創世記12章

きょうは創世記12章から学びます。

1.アブラハムの召命(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。1節には、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」とあります。11章31節を見ると、これはアブラハムが父テラとハランの孫のロトといっしょにカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからハランまでやって来て、そこに住み着いた時に語られたかのように記されてありますが、実際はそうではありません。使徒の働き7章2-3節をみると、そこに「アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミヤにいたとき、」に栄光の神が彼に現れて、この命令を与えたと記されてとあります。ですからこれは、カルデヤのウルにいた時にすでに与えられていた命令だったのです。ですから、注解者の中には、アブラハムがこのような命令を受けたときすぐに父や甥から離れなかったことを非難する人がいるのですが、そうではありません。アブラムはカルデヤのウルで召命をうけたとき、その時期をずっと待っていたのです。そして兄弟ハランがウルで死に、父テラもハランの地で死んだとき、彼は信仰によって歩むべき時がやってきたことを悟ったのです。物事には時期があります。信仰、信仰と、信仰だからいつでもいいかというとそうではなく、その信仰によって歩み出すべき契機となる出来事があるのです。アブラムにとってテラの死は、まさにその一つの大きな出来事であったに違いありません。

ところで、この命令の内容は「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」というものでした。いったいなぜ彼は父の家を出る必要があったのでしょうか?それは父の家が偶像礼拝の盛んなところだったからです。そのことは前回もみましたが、ヨシュア24章2節をみるとわかります。そこには、テラはほかの神々に仕えていたということばからもわかります。そこがたとえ長年住み慣れた国、長年つきあってきた気心の知れた人たちであっても、そうした偶像礼拝の盛んなカルデヤのウルやハランの地から離れ、神様が示す地に行かなければならなかったのです。それが神様のみこころだったのです。

次に2節と3節をご覧ください。ここには、「それすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福とな。あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とあります。

ここには3つの祝福が約束されています。第一に、あなたを大いなる国民とするということです。この「国民」とはKing James Versionでは「Nation」と訳されています。民族、国、国民全体のことです。つまり、彼を通して一つの国民が造られるという約束です。考えてみてください。このとき妻サライは不妊の女(11:30)でした。それにもかかわらず、彼を「大いなる国民とする」というのです。それは本当に驚きと同時に、大きな慰めだったのではないでしょうか。

第二の祝福は、アブラハムを祝福し彼を祝福の基とするということでした。「アブラハムを祝福する者を祝福し、のろう者をのろう」とあります。つまり、彼を通して他の人も祝福の恩恵を受けるようになるということです。

そしてもう一つの約束は、彼に与えられた約束の中でも最も素晴らしい約束ですが、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」というものです。これはどういう意味でしょうか?これはこの地上に救いをもたらす方を、彼の子孫から送られるというものだからです。最初の人アダムが罪に陥ったとき、神様はそのサタンの力を打ち破る救いをもたらす方を送ると約束されましたが、それが何とアブラハムの子孫から生まれるというのです。地上のすべての人は、アブラムから出る一人の子孫によって救われるようになるというのです。もちろん、この約束には私たちも含まれています。

さて、アブラムがそのような召しを受けたとき、彼はどのように応答したでしょうか?4節と5節をご覧ください。「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」とあります。この時彼は75歳という高齢でした。一般的に考えればもうゆっくり暮らしたいという年なのではないでしょうか。今よりも全体的に寿命が長かったとはいえ、それでも75歳という年は高齢でありました。にもかかわらず彼は、主がお告げになったとおりに出かけて行きました。しかもおいのロトと、彼らが得たすべての財産、ハランで加えられた人々を伴ってです。それがどのくらいの量であったかを前に調べたことがありましたが、かなりの量でした。そういったものを携えて彼は、カナンに向かって旅立って行ったのです。なぜでしょうか?なぜ彼は出かけて行くことができたのでしょうか?ヘブル11章8~10節には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しをうけたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあります。

それは「信仰によって」でありました。それは単なる気まぐれや冒険心からではありませんでした。アブラムは神を信じていたので、出て行くことにしたのです。彼は裕福で名声もありました。その彼が今、旅をし、テント生活をしなければならないのです。こうしたさまざまな不便な生活や社会からの圧力があったにもかかわらず、アブラムは神を信じていたので、彼のすべて、家族や所有物そして名声まで神にゆだねて、神に従ったのです。

これが信仰者の生き方の基本にあるものです。彼は、神様からそのように告げられたので、そのとおりに出かけて行くのです。そしてこの時点ではまだどこに行くのかも曖昧でした。にもかかわらずそうやって従うことができたのは、彼が神にのみ望みを置いていたからなのです。

聖書全体の真ん中はどの章だかわかりますか。詩篇118篇です。その前が全部で594章、後が594章です。この数字をたすと全部で1188です。そして、聖書全体の真ん中の節はどこかというと、詩篇118:8です。信じられないですが本当です。こんなことを調べている学者がいるんですね。ところでその詩篇118篇8節にはこうあります。

