Ⅱテサロニケ1章5~12節

あっという間に今年最後の主の日を迎えました。この一年も主が毎週の礼拝を守り、導いてくださったことを心から感謝します。きょうはⅠテサロニケ1章5節から12節までの箇所から、「感嘆の的イエス・キリスト」というタイトルでお話します。

Ⅰ.神の国にふさわしい者とするため(5-7)

まず5節から7節までをご覧ください。

「5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

「このこと」とは、1節から4節までに書かれてあることです。テサロニケの教会には激しい迫害がありました。しかし、そのような迫害の中にも彼らの信仰は目に見えて成長し、彼らの相互の愛は増し加わり、そうした迫害や患難に耐えて、信仰を堅く保っていました。試練や苦しみは、彼らの信仰の根を引き抜くことはできなかったのです。でもいったいなぜクリスチャンにはこのような苦しみがあるのでしょうか。ここでその理由が語られているのです。それは、彼らを神の国にふさわしい者とするための、また報いとして彼らに安息を与えるためのものであるということです。どういうことでしょうか?

まず5節には、「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため・・・・あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」とあります。クリスチャンがこの世で迫害や患難を受けることがあるとしたらそれは神の国のためであって、神の国にふさわしい者とするためなのです。Ⅰペテロ1章7節には、「信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」とあります。皆さん、信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのです。それは、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。それは苦しみを受けているクリスチャンが神の国の一員であるということの証拠であり、そのことによってクリスチャンはダイヤモンドのように輝きを増していくことになるのです。不純物が取り除かれることによってもっともっと聖いものに変えられていくために、そして、神の国の住民としてふさわしいものに造り変えられるために、神はこうした患難や試練を用いられるのです。

「そんなのいらない」と言う方がおられますか。そういう人は輝くことができません。称賛と光栄と栄誉を受けることはできないのです。試練はできたら避けて通りたいものですが、実はその試練こそが私たちを神の国にふさわしい者として整えるために神が用いられる道具だというのです。だから聖書はこう言うのです。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

これは本を読んで勉強したからできることではありません。ただ試練を通して、患難を通してそれに耐え、その忍耐を完全に働かせることによってもたらされるものなのです。これは口で言うのは簡単なことですが、実行しようとするとなかなかできることではありません。実際に試練に会うと、そのようには思えなくなるのです。そこから逃げることしか考えられなくなります。何とかこの試練を取り除いてくださいとひたすら願うだけなのです。試練が悪いものだと思って、そこから逃げることしか考えられないのです。けれどもその患難が、あなたに忍耐や信仰をもたらすのです。その患難から逃れることばかり考えていたら非常にもったいないことです。神があなたを創り変えることはできません。それは神の働きを阻害することにもなるのです。いつまでも完全なものとして成長を遂げることはできません。しかし、あなたが患難を通して聖書に約束された通りのことを私の身にも行ってください、主よ、どうか患難を道具として用いてください。傷もしみもしわもそのようなものの何一つない栄光の花嫁にしてくださいと祈るなら、神はあなたをそのように創り変えてくださるのです。

そんなこと言ったも、耐えられなかったらどうするんですか。大丈夫です。神はあなたが耐えられないような試練を与えることはなさらないからです。耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。Ⅰコリント10章13節を見てください。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

ですからどうぞ安心してください。あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではないのです。みんな同じような試練に会っています。涼しい顔して平気でいる人を見ると、「あの人はいいなぁ。あの人は試練なんてないんだろう」とか、「私の痛みや苦しみを理解することなんてできないだろう」と思うかもしれませんが、そうではないんです。みんな同じような試練を通っているんです。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではないのです。けれども、神は真実な方ですから、あなたがたが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。何とすばらしい励ましでしょうか。それは私たちを倒すためではなく、私たちを神の国にふさわしい者として整えるために与えているものだからです。あなたはその試練に耐えることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な人となることができるのです。神の国にふさわしい者として整えられるのです。

へブル書12章11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12:11)すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われものですが、後で振り返ってみると、あの苦しい経験があったからこそ今の自分があると思い、むしろその意見が感謝できるようになるというのです。

いったいなぜこんなに苦しみがあるのでしょうか?そのもう一つの答えが6節と7節にあります。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」

