Ⅰテモテ2:8~15「男は男らしく、女は女らしく」

きょうは、Ⅰテモテ2章後半のところから「男は男らしく、女は女らしく」というタイトルでお話します。パウロは1章で語ってきたことを受けて、すべての人のために祈るようにと勧めました。なぜなら、神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、きょうの箇所では、引き続き祈りについて語りながら教会における秩序について述べています。すなわち、教会においては男は男らしく、女は女らしくあれというのです。男らしいとか、女らしいというのはどういう人でしょうか。

Ⅰ.男は男らしく(8)

まず8節をご覧ください。

「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

まず男に対してパウロは、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい、と勧めています。祈ることはすべてのクリスチャンに求められていることですが、とりわけクリスチャンの男性に求められていることなのです。

20世紀最大の説教家と言われたイギリスの牧師D.M.ロイドジョンズ(David Martyn Lloyd-Jones)は、「祈りは、クリスチャンの男性にとって生死にかかわるものです。」と言いました。祈りは、それほど重要なものなのです。しかし、これほど重要な祈りが妨げられる時があるのです。どういう時でしょうか。それは怒ったり、争ったりするときです。これが、男の弱さでもあります。男性はどちらかというと怒ったり、争ったりする傾向があります。メンツとか虚栄心とか、優越感とか劣等感のゆえに、論争を好む傾向があるのです。おそらくこれは、エペソの教会でもよく見られた光景だったのでしょう。男が人前で怒ったり、言い争ったりするようなことがあったのです。しかし、このようなものは神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1章20,21節には、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。怒りではなく神のみことばを持たなければなりません。怒りは神の義を実現することはありませんが、みことばは、あなたのたましいを救うことができるからです。男は、怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければならないのです。

では、きよい手を上げて祈るとはどういうことでしょうか。手を上げて祈るというのは、ユダヤ人が祈る祈りの姿勢でした。ユダヤ人は普通祈る時、手を上げて祈ったんですね。両手を前に差し出して、立ったままで祈ったのです。哀歌3章40節に、「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」とありますが、それは、心を神に向けることの表現だったのです。それがキリスト教会にも取り入れられていたのです。

しかし、ここではただ手を上げて祈れと言われているのではなく、きよい手を上げて祈るようにと言われています。「きよい」とは、もともと神のために分けるという意味です。したがって、きよい手を上げて祈るとは、心と行いがすっかり神の方に向けられていることを示しているのです。私たち心と行いのすべてが神の方に向けられている状態で祈るということです。

イザヤ書1章15~16節を見ると、当時のイスラエルの民はそうではありませんでした。ここには、「15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。」とありますが、確かに表面的には多くのいけにえをささげ、新月の祭りやきよめの集会をしていました。しかし、神は、どんなに彼らがそのような宗教的な儀式を行っても聞くことはないと言われました。なぜなら、そこに中身が伴っていなかったからです。そのような祈りは神に喜ばれることはありません。神はその心と行いが神に向けられた祈りを求めておられるのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければなりません。

Ⅱ.女は女らしく(9-14)

次に9節から14節までをご覧ください。まず9節から12節までをお読みします。

「9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。
11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

女性に勧められていることはどんなことでしょうか。女性には二つのことが勧められています。一つはつつましく身を飾ることで、もう一つのことは、静かにして、よく従う心をもって教えを受けることです。女性には祈るようにとは勧められていません。なぜなら、言われなくても、女性は率先して祈ることができるからです。しかし、女性にとって難しいことがあります。それは慎ましく身を飾ることと、静かにすることです。

まず慎み深く身を飾ることについて、パウロは次のように言っています。

「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」

どういうことでしょうか。この「飾り」と訳されている言葉は「コスメティコス」(kosmetikos)というギリシャ語で、英語のコスメティック(cosmetic:化粧品)の語源になった言葉です。ここからある人たちは、クリスチャンの女性は一切化粧をしてはいけないと考える人がいますが、そういうことではありません。外見をきれいにすること自体は悪いことではないのです。安心してください。歯を磨いて、髪を整え、お風呂に入って清潔にし、ちゃんと洗濯をした服を着ることは最低限のエチケットでもあります。

