ることはありません。

だから、だれにも、どのようにも、だまされてはいけません。聖書をよく見て、そこに書かれてあることが起こっているかどうかを確認して、冷静に判断しなければなりません。そうすれば、主の日がすでに来たかのように言うのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

Ⅱ.引き止める者(5-7)

では、その不法の人はいつ現れるのでしょうか。次に5節から7節までをご覧ください。

「5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」

5節の「これらのこと」とは、1節から4節までのところに書かれてあることです。パウロはテサロニケの町を訪れて伝道したとき、信じた人たちにこれらのことをよく話していました。パウロがテサロニケで伝道したのはわずか3週間余りでしたがその短い間に彼は、救われたばかりのベイビークリスチャンに、これらのこと、つまり終末に関する聖書の教えを既に語っていたのです。キリストが再臨されること、また、その時にはクリスチャンは一挙に雲の中に引き挙げられること、そしてそこで主とお会いするということ、しかしその前にまず背教が起こり、反キリストが現れるということを話していたのです。ということは、これらのことは一部の聖書に興味のある人たちだけの話題ではなく、新しく救われたクリスチャンも知っておかなければならない大切で、基本的な教えであることがわかります。

その教えによると、確かに不法の人は現れるのですが、いまそれを引き止めている者があるということです。その引き止めているものとは何でしょうか。7節ではこれを「引き止める者」と人格的に表現しています。そうです、これは神の聖霊のことなのです。これをローマ帝国とその皇帝のことではないかと考えている人もいますが、そうではありません。このサタンの力をどうやってローマの皇帝が引き止めることができるでしょうか。どんなに力ある者でも、この悪に対抗できる者などいません。それを引き止めることができるのはただ神の力、聖霊ご自身以外にはいないのです。聖霊はペンテコステの時以来教会と共に臨在され、教会を守り、神の聖徒たちとともに働いておられるのです。主イエスはこう言われました。

「13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:13-16)

皆さん、私たちは地の塩、世の光です。塩が塩けをなくしたら何の役にも立ちません。クリスチャンは地の塩として、この世の腐敗を防止する役割が与えられているのです。また、この世の光として、この世を照らしていく役割があります。どんなにこの世が暗くなっても、完全に暗くなることはできません。なぜなら、そこにクリスチャンが置かれているからです。いったいどのようにしたら暗やみに勝利することができるのでしょうか。暗やみに空手チョップを食らわせてもだめです。キリストの御名によって出て行けと叫びますか。あなたがそのようにどんなに叫んでも暗やみが出ていくことはないのです。でももしあなたが光を持ってきたら、一瞬にして闇は消え去ります。ただ光を持って来ればいいのです。そうすればやみはすぐに逃げ去って明るくなります。その光を輝かせなければなりません。その光こそイエス・キリストの光、聖霊の光なのです。この聖霊とともに私たちはこの世に働いているサタンの力を制御し、悪霊の働きをとどめているのです。

しかし、その聖霊が取り除かれる時がやってきます。いつですか。携挙の時です。クリスチャンが一挙に引き上げられるので、彼を引き止めているものが無くなってしまうのです。その時には一気が悪の力がこの地上になだれ込むようになります。そして恐ろしい患難時代が始まるのです。でも今は地上には教会がありますから、聖霊を内住したクリスチャンたちがたくさんいるので、今はそれを引き止めているのです。やがてクリスチャンが取り除かれるとき、この世は一気に真っ暗になるのです。しかし、今はまだ「不法の人」が現れることが引き止められていますが、不法の秘密はすでに働いています。「不法の秘密」とは反キリストの霊のことです。Ⅰヨハネ2章18節にはこうあります。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」

一人の反キリストは現れていませんが、今は多くの反キリストの霊が働いているのです。事実周囲を見回すと、神に敵対する悪の勢力や、自らを神としてキリストに取って代わって礼拝されたがっている反キリスト的な力が強く働いていることがわかります。あからさまにキリストに反逆することはしなくとも、自分こそは神であるかのように人々から称賛されたり、感謝されたり、礼拝されることを求めている人たちがたくさんいることがわかります。キリストに従うなんてもってのほか、自分の思いのままに生きていきたい。それは反キリストの霊、不法の秘密がすでに働いているからなのです。だから、不法の人はまだ現れてはいませんが、不法の秘密はすでに働いています。それによって私たちは、世の終わりが近づいていることを知ることができますが、今は反キリストが定められた時に現れるようにと、聖霊が引き止めているのです。ですから、私たちは主の聖霊の働きを締め出してはなりません。

