Ⅰテモテ2:1~7「すべての人のために祈りなさい」

今、このテモテへの手紙から学んでいます。これは、パウロが書いた最後の手紙です。いわば遺言のような手紙です。なぜパウロはテモテに手紙を書き送ったのかと言うと、この時テモテはエペソ教会の牧会をしていましたが、いろいろな問題で苦しみプレッシャーに押しつぶされそうになっていたからです。苦しくて、苦しくて、もう辞めたいと思っていました。そんなテモテを励ますためにこれを書いたのです。と同時に、そうした問題にどのように対処したらいいのか、すなわち、神の家でどのように行動すべきなのかを教えるためにこれを書いたのです。

そして、今日のところでは、公の集まりにおいてクリスチャンはどうあるべきなのかについて語っています。それは、すべての人のために祈らなければならないということです。

Ⅰ.すべての人のために祈りなさい(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

「そこで」とは1章の内容を受けてということです。1章には、パウロとは違った教えを説く人たちについて語られていました。ヒメナオとかアレキサンデルといった人たちです。彼らは信仰の破船に会いました。正しい良心を捨てて、自分たちの考えに従った教えを説き、信仰からズレてしまったのです。しかし、テモテよ、あなたはそうであってはならない。あなたは正しい信仰と良心を保って、勇敢に戦い抜かなければなりません。そのように勧めてきました。それを受けてということです。

それを受けて、まず初めにパウロが勧めていることは、すべての人のために祈りなさいということでした。そうした騒々しい、教会の秩序を乱すような人たちのいる中でまず初めにしなければならないことは、祈ることだというのです。なぜなら、教会はキリストの弟子たちの祈りの中から生まれたからです。彼らが心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまりました。それがペンテコステ、聖霊降臨です。それによってエルサレムに最初の教会が誕生しました。教会は祈りによって生まれました。だから教会はまず祈らなければなりません。

ここでは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈りなさい、とあります。自分たちが気に入っている一定の人々のためだけでなく、またクリスチャンのためだけでなく、すべての人のために、特に高い地位にある人たちのために祈るようにと言うのです。ここには、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と言われています。この願いとか、祈り、とりなし、感謝というのは、祈りに含まれる要素のことです。このように表現することによって、祈りの大切さというものを、いろいろな面から強調しているものと思われます。

なぜすべての人のために祈らなければならないのでしょうか?2節をご覧ください。「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」どういうことでしょうか。「敬虔に」とは、信仰深くということです。神を恐れ、神に信頼して生活することです。また「威厳をもって」とは、他の人々に対するあり方において、信頼に値する確かな態度で生活することです。また「平安で静かな一生を過ごす」とは、外的にも内的にも、静かで、落ち着いた平和な生活をすることです。そのために祈らなければなりません。それは、クリスチャンとしての私たちの幸せのため、幸せに一生を過ごすためなのです。

なぜすべての人のために祈ることが、特に高い地位にある人たちのために祈ることが、私たちの幸せな生活につながるのでしょうか。それは、すべての権威は神によって立てられたものだからです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。ローマ人への手紙13章1~5節に、つぎのように言われています。

「1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

ですから、上に立てられた人というのは本来、神の立てられた秩序の下で、すべての人のための平和と幸福のために託されている職務を果たすべき人たちなのです。大田原の市長も、栃木県知事も、日本の総理大臣も、すべてそうです。あの人たちは選挙によって選ばれたんじゃないですか。彼らは人によって選ばれたんですよという方もおられるかもしれませんが、しかし、その背後には神の働きがあり神によって立てられているのです。それは彼らばかりではなく、たとえばあなたの学校の教師も、会社の上司も、家族の長も同じです。彼らもまた神によって立てられているのです。すべて上に立つ権威は神によって、神の目的と計画を果たすための道具として、神のしもべとして、神によって立てられているのです。神がすべての主権者であられ、その神が背後で働いているのですから、その権威を認めて、彼らのために祈らなければならないのです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

