Ⅱテサロニケ3章1~18節 「主は真実な方ですから」

きょうはテサロニケ第二の手紙からの最後のメッセージとなります。第一の手紙同様この第二の手紙も、迫害で苦しんでいたテサロニケのクリスチャンたちを励ますために書かれました。また、主の再臨について、もうすでに来たかのように言うのを聞いて動揺し、落ち着きを失ったりすることがないように教えるために書かれました。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、主の再臨の前には背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が必ず現れるからです。だから、そうした誤った教えを聞いて動揺することがないようにと教え、彼らが信仰に堅く立つようにと励ましたのです。そして、この手紙の終わりの部分に入ります。

Ⅰ.パウロの確信(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。2 また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。」

終わりにパウロは、私たちのためにも祈ってくださいとお願いしています。いったい彼は何を祈ってほしいと言っているのでしょうか。彼はここで二つの祈りのリクエストをしています。一つは、主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられるようにということです。

主のことばとは福音のことです。また、それは神のことば全体のことでもあります。この神のことばが彼らのところで急速に広がったように、他のところでも急速に広がり、そのことによって神の栄光があがめられるように祈ってほしいと願ったのです。

パウロはこの時コリントにいました。コリントの教会はとても堕落していました。教会は性的に堕落しており、また、ねたみや争いが絶えませんでした。彼らはイエスさまを信じて救われていたはずなのに、ただの人のように歩んでいたのです。いったい何が問題だったのでしょうか。それは神のことばを聞いてもそれをただ聞くだけで、それが彼らの心に留まっていなかったことです。神のことばを聞いているのですが、それが心の中に留まることがなかったのです。しかし、テサロニケのクリスチャンたちはそうではありませんでした。。彼らはパウロたちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れたので、そのことばが、信じている彼らのうちに働いたのです(Ⅰテサロニケ12:13)。主のことばは生きていて、力があるので、これを聞く人を救うだけでなく、その人を全く新しい人に作り変えることができます。テサロニケのクリスチャンたちのすばらしい点は、この神のことばに生きていたということです。そのようにコリントでもいや、他の至るところでもみことばが急速に広がり、それによって救われる人々が起こされるように、そして、その神のことばによって生活が変えられ、主の御名があがめられるように祈ってほしいと言ったのです。

パウロの第二の祈りのリクエストは、自分たちがひねくれた悪人たちの手から救い出されるようにということです。2節にこうあります。「また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。」「ひねくれた悪人ども」とは、イエスさまを信じて救われていると言いながらパウロの教えを否定したり、あからさまにパウロの人格を否定するようなことを言って、その働きを妨げていた人たちのことです。彼らはユダヤ主義者と呼ばれていました。キリストの福音を信じてもそれだけでは足りない。ブラス律法も守らないと救われないといった間違ったことを教えていました。間違ったことを教えていただけでなく、パウロの教えが間違っていると言って混乱させていたのです。伝道には反対や困難は付き物です。しかし、時としてそれが福音宣教の大きな足かせになってしまうこともあります。だからパウロは、福音の前進のために、このような悪人どもの手から救い出されるように祈ってほしいと訴えているのです。

しかし、こうした困難な中にもパウロは、それを乗り越える力がどこにあるのかをよく知っていました。それは確信です。3節と4節をご覧ください。「3 しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。4 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。」

パウロはここで、「私たちは主にあって確信しています」と言っています。確信を持つことはとても大切なことです。それがどんなに険しい状況であっても、こうした確信を持つことによって必ず乗り越えることができるからです。パウロはここで二つの確信を持っています。一つは、主は真実な方ですから、彼らを強くし、悪い者から守ってくれるという確信です。

皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。たとえすべての人が信じなくても、たとえ教会の中に問題があっても、それは神が真実な方ではないということではありません。人がどうであれ、教会がどうであれ、神は常に真実な方なのです。信仰が安定しているクリスチャンの秘訣はここにあります。私たちは人を見て、あるいは教会を見て、あるいはキリスト教の歴史を見て、またクリスチャンの理不尽な状況を見てすぐにつまずいてしまいますが、それでも神が真実であることは変わらないのです。そうしたことは確かに多いかと思います。それは今もあるし、これからもあるでしょう。いつもあります。ではそれによって神は真実ではないということにはならないのです。人は真実でなくとも、神は常に真実なのです。これがパウロの持っていた確信です。Ⅱテモテ2章13~14節を開きたいと思います。

「13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。14 これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」

彼とはイエス・キリストのことです。私たちは真実でなくても、彼は常に真実です。彼にはご自身を否むことができないからです。だから、これらのことを思い出させるようにと言っているのです。頼りにならない人間に依存しないで、神に信頼しなければなりません。なぜなら、神は真実な方だからです。そうでないと、人のことばに振り回されてしまうことになります。神は真実な方であるという確信があれば、たとえ人がどうであろうと、たとえ教会がどうであろうと全く関係ありません。そこに希望を置くことができるからです。