Ⅲ.その時になると(8-12)

では「不法の人」が現れるとき、いったいどのようなことが起こるのでしょうか?8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」

「その時になると」、すなわち「引き止める者」が取り除かれる時になると、いよいよ不法の人、反キリストが現れ、神とキリストに対する徹底的な挑戦が始まります。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴うので、あっと驚くようなことをして、人々の心をひきつけます。一度死んだかと思ったら、その致命的な傷も治って生き返るので、全地が驚いて、彼に従うようになるのです。彼は圧倒的な権威を身にまとい、多くの人と堅い契約を結ぶので、政治的にも、軍事的にもカリスマ的な力をもって世界をまとめるのです。ところが3年半が経ったとき、事態は急変いたします。これまで世界を救うヒーローかと思っていた彼が急に傲慢なことを言い始め、神を汚すようなことを言い、自分こそ神だと宣言するようになるのです。4節にあるとおりです。

けれども主は、御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれている戦いにおいてです。御口の息をもってとはみことばによってということです。主はみことばの剣をもって反キリストを滅ぼされるのです。主のみことばにはそれほどの力があるのです。主はこのみことばをもって天地を創造されました。主が「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができました。また主がこの地上を歩まれた時も、みことばによって病人をいやし、嵐を静め、死人をよみがえらせました。また、そのみことばによってサタンを退けられたのです。それは両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです。

また、主は来臨の輝きをもって敵を滅ぼされます。この場合の来臨とは地上再臨のことです。その七年前に主は空中に再臨され、ご自身の花嫁である教会を携え挙げられますが、その七年後に、今度は多くの御使いを従えて天から下ってこられるのです。それはありにも輝いた姿なので、不法の子である悪魔は滅ぼされてしまうのです。しかし、そのさばきは悪魔だけに対してのものではありません。10節を見ると、それはその悪魔に従って神がキリストによって与えてくださった救いを拒否して受け入れなかった人々にも臨むのです。彼らがさばかれるのは、何か悪いことをしたからとか、刑事事件を起こしたからではありません。彼らが滅ぼされるのは、サタンの誘惑に負け、キリストの救いを拒んだからです。パウロはここで、「彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」とはっきりと言っています。

私たちは、神の前に、キリストの十字架の愛を受け入れるか受け入れないか、すなわち、キリストを救い主として信じるか信じないか、救いか滅びの二つに一つの道しかありません。救われもしなければ滅びもしない道といった中間的な道は存在しないのです。救われなくてもいいけど、滅びたくはないとか、そういう道はないのです。救われるか滅びるかのどちらかの道しかないのです。だから、主イエスはこう言われたのです。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その満ちは広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

神の愛によって与えられたキリストの唯一の救いをいつまでも拒む者に対して、主はあのエジプトの王パロの心をかたくなにされたように、かたくなにされます。もう少したったら信じられるようになるでしょうとか、仕事を退職したら信じるようになるでしょうというのは、サタンである悪魔の偽りです。後になればなるほどもっとかたくなになってしまいます。もしあなたが救われるための真理への愛を受け入れないと、偽りを信じるように、惑わす力が送り込まれるからです。だから、主が来臨されるとき滅ぼされることがないように、今、神の救い、神のあなたに対する愛を受け入れほしいと思います。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、聖霊はこう言われるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたように、心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)

どうかここにおられる人が一人も漏れることなく、神の御救いにあずかることができるように、きょう、もし御声を聞いたなら、心をかたくなにしないでいただきたいと思います。確かに今は恵みの時、今は救いの日なのです。やがてその救いのドアが閉じられる時がやってきます。そのときに、この救いに漏れることがないように、どうか主の救いを受け入れてください。この新しい一年が主の救いを受け、やがて来る主の来臨にしっかりと備えた年でありますように。たとえ、回りがどんなに騒いでも、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりするのではなく、みことばの約束をしっかり握りしめて生きる年でありますように祈ります。