では、これはどういうことでしょうか。度を越してはいけないということです。ここには「つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り」とあります。派手な格好をすることもできるし、分厚く化粧したり、ブランド品を身に着けたりすることもできますが、あえてそのようなことはしないで、控えめに慎み深く身を飾るようにしなさい、と言うのです。なぜでしょうか。男性につまずきを与えないためです。

この手紙は、当時エペソの教会で牧会していたテモテに宛てて書き送られました。このエペソの町にはアルテミスの神殿があって、それは豊穣の女神アルテミスを祭った神殿ですが、そこには何千という神殿娼婦と呼ばれる人たちがいたのです。彼女たちは町に繰り出しては男たちを魅了していました。派手なファッションをして、金や真珠の宝石で身を飾って挑発していたのです。パウロはそういう状況の中で、あなたがたはこのような派手な格好をしてアッピールするのではなく、神を敬う女性にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさいと言ったのです。

だから、そういう服を着てはいけないとか、化粧をしてはいけないということではなく、そのような格好をすることによって男性につまずきを与えることがないようにしなさいということなのです。女性はそうした外見で決まるものではありません。むしろ柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらこそ重要であり、それこそ、神の御前に勝ちあるものなのです。

箴言11章22節を開いてみましょう。ここには、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」とあります。どんなに美しく着飾っても、たしなみがない人は、金の輪が豚の鼻にあるようなものなのです。また箴言31章30節にはこうあります。

「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、を恐れる女はほめたたえられる。」

麗しさは偽りです。美しさはむなしいのです。けれども、主を恐れる女性はほめたたえられます。

それから女性に勧められているもう一つのことは、静かにしていなさいということです。11節と12節にはこうあります。「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

これは何回読んでも難解な箇所です。パウロは、いかにも女性を差別しているのではないかと感じられるところで、誤解を生むところでもあるのです。いったいこれはどういうことでしょうか?これは「女は黙っていろ」とか、口を開くことも許さないということではありません。女性の本分とか務めは静かにして、よく従う心をもって教えを受けることであるということです。そうでないと、教会が混乱してしまうことになるからです。エペソの教会にはこうした教えに従わない人たちによって問題が生じていました。一部の女性たちが限度を越えておしゃべりをして、あるいは、むやみやたらに他人のことに首を突っ込むことで混乱が生じていたのです。ここに「女が教えたり、男を支配したりすることを許しません」とありますが、男たち、これは教会の指導的な立場にあった人たちのことですが、そういう人たちの教えを受けるよりも教えようとしたり、支配しようとする人たちがいて、混乱していたのです。

ここが女性の弱いところでもあります。女性は一般的におしゃべりを好む傾向があります。それは女性に与えられた祝福でもありますが、この神から与えられた祝福が人間の罪のせいでゆがめられ、しばしば問題を引き起こしてしまう原因になることもあるのです。そういうことがないように、むしろ静かにしていなさいというのです。「おとなしい」という字を漢字で書くと「大人しい」と書きますが、もし騒ぎ立てるようなことがあるとしたら、それは逆に子どもじみているということです。大人らしい人とは、聖書の教えに従って、静かにして、よく従う心をもって教えを受ける人なのです。

いったいなぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。13節と14節をご覧ください。ここには、「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とあります。

なぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。なぜ女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなければならないのでしょうか。それは、アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯してしまったからです。これが、神が定めた創造の秩序なのです。それは決して女が男のロボットであるという意味ではありません。男も女も同じように神のかたちに造られました。そういう意味では男女は平等であり、同権です。しかし、アダムが最初に造られ、次にエバが造られました。エバはアダムの助けてとして造られたのです。それが神の創造の秩序でした。それはアダムが家長としてリードし、妻はそれをサポートするように造られたということなのです。