パウロが持っていたもう一つの確信は、4節にありますが、テサロニケの人たちが、パウロたちが命じたことをこれからも実行してくれるということです。彼らは、パウロたちが伝えた福音を神のことばとして受け入れました。そして、信じて救われたというだけでなく、その教えに堅く立ち、それを守り、実行していました。もう現にそれをしていたのです。それをこれからもしていくということです。パウロの確信は、彼らがそれを信じて終わりではなく、これからもずっと信じていくということでした。かつて信じていましたが今は信じていませんというのでは、意味がありません。かつては熱心に仕えていましたが今はちょっと引いていますというのでは、主に喜ばれることないのです。なぜなら、主はこれからも続けていくことを強く願っておられるからです。そうした確信に立ってパウロはこう祈っているのです。5節、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」

もしこの二つの確信があれば、あとは主が働いてくださいます。主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださるのです。クリスチャンが神の愛とキリストの忍耐を持つことは、自分の力や人間の努力だけでできるものではありません。そのためにはどうしても神の恵みと導きによらなければなりません。だから、パウロの祈りはこの二つの確信によって裏付けられていたのです。主は真実な方ですから、必ずあなたを強くし、悪い者から守ってくださる。聖書が命じていることを、あなたが現に実行しているように、これからも必ず実行していくという確信です。私たちもこのような確信を持たせていただきましょう。それが困難な中にあっても神の愛とキリストの忍耐とを持ち続けていく秘訣だからです。

Ⅱ.締りのない歩み方をしないで(6-15)

次に6節から12節までを見ていきましょう。終わりに、パウロがテサロニケの人たちに命じている第二のことは、締りのない歩み方をしないようにということです。

「6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。7 どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、8 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」

6節には、締りのない歩み方をして、主の教えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい、とあります。「締りのない生き方」とは仕事ができるのに、怠けて何もしない。フラフラしていた人たちのことです。彼らはもう既に主は再臨したのだから、仕事していても意味がないと、全く仕事をしませんでした。そうなると経済的に苦しくなり、回りの人に負担をかけてしまうことになります。そういう人たちに対してパウロは、「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11)と命じてきましたが、その命令に従わない人がいたので、そういう人たちからは「離れていなさい」と命じているのです。

なぜでしょうか。仕事をすることは神のみこころだからです。神は世の初めから今に至るまでずっと働いておられます。また、イエスさまも神が人となって来られた方ですが、公生涯に入るまでずっと大工として働いておられました。パウロもそうです。パウロ人のパンをただで食べることはしませんでした。かえって、だれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、彼らに報酬を受ける権利がなかったからではありません。彼にはその権利がありましたが、それでも労苦しながら働き続けたのは、彼らのだれにも負担をかけないようにするためだったのです。また、彼らがパウロたちを見習うようにと、身をもって模範を示すためだったのです。だから、パウロは彼らのところにいたときも、働きたくない者は食べるなと命じたのです。働くことは神のみこころなのです。勿論、健康上の理由で働けない人もいます。また、仕事をしたくてもない人たちもいますが、ここではそういう人たちのことを言っているのではありません。そういう人たちには当然助けが必要です。ここでパウロが言っているのは、十分働けるのに働く気のない人たちのことです。

11節を見てください。彼らの問題は、ただ仕事をしないというだけではありませんでした。彼らは人のおせっかいばかりして、締りのない歩み方をしていたのです。言わなくてもいいようなことまで言って問題を作ったり、お腹が空けばだれかの厄介になるというように、まさにパンツのひもがゆるんだような生活をしていたのです。そういう人たちに対してパウロは、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」と命じたのです。しかし、そうでない人たちもいます。汗水たらして働き、わずかなお給料を大切に使い、そこから精一杯主にささげるという人たちもいたのです。

そういう人たちに必要だったのは、たゆむことなく善を行うということでした。仕事をしない人には食べさせるな!と聞くと、食べさせてはダメだということをすべての人に当てはめてしまう人がいますが、それもよくありません。中には仕事をしたくてもできないという人もいます。そういう人たちには助けが必要なのです。特に、当時は社会保障制度が確立されていなかったので、夫に先立たれてしまうと仕事がなくて食べるのにも困り果ててしまうということがありました。そういう人たちに対しては助けてあげるように、善を行うようにと命じているのです。

マタイの福音書25章40節のところでイエス様は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。弱い人に助けの手を差し伸べることは神にしたことと全く同じことだと言われたのです。だから善いことを行うことを止めてはいけません。たゆむことなく善を行わなければならないのです。

Ⅲ.平和の神がともにおられるように(16-18)

最後に16節から終わりのところを見て終わりたいと思います。パウロはこの手紙の最後にテサロニケの人たちのために祈り、あいさつを送っています。「16 どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」

ここでパウロは、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、彼らに平和を与えてくださるようにということ、また、主が彼らすべてとともにおられるようにと祈りました。これはテサロニケのクリスチャンたちにとって最もふさわしい祈りであったと言えるでしょう。というのは、彼らは激しい迫害の中に苦しんでいたからです。また、もう既に主の日は来られたと言って心を騒がせる人たちがいたからです。そんな彼らにとって必要だったのは、平和の主が、彼らとともにいて、彼らの心に平和を与えてくださるということでした。