しかし、パウロの時代、これはなかなか難しいことでした。なぜなら、それはクリスチャンを迫害していたローマ皇帝ネロのためにも祈れということになるからです。とてもできません。自分たちを迫害し、弾圧しているネロのために祈るなんて考えられないことです。皇帝崇拝を強要したり、偽りの教えを広める人たちのために祈るなんてできないことです。それで、公の礼拝において広くすべての人のために祈られるはずの祈りが、いつしか自分たちを中心にした関係者たちだけのための祈りに片寄ってしまっていたのです。しかし、祈りとは本来そのようなものではありません。公の礼拝における祈りとは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのためにもささげられなければならないものです。それが神の御前において良いことであり、神に喜ばれることなのです。あなたの政治的立場がどうであれ、その人があなたの好みであるかどうかということと関係なく、あるいは、その人の人格がどうであろうとも、すべての人のために祈ることは、高い地位にある人のために祈ることは神のみこころであり、私たちの平和と幸福になることなのです。

あなたはどうでしょうか。すべての人のために祈っているでしょうか。王と高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげているでしょうか。天皇陛下のために祈っているでしょうか。日本の政治家のためにも祈っているでしょうか。この町の人たちのために祈っているでしょうか。ややもすると、私たちは、テレビのコメンテーターたちのように安易に政治家たちを批判したり、非難したりしますが、その前に私たちがしなければならないことは、彼らのために祈ることです。勿論、政治的な意見を言ってはいけないということではありません。でもそんな暇があるなら祈れと言っているのです。もし彼らのために祈るなら、その批判は今よりずっと少なくなるでしょう。そして、議論や論争といった無益なことを避け、神が求めておられる敬虔さや威厳さを保ち、平和で静かな日々を過ごすことができるのです。

S・B・ゴードンはこう言いました。「祈る人ほど今日の世界で重要な人はいない。それは祈りについて語る人でなければ、祈りについて説明できる人でもない。それは時間を割いて祈る人のことである。彼らには時間がない。それは他のことを犠牲にした時間である。他のことも大切であり、差し迫ったものである。しかし、祈りほど重要で差し迫ったものはない。」

先週は寺山兄の告別式が行われましたが、告別式でもお話したように、寺山兄は祈りの人でした。退職してから病気で療養されるまでの16年間、毎朝1時間、時間を決めて祈られました。その祈りの課題を見せていただきましたが、ハーベストタイムとか、MTCとか、その他いろいろな団体から出されている祈祷課題を覚えて祈っておられました。もちろん、教会のためにも祈ってくださいました。私は後でその祈りの課題を見せていただきましたが、赤い鉛筆で線を引いて、あるところには点がつけてあったりしました。そうやって祈ってくださいました。それは兄弟の遺体とともに棺の中に納められましたが、その祈りは決してむだになることはないでしょう。神の前に香のように立ち上がり、いつか必ず答えられるに違いありません。

ですから、私たちはもっともっと祈らなければなりません。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈らなければならないのです。

Ⅱ.神はすべての人が救われることを望んでおられる(4)

次に4節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

私たちがすべての人のために祈るのはどうしてでしょうか。ここにもう一つの理由が書かれてあります。それは、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。皆さん、これが神のみこころなのです。だれも、この神の救いから漏れる人はいません。神はすべての人が救われることを望んでおられるからです。これが神のハートです。あなたは神と同じハートを持っておられるでしょうか。すべての人が救われることを望んでおられるでしょうか。私たちはどんな人でも救われるように、すべての人のために祈らなければなりません。

ところで、ここには神の救いについて二つのことがわかります。一つは、すべての人が救われるためには、まずそのことを神に祈らなければならないということです。すなわち、伝道する前に祈らなければならないということです。伝道することは重要なことですが、そのためにはまず神に祈らなければならないのです。

そしてもう一つのことは、救われると真理を知るようになるということです。真理を聖書とか、神とか、キリストに置き換えても構いません。なぜなら聖書は真理の書であり、神は真理であられるからです。ここで言われていることは真理を知れば救われるというのではなく、救われれば真理を知るようになるということです。私たちはよく、「私はまだ聖書を全部読んだことがないから信じることができません」とか、「なかなか聖書を理解することができないから信じられないんです」、「もうちょっと勉強したら信じます。」という事を聞くことがありますが、それは違います。聖書を勉強したら信じることができるのではなく、信じたら聖書がわかるようになるのです。神がどのような方か、神が願っておられることはどういうことなのかがわかってくるのです。