「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。」

アブラハムはまさに主に身を避けた人、主のみことばに信頼した人なのです。だから神のみことばに従って出て行くことができたのです。

そうしたアブラムの信仰は、彼が約束の地に入ってからも見られます。6節から9節までをご覧ください。

「6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。7 そのころ、がアブラムに現れ、そして、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はのため、そこに祭壇を築き、の御名によって祈った。9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。」

アブラムは神様が示してくださったカナンの地に着くと、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈りました。どういうことでしょうか?6節には、アブラムがカナンに入って行ったとき、そこにはすでにカナン人たちがいました。このカナン人たちはどこから来たのでしょうか。そう、あのハムの子カナンの子孫です。彼らはバベルの塔の出来事以来散らされてその一部がここに住み着くようになっていたのです。そこにアブラムたちが渡り鳥のようにやって来たわけです。そこにしっかりと居を構えていた先住民族カナン人に対して、彼らはよそ者であり、天幕に住むような実に弱い存在でしかありませんでした。しかし、そこが、神が示してくださった地であり、彼らが住むべき土地だったのです。そんな彼らの生活を支えたのは実にこの神でした。彼らにとっての頼りといえば、ただ神の約束だけだったのです。だから彼らはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。もし彼らが出てきたところのことを考えたなら、帰る機会はいくらでもあったでしょう。その方が楽に暮らすことができたはずです。けれども彼らは、もっと良い、天の故郷を仰ぎ見ていたので、この地上ではたとえ旅人であったとしても、それに堪え忍び、神が仰せになられたことを淡々と行って行ったのです。彼は、天に用意された神の都を望んでいたので、神が示された地に安んじることができたのです。そこに祭壇を築いて礼拝し、自分が生かされている目的、自分たちに与えられている使命、そういったものをいつも確認しながら、そのように導いてくださった主に感謝して祈ったのです。

これが信仰の原点です。信仰はその人が、その置かれてある状況がどうのこうのではなく、どんな状況にあってもこの主を覚え、主に祈り、主に信頼して生きようとすることです。人に信頼するのではなく、神に信頼するのです。しかし、どちらかというと私たちはすぐに回りの状況に心が奪われてしまいます。ですからそこに祭壇を築いて主を礼拝し、主に祈り、自分たちの置かれている場所をたえず確認していかなければならない。それが礼拝であり、祈祷会なのだと思います。私たちも日々の生活の中に祈りの祭壇を築き、この神によって生かされていることを覚えながら、神を中心としていつも歩む者でありたいと思います。

2.信仰の試練(10)

アブラハムは、いよいよ神様が約束してくださったカナンの地に着きました。そこで彼は主のために祭壇を築き、主の名によって祈りました。まさに「信仰によって」歩んだ彼の姿が描き出されています。しかし、そんなアブラハムも完全な人間ではありませんでした。さまざまな試練の中で苦しむことも多かったのです。その一つの試練が、ここにある内容です。

アブラハムに与えられた最初の試練は何だったでしょうか。それは「ききん」の問題でした。いわば生活問題です。10節を見ると、ここに「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。」とあります。神から与えられたこの試練こそ、彼の信仰の試験にほかなりませんでした。何も問題がなければいいのですが、私たちの信仰生活はそういうわけにはいきません。なぜなら、神様はその試練を通して私たちの信仰を成熟させようとしておられるからです。サタンは倒して、殺すために私たちを試みますが、神様はそうではありません。神様は倒すためではなく、建て上げるために試練をお与えになるのです。このような試練に耐え、その中で神様に従い、神様のみこころをよく知るために、このような機会を与えておられるのです。ですから、大切なのはこのような試練があることではなく、このような試練にどのように対処するかということです。アブラハムは、この試練にどのように対処したでしょうか?

11~13節をご覧ください。「 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

何と彼はエジプトに下って行き、そこに入ろうとする時、妻のサライに、自分の妹だと言ってくれと頼みました。そうすれば、サラのゆえにアブラハムもよくしてもらい、生き延びることができるから・・・と。ここにはアブラハムの信仰の陰さえ見られません。人間的、肉的な考え方が頭をもたげてきたのです。それは、妻の美貌に対する危惧の念であり、そのことにより起こるであろう自分の身の危険に、人間的な小細工をすることによって、当座の処置をしようと考えたのです。つまり愛すべき妻の貞節を犠牲にしてまで、自己の身の安全を計ろうとしたのです。

いったいなぜアブラハムはこのようなことをたのでしょうか?確かに生活の不安は大きかったと思います。ききんで明日からどうやって食べて行ったらよいのかわからない時、人はだれもみな不安を抱えると思います。今回の地震や津波、原発の事故で非難して来られた人を訪問して、那須町の体育館に行って話しを聞きましたが、やはり一番不安なのはこの先どうなるかということでした。家も、仕事もなくなって、これから先どうやって生活していったらいいのか。ちゃんと保障してもらいたいということでした。

アメリカの心理学者でアブラハム・マズローという人が欲求段階説を唱えましたが、それによると、こうした衣食住の欲求は、人が生きていくために必要な根源的な欲求なのです。これが脅かされるというのは、相当の不安が生じるのは確かです。しかし、アブラハムの失敗の原因はどこにあったのかというと、そうした生活上の不安が生じたことではなく、神様から目が離れてしまったことです。

