きょうは民数記12章から学びたいと思います。
1. モーセに対する非難(1-2)
まず1節と2節をご覧ください。
「1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。2 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。」
ここに「そのとき」とあります。イスラエルの民は神の山シナイ山から旅立ち、まずタブエラへ進みました。そこで民はひどく不平を鳴らして主につぶやいたので、主は彼らに対して怒りを燃やされ、宿営をなめ尽くされました。また「ああ、肉が食べたい」という声に紛れてつぶやく民に対して、主は大量のうずらを降らせましたが、肉が彼らの歯の間にあるうちに、主の怒りが燃え上がり、彼らは激しい疫病で打たれて死にました。それがキブロテ・ハタワテという所での出来事です。イスラエルはそこからハツェロテに進み、そこにとどまりました。「そのとき」のことです。モーセの姉ミリヤムがアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難したのです。
このクシュ人の女が誰のことを指しているのかははっきりわかりません。モーセには、チッポラという妻がいました。彼女はミデヤン人イテロの娘です。このクシュ人がそのチッポラのことなのか、あるいはチッポラが死んだ後の二人目の妻なのかは分かりませんが、イスラエル人ではない異邦人であることは確かです。ミリアムは、この女のことでモーセを非難したのです。なぜでしょうか。ねたみがあったからです。自分はモーセの姉なのにモーセばかり用いられて自分は全く認められていないことにある種の不満があったのでしょう。しかし、このような妬みは地に属するものであり、肉に属し、悪霊に属するものです。
ヤコブ3章14-15節には、「14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」とあります。私たちは、自分たちの中にこうしたねたみがないかどうかを、しっかりと見張っていなければいけません。確かにモーセにも欠陥があったかもしれません。しかし、モーセは神によって立てられたしもべなのです。主がお立てになりました。そのモーセを非難して、彼の評判を傷つけるということは、それは神ご自身を傷つけることと同じです。ミリヤムはそのことを理解していませんでした。
ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。」とあります。私たちは平気で上に立てられた権威を非難したり、悪口を言ったり、さばいたりすることことがありますが、それは神ご自身を非難することであり、傷つけることであるということを覚えておかなければなりません。なぜなら、上に立つ権威は、すべて神によって立てられたものだからです。勿論、私たちはキリストにあって一つであり、上下の関係でありません。みな平等です。けれども、そこには秩序があるのです。神によって立てられた権威を非難することは神のみこころではありません。むしろそれを理解し、主にあって支え、守る責務を持っているのだということを覚えておかなければなりません。
2.神のしもべモーセ(3-8)
次に3節から8節までをご覧ください。
「3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。4 そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕へ出よ」と言われたので、彼ら三人は出て行った。5 主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」
モーセは、ミリアムとアロンから非難されたとき、何も反発しませんでした。そのままにしていました。自分は、確かに足りない人間だと思ったのでしょう。「私に立てつくとはどういうことだ」というようなことを言いませんでした。ですからここには、モーセは、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった、と書いてあるのです。
そこで、モーセではなく主ご自身が三人に天幕の所に出て来るようにと言われました。モーセも傷ついていましたが、それ以上に傷つかれたのは神でした。ですから、神が黙っておられなかったのです。彼らが出て行くと、主は雲の柱の中にあって降りて来られ、こう仰せになられました。「「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」
「幻の中で知らせる」とか「夢の中で語る」というのは、誰かの解き証しが必要であるようなあやふやな語り方で語るということです。しかし、モーセに対してはそうではありません。モーセに対しては、口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしないのです。なぜなら、彼は全家を通して忠実な者だからです。どういう意味でしょうか。神の家全体のために忠実であるということです。ミリアムは、主の働きを履き違えていました。モーセが預言をし、不思議を行なっているのを見て、なんとすばらしいんだろうと興奮し、自分もそのような奉仕に携わりたい、と思ったかもしれませんが、モーセはそういうつもりで奉仕していたのではなく、ただ神に忠実であることに徹していたのです。神から与えられた使命を全うするために与えられていた賜物を用いて仕えて。彼は自分の分をよくわきまえて、与えられた奉仕に集中していたのです。
時に私たちも、そうした目ざましいわざや、興奮するような事を求める傾向がありますが、そうではなく、自分に与えられた使命を認識し、そのために与えられた賜物を用いて、忠実に与えられたを果たしていかなければなりません。他の賜物を持っている人を見てすばらしいと思い、自分もそれを持ちたいなあと思うことがあっても、そのために賜物が与えられるのではありません。しっかりと主に与えられた務めを行なうために、主にお仕えするために与えられているのです。そのことをわきまえなければなりません。それは地味で、きらびやかしたものではないかもしれませんが、主のしもべに求められていることは忠実であることなのです。
3.主の懲らしめ(9-16)
最後に、ミリヤムの高慢に対する主のさばきを見て終わりたいと思います。9節から16節までをご覧ください。
「9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。10 雲が天幕の上から離れると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを降り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」14 しかし主はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。」はミリアムに罰を与えられます。」
主の怒りがミリヤムとアロンに向かって燃え上がると、主は天幕の上から離れ去って行きました。すると、ミリヤムはツァラートのようになり、雪のように白くなりました。すると、アロンがモーセに「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」と言いましたが、主は彼女を七日間宿営の外に締め出さなければならないと言われたので、そのようにしました。
モーセは、自分を非難したミリアムのために祈ることができました。彼には赦す心がありました。愛は、忍耐し、親切にする、とありますが、まさにモーセは愛をもって行動したのです。しかし、主は彼女を七日間、宿営外の外に締め出しておかなければならないと言われました。どういうことでしょうか。「つばきをかける」とは、はずかしめを受けるということです。死刑ではないけれども、このようにつばきをかけられて、はずかしめを受けるという刑が律法にありました。それと同じように、ミリヤムは神の懲らしめを受け、自分の罪を悲しみ、もう二度と同じことをしないという悔い改めの期間が求められました。それが七日間、宿営の外に締め出されるということです。
それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出されましたが、民はミリヤムが連れ戻されるまで、そこにとどまり、旅立ちませんでした。それはミリヤムだけでなくイスラエル全体が、このことを深く考え、主の戒めを考える時でもあったかもしれません。主の懲らしめを受けるのは、私たちにとっても必要なことです。それは、私たちに意地悪するのではなく、愛をもっておられるからです。へブル12章5~13節に次のようにあるとおりです。
「5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」
こうしてモーセたちは、パランの荒野に宿営しました。イスラエルの民は約束の地に向かう荒野の道中ですぐにつぶやき、激しい欲望にかられてその多くが滅び失せました。また、モーセの姉ミリヤムは主のしもべを非難して、主の懲らしめを受けました。これらのことはみな何に起因していたのでしょうか。それは、主のあわれみと真実から離れてしまったことです。主は私たちに良くしてくださっています。一見、いつもと同じことの繰り返しのようで、物足りないと感じるかもしれませんが、主のあわれみは朝ごとに新しいのです。つぶやきはこのことを忘れたところから出てきます。そして、非難も、主が立てておられる秩序に違反することから出てきます。秩序を乱すことや、平和を壊すことに、私たちは注意していなければいけません。慎み深くして、主とともに歩むことが、天に向かって進む私たちのこの荒野での歩みにおいて求められていることなのです。