あるとき、一人の方が電話をくださいました。それは、神には善い神と悪い神がいるのかということでした。皆さん、神には善い神と悪い神がいるのでしょうか。おりません。なぜなら神は唯一であって、それはこの天地万物を造られた創造主なる神だからです。この方は私たちを罪から救ってくださる救い主なる神であり、全く悪や汚れのない聖なる方、義なる方です。この方だけが神であって他にはいません。もしいるとしたら、それは神の装いをした偶像の神々であって、本当の神ではないのです。それなのにその方がわざわざお電話をくださったのは、そのようなことを誰か他の人から聞いて「あれっ」と思ったからでした。いろいろな教会でもう何年も聖書を勉強していてもまだ神を信じていないので、神がどのような方なのかがわからないのです。でも信じたらわかるようになります。

私たちも初めはそうでした。説教を聞いてもチンプンカンプンでした。でもイエス様を信じたら少しずつわかるようになりました。イエス様を信じて救われたら心の目が開かれ、説教を聞いても、自分で聖書を読んでいても、少しずつわかるようになりました。あるときはハッと気付かされたり、ああこういうことだったのかと思うようになったのです。

ですから、まだ聖書がわからないという方も、まず信じていただきたいと思うのです。そうすれば、少しずつ真理がわかるようになりますから。自分の頭で真理を知ることには限界があるんです。なぜなら、真理は知識ではなく人格だからです。百聞は一見にしかず、ということわざがありますが、もしまだ一度も会ったことのない人を知りたいと思うなら、その人についていろいろと情報を集めて知ろうとするよりも、まず会ってお話してみることです。そうすれば、知識で得た情報よりも何倍もその人のことを知ることができまるでしょう。それと同じです。

神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。そこにはあなたも含まれています。神はあなたが救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。神はあなたを地獄に落とす方ではありません。あなたが救われることをこよなく願っておられるのです。

Ⅲ.すべての人の贖いの代価であるキリスト(5-7)

最後に5節から7節までを見て終わりたいと思います。救いに関する神のみこころを語ったパウロは、神ご自身とその救いのみわざについて言及しています。

「5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。」

まず神についてパウロは、「神は唯一です」と断言しています。唯一とはこの方だけという意味です。神はただ一人であって、聖書の神以外には存在していません。日本では昔から八百万の神といって八百万の神々がいると信じられてきましたが、それは嘘です。また神仏融合といって神道の神も仏教の神もみな同じだと言う人がいますが、それも違います。排他性を嫌う日本人には「あれも神、これも神、たぶん神、きっと神」と、曖昧な方が受け入れられやすいのですが、真の神はそういう方ではないのです。神はただ一つであって、それはこの天地万物を創造された方であり、それを保っておられる方、また生きとし生けるものすべてにいのちを与えてくださった方であり、罪の中にあえぎ苦しんでいる人類を救われる方なのです。

そしてここには、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです、とあります。この神の御許に行くことができるための仲介者も唯一であるということです。それは人として来られたキリスト・イエスです。キリストは100%神であり、100%人間であられたので、この方だけが私たちと神様との架け橋となることができたのです。神と人との間をつなげることができるのは、100%神であり、100%人間であられたイエス様以外にはいません。イエスのような仲介者は他にはいないのです。他にこのような救い主はいません。この世界にはたくさんの偉人と言われる人や聖人と言われる人がいますが、この方のような救い主は他にはいないのです。仏陀にしても、孔子にしても、釈迦にしても、ムハンマドにしても、ソクラテスにしても、確かに彼らは偉人、聖人の部類に入る人たちだったかもしれませんが、彼らはただの人間にすぎませんでした。死んで、葬られて、それで終わりです。でもキリストは違います。キリストは死んで、三日目によみがえりました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。キリストは100%神なので、死の力を打ち破ることができたからです。