かつて弟子たちだけでガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、向かい風に悩まされて、なかなか前に進めないでいたときイエス様が湖の上を歩いて近寄られたことがありました。そして、ペテロに「舟を出て、水の上を歩いて来なさい。」と言われました。するとペテロは湖の上を歩き出したのです。しかし、風を見て怖くなり、沈みかけたので、イエス様が手を伸ばして助けました。そのときイエス様が言われたことはこうでした。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのだ。」(マタイ14:31)同じように、アブラハムも神様から目を離してしまったのです。

神様がアブラハムに願っておられたことはどんなことだったのでしょうか?それは彼が神様に示された地にとどまっていることでした。そこがどのような地であろうとも、またそこでどんなことが起ころうとも、そこに留まっているべきだったのです。その彼がついに生活難に耐えかねて、約束の地をみすみす捨て、エジプトへと下って行ってしまった。それが彼の失敗の原因だったのです。マタイ6章にあるように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかについて心配するのではなく、そのようなものは神様が与えてくださると信じて、神の国とその義とを第一に求めることが彼に必要なことだったのです。

ここでちょっと注意したいことは、困難があるかないかが道の正、不正を示すものではないということです。しばしば正しい道、神に服従する道に最も大きな困難が横たわっている場合があるのです。神の約束されたカナンの地にも、強力な力を持ったカナン人がおり、こうしたききんが起こってきたのです。

3.約束を守られる神(14-20)

アブラハムがエジプトに下って行った結果、どういうことが起こったでしょうか?エジプト人はサライの非常に美しいのを見て彼女をパロに推奨したので、彼女は宮廷に召しかかえられることになりました。そして彼女のゆえにパロはアブラムによくしてやり、彼は羊の群れ、牛の群れ、ろばやらくだ、それら男女の奴隷を所有するようになりました。しかし、それはアブラハムが行ったことが正しかったということではありません。それはただ神のあわれみであり、神が彼らを守ってくださったからなのです。主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけると事の真相が明らかにされ、パロはアブラムとサラをエジプトから去らせました。いったいなぜ神様はパロに、こんなひどい災害で痛めつけられたのでしょうか。それは、神がアブラハムと交わされた約束を守るためです。神様はアブラムに、あなたによって、地上のすべての民族は祝福されると約束されました。アブラハムの子孫から多くの子孫が出て、その子孫から救い主が出るという約束です。この神様の約束が成就されるためには、神様の特別な選びが必要であり、ただアブラハムの子であるだけでは不十分だったのです。どのような女の胎から生まれるかが重要だったのです。それはサラの胎でした。神様が選ばれた胎は、不妊の女と言われていた彼女の胎を通して実現されるものでした。彼女もまた神様から選ばれた胎だったのです。にもかかわらず、もし彼女がエジプトに召し入れられ、そこでパロのそばめとして仕えるようになったとしたら、あの神様の約束が無効になってしまう危険があったのです。アブラハムはこの聖なる神様の約束が成就されるはずだったサラの胎を、自分の身の保全のために犠牲に供しようとしたのです。神様はそれを拒まれた。もしこの時、神様が御手を伸ばし事態に干渉されなかったら、あるいはアブラハムはいつまでも愛すべきサラをパロの宮廷においたなら、確かにそれで多くの財産を得、安易な生活にとどまることができたかもしれませんが、それ以上に重要な祝福を失うことになってしまう危険に直面していたのです。 しかし、たとえ人が不真実であっても、神の真実はいつまでも変わりません。神様はご自分が約束されたことを忠実に保護し、履行されるのです。すなわち神様はパロとその家とに疫病を送られて、悩まされたので、ついに事の真相が明らかにされ、パロは驚いてアブラムとサラをエジプトからさらせたのです。

私たちにもアブラハムのような試練に会うことがありますが、その時には神のみこころを求めて祈り、そのみこころに従うことによって、勝利していかなければなりません。イエス様もその宣教のはじめに悪魔の試みを受けられました。四十日四十夜断食して祈っていたとき、悪魔がやって来て、「この石がパンになるように命じなさい」と言って誘惑してきたのです。神のみこころを忘れさせ、曲がった道を求めるように誘惑してきたのです。そのための道具が「パン」でした。私たちの信仰生活にも、こうしたききんがやってくることがあります。その誘惑に勝利する力は、ただ神から与えられる力です。イエス様が一人荒野に出て神様と交わり、祈ることによってその力を求められたように、私たちも人生の荒野の中で神様の前に出て祈り、神の力を求めなければなりません。その神様との交わりの中で、神様のみこころを知り、それに従っていく力が与えられるようにと祈らなければならないのです。アブラハムが失敗に陥ったのは、それがなかったからでしょう。生活の中に祭壇が取り除かれ、主の名によって祈ることもなくなってしまった。それが一番大きな問題でした。私たちはこのアブラハムの失敗を通して、できるだけそのような失敗に陥ることがないように、いつも神様の御声を聞き、その神様のみこころから離れることがないように祈っていく者でありたいと思います。