皆さん、私たちは問題があるとすぐに心を騒がせ、右往左往してしまいます。もうどうしたらいいかわからなくてパニクッテしまうのです。ですから、私たちに必要なのは心の平安であり、安心感です。いったいどうしたらこの平安を持つことができるのでしょうか。それは主に祈ることです。なぜなら、それは平和の主である神から来るからです。だからパウロはここで、この平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださるようにと祈っているのです。もしあなたが、この平和の主ご自身があなたとともにおられるということを知るなら、心に平安を持つことができるのです。たとえば、小さな子どもにとってはお母さんがすべてです。お母さんがいないと不安になるのです。しかし、そばにいれば安心します。それと同じことです。

私たちは問題に直面すると、自分だけが世界のすべてを背負っているかのように感じてしまいます。だれも助けてくれないとか、自分だけが・・・と、孤独に陥ってしまうのです。神にも見捨てられたような気分に陥ってしまうのです。しかし、そうではありません。神は決して私たちを見離したり、見捨てたりすることはないのです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われた主は、世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださいます。平和の主が共におられるということを知るなら、あなたは心に神の平安を持つことができるのです。

ではどうしたらこのことを知ることができるのでしょうか。そのためには二つのことが必要です。一つのことは、あなたが神との平和を持っているということです。ローマ人への手紙5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。イエス・キリストを信じるならあなたのすべての罪は赦され、神が聖霊をとおしてあなたの内にいてくださいます。あなたは神との平和を持つことができるのです。以前はそうではありませんでした。以前は罪があったので、神に敵対していましたが、今はその罪が赦されて、聖められたので、神の子と呼ばれるようになりました。あなたは神との平和を持っているのです。

しかし、神との平和があるということと、神の平安を持つことは違います。神との平和はあなたと神との間の平和のことですが、それでも目の前に問題が起こると、すぐに心が騒いでしまいます。平安を失ってしまうのです。神との平和があっても、神の平安が失われてしまうことがあるのです。ではそのような時はどうすればいいのでしょうか。パウロはこう言っています。ピリピ4章6~7節です。開いてみましょう。

「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

ここでパウロは、何も思い煩わないで、あらゆる場合に祈れと言っています。私たちは神との平和が与えられても心配したり、落ち込んだりしますが、そういう時には祈るように、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさいというのです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。つまり、あなたのことを神に知っていただくと、あなたは安心するのです。あなたが何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈ると、神がともにおられることがわかるようになるからです。平和の主があなたとともにおられることがわかると、あなたは再び神との平安を持つことができるようになるのです。

この切り替えが早いか遅いかだけの問題です。信仰生活が長くても不安は押し寄せてきますし、心騒ぐことがあります。問題は同じように起こります。信仰を持ったらすべてがバラ色になるということではありません。同じように問題は起こります。どこに行っても、何をしても、必ず問題は起こるのです。でも、神との平和を持つ前と持ってからでは全く違います。そういう時でも祈れる対象をちゃんと持っているということです。それまでは困ったときの神頼みで、もう何でもいいから祈っていました。答えてくれそうなものなら、たとえそれがきつねでもたぬきでも、太陽でも、星でも、ご先祖様でも、何でもいいから祈れとばかり祈っていたわけです。しかし、神との平和を持ってからは違います。神との平和を持ってからは、そうした太陽や星、ご先祖様までも造られた創造主なる神に祈ることができるようになりました。だから、神の平安を持つことができるのです。これが早いか遅いかの違いです。これが遅いと不安の方が強くなるのです。

ですから、私たちはどんな時でも、いつでも祈ることが大切です。あなたが不安になったときには、どうぞ祈ってください。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただくようにしてください。そうすれば、神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。もしあなたが人間関係で悩んでいるなら、神に祈ってください。もしあなたが夫婦関係で悩んでいるなら、子どもの問題で悩んでいるなら、それを神に祈りましょう。感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただいてください。そうすれば、あなたの心と思いが、キリスト・イエスにあって守っていただけます。もしあなたが経済的な問題で悩んでいるなら、あるいは仕事のことで、病気のことで、この先どうしていったらいいのだろうと悩んでいるなら、それを神に知っていただいてください。そうすれば、あなたの心と思いは、キリスト・イエスにあって守っていただけるのです。自分一人で悩み、ふさぎ込んだりしないで、それを神に知っていただくように祈ってください。また、そのために神の家族がいます。信仰の仲間たちがいるのです。そういう人たちと一緒に祈ってください。そうすれば、あなたはどんな困難な状況の中にも、平安を持つことができるのです。

17節と18節をご覧ください。「17 パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

パウロはいつも恵みによって手紙を書き始め、恵みによって終えます。それは私たちの信仰生活も同じです。私たちも神の恵みによって信仰生活が始まりました。今までいろいろ辛いこともありましたが、神の恵みによって救われました。救われた後もいろいろな問題が襲ってきますが、その恵みの中にいるのです。そして、最後まで恵みの中を歩み続けるのです。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」