イエスは神でありながら人の姿をとられました。それは、私たち人間を救うためです。人を救うためには、人にならなければならなかったのです。それが人として来られたキリスト・イエスという意味です。でもイエス様は一つも罪を犯しませんでした。神が罪を犯すことなどないからです。その代わりに、イエス様は私たちの罪を負って十字架で死んでくださいました。そして葬られて、三日目によみがえられました。また、天に昇って行かれました。このような仲介者は他にはいません。他にこのような救い主はいないのです。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。イエスを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。イエスだけが唯一無比の仲介者なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この方以外には、だれによっても救いありません。私たちが救われるべき名として与えられているのはこの名、イエス・キリストだけであって、他にはいないのです。このイエスを信じるなら、だれでも救われます。どんな人も救いに漏れることはありません。

ではこの方はどのように救ってくださったのでしょうか。そのために何をしてくださったのでしょうか。6節にはこうあります。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」

「贖い」とは「代価を払って買い取る」という意味です。ですから、「贖いの代価」とは、身売りして奴隷となった人を買い取るために支払われる代価のことです。いわゆる身代金のことです。神は罪の奴隷であった私たちを買い取るために、キリストのいのちという代価を払ってくださいました。その代価によって私たちは自由にしていただけたのです。すべての人は生まれながら罪の奴隷であり、それゆえ、不自由で、良心の呵責に悩み、不安と恐れの中に生きなければならない者でしたが、そこから解放するためのイエス・キリストという方のいのちを、身代金を支払ってくださったというのです。キリストが十字架で死なれたというのは、私たちのすべてが自分の罪のために受けなければならなかった律法ののろいを、キリストが代わりに受けてくださったということなのです。というのは、律法には、「木にかけられた者はすべてのろわれたものであると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

Ⅰヨハネ2章2節を開いてください。ここには、「この方こそ、私たちの罪のための―私たちの罪だけでなく、世全体のための―なだめの供え物です。」とあります。この方は私たちクリスチャンたちだけの罪のためではなく、全世界のための、なだめの供え物として十字架にかかって死んでくださったのです。キリスト教徒のためだけでなく、イスラム教徒のためにも、またユダヤ教徒のためにも、ヒンズー教徒も、仏教徒も、神道の人のためにも、さらには創価学会や幸福の科学、おうかんみち、立正佼成会といった人たちのためにも死んでくださったのです。すべての人のための贖いの代価として、ご自身をお与えになられたのです。

だから、すべての人がイエスの救いの恵みにあずかることができます。なぜなら、イエスはすべての人の贖いの代価として死んでくださったからです。でもすべての人が救われるわけではありません。なぜなら、中には「いりません」とか、「結構です」「間にあっています」という人がおられるからです。あるいは、信じたいけど、信じたら大変でしょ、毎週教会に行かなければならないし、組織にがんじがらめにされると、心配される方がいます。どうですか、皆さん、信じたら毎週教会にいかなければならないのでしょうか。いいえ、違います。そうではなく、信じたら行きたくて、行きたくてしょうがなくなるのです。神の御霊である聖霊を受けると、神ってもっと知りたいと思うようになるのです。週に一回では物足りない。もう毎日でも行きたくなるのです。そうでしょ。アーメン。だから、そういう心配は必要ないのです。すべての人のための贖いの代価として死なれたイエスを、救い主として信じて受け入れればいいのです。そうすれば、あなたも救われ、真理について知るようになります。神は、すべての人が救われてほしいと願っておられるのであって、この救いはあなたにも差し出されているのです。

7節でパウロは、「そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ・・教師とされました。」と言っています。宣伝者とは、王の命令を忠実に、正確に伝える人のことです。それから「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは若き伝道者テモテに、あなたもまたこのすばらしい福音を伝えるために神によって遣わされているんですよ、ということを思い起こさせています。それは人を永遠の滅びから永遠の救いへと導くすばらしい知らせです。そのような尊い務めがゆだねられているのです。それは本当にすばらしい務めではないでしょうか。

そして、その務めに私たちも任じられているのです。私たちも宣伝者、使徒として、教師として遣わされているのです。それはまことに光栄なことではないでしょうか。ですから、私たちはいつもこの遣わされているということを覚え、その遣わされた先々で、このすばらしい恵みの福音を証する者でありたいと思います。あなたが遣わされている家庭や学校、職場、地域社会のすべては、神よって遣わされているのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そのハートをハートとして、その遣わされたところで福音のすばらしさを証していく者でありたいと思います。