マシュー・ヘンリーという注解者が、創世記の注解でこう言っています。「エバはアダムの上に立つようにとアダムの頭の一部から造られなかったし、彼にひざまずくようにと彼の足から造られたのでもなかった。そうではなく、彼と等しい者として彼の脇腹から、彼に守られるべく彼の腕の下から、彼に愛されるべく彼の心臓のそばから取り出されて造られたのである。」

男女は互いに助け合い、補完し合うように造られました。男にも足りないところがあるし、女にも足りないところがありますが、そうした足りない者同士が補い合って一つのものを作り上げていくのです。それが夫婦というものです。夫婦を見ていると、両極端とまではいきませんが、全然違うタイプの人同士が結婚していることに気づきます。私たち夫婦はよく真逆だと言われますが、意外とそういう夫婦が多いのです。それでフーフーしているわけですが、そのように全く違った者が結婚して夫婦になるのは、それはお互いに足りない者を補い合って、さらに良い新しいひとりの人に作り上げられていくためなのです。だから、私たちは全く違って大変なのよ、というカップルがいたとしたら、それこそ神の祝福であることを覚えて感謝しなければなりません。

もう一つの理由は、アダムは惑わされなかったが、エバは惑わされて、あやまちを犯したからです。えっ、エバだけでないでしょう。アダムも罪を犯したじゃないですか。アダムもあやまちを犯しました。そうなんです。しかし、蛇に惑わされたのはアダムではなくエバでした。蛇は最初からわかっていたんです。アダムを誘惑しても鈍感な彼にはわからないだろう。こうした霊的なことがわかるのは女であるエバだと。それで蛇はエバを誘惑したのです。「あなたがこれを食べるそのとき、あなたの目は開かれ、神のようになりますよ。」するとエバは「あら、そうかしら」なんて言って、すぐに飛びついたのです。アダムに言ってもだめです。「えっ、目、そんなのどうでもいい。眠い・・」だから、アダムは罪を犯した時、こんな言い訳をしたのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」アダムはエバによって誘惑されたのです。でもエバは悪魔に惑われて罪を犯しました。そのことです。これが創造の秩序なのです。この神が造られた創造の秩序からすれば、女が教えたり、男を支配したりすることはふさわしくないし、あってはならないことなのです。

この「教える」という言葉はギリシャ語で「ディダケー」という言葉です。これは権威をもって継続的に教えるという意味です。ただ道を示すというのではなく、権威をもって従わせるようなことはよくないし、許されていないことなのです。女性は男性の権威の下で、時々、あるいはサポートする形で教えることはできますが、自分が権威をもって、継続的に教えることはふさわしくありません。このことばは、マタイの福音書28章15節には「指図する」と訳されている言葉ですが、女性が男性に代わって指図したり、支配したりというようなことがあってはならないということです。でも実際にはそういうことをよく見かけます。教会で女性が男性を教えたり、指図したりということがあるのです。確かにそのようなこともありますが、それは聖書が教えていることではありせん。そういうことは許されていないからです。こういうことを言うと多くの敵を作ることになるかもしれませんが、これが聖書で教えていることです。女性はあくまでもアシスタントであって、教えたり、指図したり、支配したりするというようなことがあってはならないのです。