クリスチャンに対して不当な苦しみを与える者に対して、神は正当に報いを与えてくださいます。ですから、あなたは自分で復讐する必要はないんです。復讐は神がなさることですから、神は正しくさばいてくださいます。ですから、自分がさばきをつけなくてもいいのです。ついついさばきをつけたくなるのですが、そうやってさばきをつけることによって、私たちがさばかれてしまうことがあります。というのは、私たちは間違ってさばくことの方が多いからです。間違ってさばいたら大変なことになります。その責任はとても重いからですね。誤審、冤罪、これは大変な責任です。その人の人生を台無しにしてしまいます。ですから、そういうことがないように、神が正しく裁いてくださいます。今、不当な目に遭っていても、今、理不尽でも、不条理であっても、やがて神がすべてを正しくさばいてくださいます。

具体的にはどういうことでしょうか。具体的には「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

これはキリストが地上に再臨される時に起こることです。その七年前に主は空中に再臨され、キリストの花嫁である教会を一挙に引き上げられます。そして天国で結婚式が行われるのです。それが小羊の婚宴と呼ばれるものです。そこでクリスチャンはいつまでも主とともにいるようになるのです。

しかし、その時この地上では恐ろしいことが起こっているのです。七年間の大患難時代です。反キリストが現れて猛威を振うので、地上の多くの人々が死に絶えるのです。そしてそれがクライマックスに達するまさにその時、キリストが力ある御使いを従えて天から下ってこられるのです。オリーブ山という山です。その時主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わなかった人々を報復されます。その一方で、この地上で苦しみを受けたクリスチャンは、報いとして安息が与えられるのです。

皆さんには安息がありますか。あなたがこの地上でどんなに頑張っても、自分の力で罪を帳消しにすることはできません。あなたを罪から救うことができるのは、ただあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストだけなんです。このイエスを信じるならあなたの罪は赦され、安息を受けることができます。いい人を演じても限界があります。結局、人はみな必ず死ぬのですから。死んだらすべてを失います。地獄の沙汰も金次第ということは通用しません。あなたは神の前に立ち、神のさばきを受けなければならないのです。もしあなたがイエスを信じていなければ、主はあなたに報復されます。そこには何の安息もありません。でも、イエスを救い主として信じるなら、主が報いとして安息を与えてくださるのです。主イエスは言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

今は不当な苦しみにあえいでいるかもしれません。理不尽な思いでいっぱいかもしれません。でもやがて主イエスが再臨されるとき、主が正しくさばいてくださいます。あなたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、報いとして安息が与えられるのです。

皆さん、なぜ私たちには試練や苦しみがあるのでしょうか。それはあなたを神の国にふさわしい者として整えるためであり、やがてさばき主なる主が再臨されるときに主が正しくさばかれ、あなたに報いを与えるためです。あなたはそこで真の安息を得るのです。だから、たとえ試練や苦しみがあってもがっかりしないでください。もう信じていても意味がないと投げやりにならないでください。主の日は近いのです。そのとき、主が正しくさばかれ、あなたに報いてくださいますから。

今、あなたが抱えておられる試練は何ですか?それがどんなに大きな試練でも、それよりももっと大きな方を見なければなりません。試練を通して神を見るのではなく、神を通して試練を見るなら、その苦しみの中に隠れている神のみこころを見出すことができるのです。

Ⅱ.感嘆の的イエス・キリスト(8-10)

次に8節から10節までをご覧ください。

「8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」

 

ここには、主イエスが再び来られるとき、神を知らない人々や、主イエスの福音に従わない人をさばかれるとあります。そのような人々は、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 神はあわれみ深い方ですからすべての人々を救われると思っている方がおられますが、そうではありません。勿論、神はすべての人が救われることを望んでおられますが、だからといってすべての人が主の救いを信じるわけではないのです。そういう人たちはみな永遠の滅びの刑罰を受けるのです。死んだらみんな天国に行くのであって、地獄に行く人なんて誰もいないという人がいますが、それは嘘です。聖書は、そのような人は永遠の滅びの刑罰を受けるとはっきり言っているのです。そんな恐ろしい地獄など実際には存在しないと考えている人々がいますが、それは単なる人間の願望から出た想像にすぎないのであって、実際には地獄は存在するのです。

ですから、聖書はこう言うのです。ヨハネ3章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書は、キリストを信じる者はひとりも滅びないで、永遠のいのちを持ち、信じない者は滅びると明言しているのです。神はこの世の罪人を救うために御子を世に遣わされました。そして十字架にかけて人間の罪の罰を御子に負わせました。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つためです。これが、人間が罪から救われる唯一の道です。これ以外には救いの道はありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては人間には与えられていないからです。この唯一の救い主イエス・キリストを信じない人々に対して、神はこのようにされるのです。

