きょうは、Ⅱテサロニケ2章後半のところから、「主があなたの心を慰め、強めてくださるように」というタイトルでお話します。パウロは2章前半のところで、主の日がすでに来たかのように言って惑わす人がいても、そのようなことにだまされないようにと勧めました。なぜなら、その前には必ず二つのことが起こるからです。一つは背教で、もう一つは不法の人の到来です。終わりの日の前にはこの二つのことが起こるので、それをよく見てだまされたいりしないようにしなさいと言いました。きょうのところはその続きです。
Ⅰ.神の救い(13-14)
まず13節をご覧ください。ご一緒に読んでみたいと思います。
「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」(13)
パウロは、キリストを受け入れない人たちに臨む神のさばきについて語りましたが、一方、テサロニケの人たちについては神に感謝しています。なぜなら、神が彼らを救いにお選びになったからです。パウロは1章3節でも感謝しました。それは彼らの信仰が目に見えて成長し、彼らの相互の間に、愛が増し加わっていたからです。また、彼らは激しい迫害と患難とに耐えながらその信仰を堅く保っていたからです。そして、彼は再び神に感謝しています。それは神が彼らを救ってくださったからです。
いったいなぜ神は彼らを救ってくださったのでしょうか。それは、神が彼らを愛してくださったからです。ここには、「主に愛された兄弟たち」とあります。神が彼らを愛してくださったので、彼らは救われたのです。いったいなぜ神は彼らを愛されたのでしょうか。わかりません。というのは、彼らには愛される資格などなかったからです。彼らも、私たちも罪を犯し、神を神とも思わず、自分勝手に生きていました。愛される資格など全くなかったのです。それにもかかわらず、神は私たちを愛してくださいました。そして、そのためにご自身のひとり子を与えてくださいました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
とても有名なみことばです。これは聖書の中の小聖書と言われている箇所で、この一節を見れば、聖書が何のために書かれたのかがわかると言われている箇所です。それは、神は愛であるということ、そして、神はそのひとり子をお与えになったほどに世を、あなたを、私を愛してくださったということです。そしてそれは、この御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため、すなわち、救われるためです。
同じヨハネが書いた手紙にも、この神の愛について書かれてあります。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:9~11)
皆さん、いったいどこに愛があるのでしょうか。ここにあります。神が私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされたことの中にあるのです。なだめるというのは、怒りや不満の気持ちを静めることです。神は私たち人間の罪に対して怒っておられます。その怒りを静めようと人はいろいろな事をするわけです。たとえば、ボランティアをしたり、困っている人を助けたり、高価なささげものをしたりといったことです。ほら、皆さんが怒っておられるとき、誰かがお詫びのしるしとして何かを差し出すと、それを見て気持ちがやわらぐのと同じです。やってしまったことはしょうがないけど、そこまで反省しているならしょうがないか、となるわけです。ところが、人間の罪はあまりにもひどいので、たとえ人がどんな良いことをしても、困っている人を助けたり、相談にのってあげた、たくさんささげものをしたからといっても、神の怒りを静めることはできませんでした。それをなだめることができたのは、人間の側の何かではなく、神のひとり子のいのちだったのです。神はご自身のひとり子をなだめの供え物として十字架につけてくださいました。神はそのひとり子のいけにえを見て、人間の罪に対するご自身の怒りをなだめられたのです。そこまでして神は私たちをゆるしてくださったのです。ここに神の愛が示されたのです。
だからヨハネは「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのだから、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言っているのです。神がこれほどまでに愛してくださったのだから、私たちは互いに愛することができるのです。この愛がわからなければ、他の人を愛することも、赦すこともできません。それはただ十字架で死なれたイエスさまを見上げ、そこに現された神の愛を知った人だけができることなのです。
ここでパウロは、神はテサロニケの人たちを愛してくださったので、彼らを救いにお選びになったと言っています。それはいつのことでしょうか。それは「初めから」です。あなたが何か良いことをしたからではなく、あなたが優れていたからでもなく、そういうことと全く関係なく、あなたが生まれるずっと前から、いや、この世界が造られるずっと前からそのように選ばれていたのです。エペソ人への手紙1章には、「世界の基の置かれる前から」とあります。世界の基の置かれる前から、神はあなたが救われるようにとあらかじめ救いに定めておられたのです。
そのことは、イエスさまの言葉からもわかります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)
皆さん、私たちは、自分で教会に来たかのように思っていますが、実はそうではありません。自分でイエス・キリストを信じたかのように考えていますが、そうではないのです。イエスさまがあなたをそのように選んでおられたのです。ここに私たちの救いの確かさがあるのではないでしょうか。もし私たちが自分で好きに信じたのであれば、嫌になったら「や~めた」ということになってしまいますが、そうじゃないというのです。神がそのように選んでくださったのですから、たとえ日の中、水の中、どんなことがあろうとも、決して見捨てられることはありません。神は最後まで責任をもって導いてくださるのです。
ところで、神はどのようにして私たちを救ってくださったのでしょうか。ここには、「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、救いにお選びになったからです。」とあります。どういうことでしょうか。ここから、私たちが救われるためには二つのことが必要であることがわかります。一つは神の側の働きと、それからもう一つは私たち人間の側の応答です。
まず救いは神の側の働きによるものです。そのことをパウロはここで「御霊による聖め」と言っているのです。御霊とは神の聖霊のことです。神はこの聖霊によって私たちを聖めてくださいました。聖めるとは「分離する」とか「分ける」という意味です。神は聖霊によってこの世からあなたを分離してくださった、救ってくださったのです。