しかし、Ⅰコリント11章5節と6節を見ると、女性でも教会で祈ったり、預言したりすることがあったことが示唆されています。ここには、こうあります。

「しかし、女が、祈りや預言をするときに、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」

「女が祈りや預言をするときに」ということは、女性でも祈ったり預言をすることがあったということではないでしょうか。預言とは言葉を預かると書きますが、これはみことばの奉仕のことです。説教したり、教えたりすることです。そういうことが行われていたのではないでしょうか。そうです、女性も祈りや預言をすることがあります。しかし、一つだけ条件があったのです。それは、女性が祈りや預言をするときには、頭にかぶり物をつけていなければならないということです。何でしょうか。このかぶり物とは・・・。これは権威のしるしです。女の権威は男です。妻の権威は夫です。そのような権威をつけていなければいけないということです。その権威の下にあるならできるのです。つまり、秩序をもってなされるのなら大丈夫なのですが、そうでないとできないということです。その秩序とは何でしょうか。それは男性のリーダーシップもとで、ということです。神が定めてくださった秩序において祈ったり、教えたりすることができるということです。そうでないのにすることがあるとしたら、それはふさわしくないことなのです。

でも、みんなやってることだもの、いいんじゃないですか?そんなに堅く考えなくても。これは堅いか、堅くないかということではなくて、聖書で何と教えているかということであって、それを逸脱することがあるとしたら、そこに神の祝福はないということを覚えなければなりません。なぜそのように行われるようになったのでしょうか。それは、男性が悪いからです。男性がしっかりしないからです。男性が霊的にもしっかりと女性をリードして導くことができれば、女性は安心してついてくることができますが、そうでないと、女性が男性を教えたり、支配したりするようなことが起こってくるのです。だから男性が悪いのです。男性がもっと女性のことを考えなければなりません。

Ⅰペテロ3章7節には、「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」とあります。男は、夫は、妻が、女性が弱い器であるということを、わきまえて、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければなりません。そういう負担を負わせないように、男性がもっとしっかりしなければならないのです。そうでないと、女性が教えたり男を支配したりするようなことになるのです。

Ⅲ.子を産むことによって救われる(15)

最後に、こうした神の教えに従うとき、どのような祝福がもたらされるのかを見て終わりたいと思います。15節をご覧ください。

「しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」

これも難解な箇所です。女は、子を産むことによって救われるとはどういうことでしょうか。子を産まなければ救われないのでしょうか。そういうことではありません。ここでは二つの解釈ができます。一つは、14節までの流れを受けて、女であるマリヤが救い主である子イエス・キリストを生むことによって救われるという解釈です。14節までのところには、アダムとエバによって罪に陥った話が出てきましたが、その女の子孫から出る救い主イエス・キリストによって、敵である悪魔が完全に踏み砕かれるという預言なのです。ですから、この子を産むというのは、マリヤの処女降誕のことを指しているのではないかということです。

けれども、ここでの救いというのをそのような意味での救いとしてではなく、女性としての本来の生き方を全うし、女性としての幸いを見出すという意味での救いととらえることもできます。なぜなら、ここに「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら」と言われているからです。それはこれまでパウロが語ってきた内容でもありますが、慎みを持って、信仰と愛と聖さを保ち、子を産むという女性としての本来の生き方を全うするなら、男性が決して果たすことができない、美しくも尊い、女性としての特権にあずかることができるのです。

このどちらの解釈もできますが、私はどちらかと言えば後者の方が文脈的に正しいのではないかと思います。なぜなら、ここではずっと男性として、また女性としてどうあるべきなのかということが語られてきたからです。男性はどこでもきよい手を上げて祈るようにするなら、また女性は女性として本来あるべき生き方としてつつましく、静かにして、よく従う心をもって教えを受けるなら、確かに神はそこに豊かな祝福をもたらしてくださるのです。

今日のように間違った意味での男女平等が叫ばれる時代にあって、こうした聖書が教える男性像、女性像を期待するのは古臭いとか、時代遅れただと言われて難しいかもしれませんが、聖書は間違いのない神のみことばです。男は怒ったり、言い争ったりするのではなく、どこででもきよい手をあげて祈るなら、また、女が良い行いを飾りとして、静かに、よく従う心をもって教えを受けるなら、必ずすばらしい祝福が用意されているのです。私たちは聖書が教える男らしさ、女らしさを求め、神から祝福を受けるものでありたいと思います。