先週はクリスマスでしたが、主イエスが最初にこの地上に来られた時はベツレヘムの家畜小屋で生まれてくださいました。飼い葉おけに寝かされたと言います。実にみすぼらしい姿をとって来てくださいました。しかし、今度再び来られる時には、二度目の来臨の時には、天の万軍を従えて、王の王として、主の主としてお出でになられます。また、その時は最初に来られた時のように一部の人しか知らないような姿ではなく、世界中の人々がはっきりと目撃する形で来られるのです。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)

昔は地球の裏側で起こっていることを同じ時間に見ることなど考えられないことでしたが、今やテレビの発明や宇宙中継などによって、お茶の間に居ながら、世界中の動きを一瞬にして知ることができるようになりました。1963年、日本とアメリカとの間で、宇宙中継による最初のテレビ放映が行われましたが、そのときいきなりテレビの映像から飛び込んできたのはジョン・F・ケネディ大統領暗殺の生々しいニュースでした。そのニュースをご覧になった方々は、どれほどの衝撃を受けられたことかと思います。また、1989年にベルリンの壁が崩壊したニュースも、一瞬にして世界中に伝えられました。それと同じように、いやそれよりもはるかに鮮やかに、主の再臨の出来事はもっと大々的な出来事として世界中を揺るがすはずです。その時、世界中のクリスチャンは、どれほどの歓喜の声を上げることでしょう。それが10節にあります。ご一緒に読んでみましょう。

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます」

世界中の人々の注目を集め、全てのクリスチャンの「感嘆の的」となられる主イェス・キリストの姿を想像するだけでも、胸が躍る思いがします。パウロのこのことばによって、テサロニケのクリスチャンたちは、迫害や患難の中にありながらも、ますます、主イエスに対する信仰を強められたのではないでしょうか。

現代に生きる私たちも、その時が来た時に、主イエスを「感嘆の的」とさせて頂けるように、今からイエスさまを信じ、イエスさまの再臨を待ち望みながら歩む者とさせていだたきたいものです。同時に、家族の誰か、友人のどなたかが取り残されてしまうことがないように、置き去りにされてしまうことがないように、みんなで主イエスを信じることができるように熱心に祈りに励みたい思います。そして主イエスが迎えに来られるとき一人も漏れなく携え挙げられて、天の御国に入れるように祈りましょう。

Ⅲ.御力によって(11-12)

最後に11節と12節を見て終わりたいと思います。

「11 そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

そのためにいつも祈っている必要があります。主イエスがいつ戻って来てもいいように、油断しないで祈っていなければなりません。ここでパウロはテサロニケのクリスチャンたちのためにこう祈りました。「どうか私たちの神が、あなたがたをお召にふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」

神が彼らをこの世とサタンの支配から救い出し、罪を赦し、神の子としてくださったのは決して偶然のことではありませんでした。またそれは単に彼らの願いによるものではなかったのです。それは一方的な神のみわざであり、神の選びによるものでした。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)と言われました。私たち一人一人は神に選ばれ、召し出されてここにいるのです。自分ではたまたま大田原に来て、たまたま教会に来て、たまたま信じたかのように思っていますが、それはたまたまのことではなく、神の深いご計画によるものでした。それはあなたが母の胎に生まれる前から、いや世界の基が置かれるずっと前からそのように選ばれていたことなのです。であるなら、その召しにふさわしく生きることが求められます。

その召しにふさわしい生き方とはどのようなものなのでしょうか。ここには、「御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」とあります。つまり、進んで善を行うクリスチャンになるようにということです。エペソ2章10節には、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。

しかし、進んで善を行う力など、私たちにはありません。私たちの生まれながらの人間は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行ってしまうからです。ですから、根本的には善を行う力など持っていないのです。では望みはないのでしょうか。いいえ、だからここには「御力によって」とあるのです。「どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者とし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」と、神の御力が強調されているのです。そればかりではありません。12節をご一緒に読みましょう。

「それは私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

ここにも、「私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって」とあります。私たちは自分の力で良い行いができるのではありません。自分の力でキリストと同じ姿に変えられるのではないのです。私たちの神が、御力によって、そのことをしてくださいます。私たちの主であるイエス・キリストの恵みによって、それができるようにと助けてくださるのです。

であれば、私たちは主が私たちをその召しにふさわしい者とし、善を行うことができるように、私たち自身を主に差し出し、主によって造り変えていただかなければなりません。そのとき、主の力と主の恵みによって、私たちもそのような者へと変えていただけるのです。そして、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるようになるのです。

この新しい年が主イエスの御力によって、その召しにふさわしい者として変えられ、信仰を全うしていくことができますように、主イエス・キリストの恵みによって堅く信仰に歩めるように祈ります。