ヨハネの福音書3章にニコデモの話があります。彼はユダヤ人の指導者で教師でもありましたが、ある一つのことがどうしてもわかりませんでした。それは、人はどうしたら神の国を見ることができるかということです。どうしたら救われて天国に入ることができるかということですね。そこである夜、ほっかぶりをしてイエスさまのもとを訪ねるのです。ほら、彼はユダヤ教の指導者でしたから、わからないなんて言えないのです。だから、だれにもわからないようにかぶり物をして、しかも夜、こっそりとやって来たのです。
そんなニコデモにイエスは何と言われたでしょうか。イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)
ん、新しく生まれなければ神の国を見ることができない?どういうことか?もう私は70ですよ。こんな老年になっていて、どのようにして生まれることができましょう。もう一度、お母さんの胎に入って生まれなければならないということでしょうか。(3:4)
ニコデモは新しく生まれるということがどういうことがわかりませんでした。彼はユダヤ教の教師で、聖書もよく知っていましたが、救い主がだれなのか、イエスがだれなのかがわからなかったのです。それでイエス言われました。「人は水と御霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(3:5)
人は水と御霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないのです。水と御霊によって新しく生まれるとはどういうことでしょうか。皆さん、人間には二つの誕生があります。一つは肉体の誕生であり、もう一つは霊の誕生です。肉体の誕生、すなわち生まれたままの状態では神の国に入ることはできません。なぜなら、そこには罪があるからです。罪があれば神の国に入ることはできないのです。神の国に入るには霊(神の霊、聖霊)によって新しく生まれなければならないのです。それで神はイエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストを信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。だれでもイエスを信じるなら、その瞬間に神の霊を受けることができます。聖霊によって新しく生まれることができるのです。これは神の側による、神の働きによるものなのです。
けれども、その一方で、救いを得るためには私たちの側の応答も必要です。それが「真理による信仰」です。どういうことでしょうか。それは、真理であるイエス・キリストを信じる信仰ということです。ヨハネ14章6節のところで、イエスはこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
イエスは道であり、真理であり、いのちです。このイエスを信じるなら、あなたは救われます。あなたも、あなたの家族も。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)
このように、私たちが救われるためには神の側の働きと、人間の側の応答という二つの側面があるのです。真理のみことばを聞かなければ応答のしようがありません。聞いたことがないものを、どうして信じることができるでしょう。ですから、神さまはそのために人を遣わされるのです。テサロニケにもパウロたちが遣わされました。14節をご覧ください。
「ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。」
神はパウロたちを遣わして福音を宣べさせました。ここに、「福音によってあなたがたを召し」とあるのはこのことです。神はパウロたちを通して語った福音を通して彼らを救いへと召し、イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。
このことを思うと、パウロは感謝せずにはいられませんでした。信仰をもってまだ数か月のテサロニケの人たちは、激しい迫害と患難の中にありましたが神は一方的に彼らを愛してくださり、救ってくださったことを思うと、自然と感謝が溢れてきたのです。
それは私たちも同じです。私たちにも困難があります。苦しみもあるでしょう。でも、このことを思うと感謝せずにはいられなくなるのです。神があなたを救ってくださいました。あなたが何かをしたからでなく、また、あなたに救われるだけの根拠があったからでもありません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって、一方的に救ってくださったのです。あなたが救われたのは、ただ恵みによるのです。そのことを思うと感謝せずにはいられません。たとえ今どのような状況にあっても、たとえ困難にあっても、あなたは感謝せずにはいられなくなるのです。
Ⅱ.堅く立って(15)
次に15節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。
「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」
「そこで」というのは、これまでパウロが語ってきたことを受けてということです。それを受けてパウロはこう言っています。「堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」
堅く立つためには軸がしっかりしているということがとても大切です。土台がしっかりしているということが必要なんです。その軸とは何でしょうか。その土台とは何でしょうか。それは神のことばです。あなたの心が揺るがないためには、神のことばにしっかりと立っていなければなりません。あなたが揺らぐのは問題を見ているからです。問題を見るとぐらぐらと揺らぎ、穴の中に沈みかけてしまいます。ペテロも湖で沈みかけたのは風を見て怖くなったからです。もし彼がイエスさまだけを見ていたら、沈みかけることはありませんでした。問題を見て怖くなったので沈んだのです。私たちも人の言葉や人の態度を見ると揺らいでしまいます。でももし神のことばに立つなら、決して揺らぐことはありません。しっかりと立つことができるのです。
パウロはここで、神のことばのことを「私たちのことば」と言っています。これはどういうことでしょうか。また、ここで彼は私たちの手紙と言っているのはどうしてでしょうか。それは、パウロや使徒たちが直接イエスさまから教えられた人たちだからです。私たちは間接的に聞いて、間接的に教えられていますが、パウロたちや使徒たちは、人となって来られた神イエスを直接見て、その奇跡を目の当たりにしました。また、その権威ある教えをじかに聞いたのです。ですから、彼らが教えていたことはイエスさまが教えていたことであり、イエスさまのことばそのものであったわけです。また、それは彼らが書いた手紙というのも神の霊感を受けたものであり、普通の手紙ではなく、主イエスからの手紙と同じであったからです。ですからパウロはここで、「私たちのことば」とか「手紙」と言っているのです。その教えを守るとき、私たちの信仰は揺らぐことがなく、しっかりと立つことができるのです。
私たちの信仰が弱くなるのはどうしてでしょうか。また、教会が霊的に弱くなってしまうのはどうしてなのでしょうか。それは、神のことばに立たないで、自分の考えや自分の思いに立つからです。私たちが神にことばに立たないで自分の思いに立つなら弱くなります。また、すでに教えられている教えからズレてしまうと弱くなってしまうのです。ですから、そういうことがないように、私たちは神のことば、すでに教えられた教えに堅く立っていなければなりません。
Ⅲ.心を慰め、強めてくださいますように(16-17)
最後に16節と17節を見て終わりたいと思います。ご一緒に読んでみましょう。パウロはテサロニケのクリスチャンたちに教えと励ましを与えた後でこう祈っています。
「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」
パウロはここで二つのことを祈っています。一つは、神が彼らの心を慰め、強めてくださるようにということ、そしてもう一つのことは、あらゆる良いわざとことばに進むようにということです。この順序が大切です。というのは、あらゆる良いわざとことばとに進むためには、心が慰められ、強められなければならないからです。良いわざとか、ことばというのは、自分の中に力がないとできません。したいと思っても力がないとできないのです。その力とは何でしょうか。それは聖霊の力です。イエスさまはこう言われました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリやの全土、および地の果てまでわたしの証人となります。」
良いわざとことば、すなわち、キリストの証人となるためには、力を受けなければなりません。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで、キリストの証人となることができます。でも力がないと証をすることができません。そういう時には休んでください。休むと回復します。神のことばによって慰められ、励まされ、強められると元気になってくるのです。そのように力を受けたら、証をすればいいのです。
ところで、そのように彼らの心を慰め、強めてくださる方はだれでしょうか。それは、もちろん神です。それは、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神です。しかし、ここにはその神がどのような方であるかが紹介されています。すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方です。
まず神は私たちを愛してくださった方です。イエスさまは私たちを愛し、私たちのために十字架で死んでくださいました。このキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。パウロはローマ8章35節から39節までのところでこう言っています。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」
「しかし」です。患難があります。苦しみもあります。迫害がある。しかし、私たちはこれらすべての中にあって圧倒的な勝利者となることができるのです。どうしてでしょうか。神が愛してくださったからです。誰も、何も、このキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。皆さん、私たちは問題を見ると心が沈みます。しかし、私たちの目を神に向けると慰めを受けるのです。なぜなら、私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるからです。
また、神は恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方です。神は慰めの神です。どのような苦しみの時でも、私たちを慰めてくださるとあります(Ⅱコリント1:3-4)。どんな苦しみの中にあっても、やがて神の安息が与えられると思うと慰められます。永遠の安息はこの地上にはありません。どこに行っても問題はあります。でも永遠の御国、天国はそうではありません。そこにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。そこには主がともにおられるので、主が彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。それこそ本当の慰めではないでしょうか。
またパウロはここで、神はすばらしい望みを与えてくださった方であると言っています。苦しいことがあると、希望が消えそうになります。テサロニケの人たちもまさにそうでした。しかし、パウロは彼らにすばらしい望みを思い起こさせています。その望みとは何でしょうか。それは神の国に入れていただけるという望みです。やがて永遠の安息が待っています。そして、そればかりではなく、朽ちることのないからだ、栄光の姿によみがえるという希望が与えられているのです。この希望を持っていれば、この地上でどんなに苦しいことがあっても、辛いこと、悲しいことがあっても、必ず乗り越えることができます。だからパウロは彼らにお願いをする前に、神がどのような方なのか、どんなことをしてくださったのかを思い起こさせているのです。
どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。
私たちの周りにもまだ救われていない人たちがたくさんおられます。そしてそういう人たちが救われるようにと、神はあなたが良いわざとことばとに進むように願っておられます。そのためにまずあなた自身が慰められ、強められる必要があります。あなたが受けている苦しみは何ですか。あなたは今どんことで疲れ果てておられるでしょうか。でも神はあなたを慰め、あなたを強めてくださいます。神はあなたを愛し、あなたのためにひとり子さえも与えてくださいました。そして、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。この方にあって、あなたは慰めを受け、強めていただくことができるのです。どうかペテロのように風を見て怖くなり沈みかけるのではなく、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方を見て強められますように。それによってあらゆる良いわざとことばとに進むことができますように祈ります。