Ⅰテモテ4章1~6節「りっぱな奉仕者」

きょうは、Ⅰテモテ4章のみことばから「りっぱな奉仕者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、教会が守るべきメッセージについて、2章と3章では、教会のメンバーとしてどうあるべきなのかについて語ってきたパウロは、4章においては、りっぱな奉仕者とはどのような奉仕者なのかについて語ります。「奉仕者」と訳されていることばは「ミニスター」で、一般には聖職者とか教役者、牧会者のことを指していますが、これはもともと「仕える者」のことで、主の働きに召されている人のことを指しています。そういう意味では、クリスチャンはみなミニストリーに召されているので、すべてのクリスチャンに対して語られていると言ってもいいでしょう。

Ⅰ.信仰から離れるようになる(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」とあります。

「しかし」というのは、3章16節で語られた内容を受けての「しかし」です。そこでは敬虔の奥義について語られていました。それは一言で言うなら、それはイエス・キリストの福音でした。最初から最後まで、徹頭徹尾イエス・キリストです。これがキリスト教です。キリスト教とはキリストです。キリスト教信仰とはキリストです。そして、私たちが宣べ伝えるべき内容はイエス・キリストであって、それ以外のメッセージはありません。これが敬虔の奥義であり、いくら強調しても、強調しすぎることはありません。「しかし」です。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」

「御霊が明らかに言われるように」とは、御霊が書かれたこの聖書で明らかに言われているようにということです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。その聖書が繰り返し、繰り返し、後の時代になると、どういうことが起こるのかを告げています。それは、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心奪われて、信仰から離れるようになるということです。それはこのテモテへの手紙だけでなく、他のパウロの書簡でも、またヨハネの書簡でも、またペテロの書簡、ヤコブの書簡でも言及されていることです。聖書はすべて、神の霊感によるものなので、だれが書いても同じことを語っているのです。勿論、それはイエス様も語っておられることです。マタイの福音書24書を開いてみましょう。ここには世の終わりになると戦争があったり、ききんがあったり、いろいろな自然災害、天変地異が起こると言われていますが、その中で最も顕著なしるしは、これではないかと思います。12節です。

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

「不法」というのは、神のみことばに反することです。神のみことばに反するので、多く人たちの愛は冷たくなります。これがパウロの言葉では、「信仰から離れる」と表現されているわけです。世の終わりになると、神のみことばに反するようなことを教えたり、また、反聖書的な神学、教理がはびこるので、多くの人たちの神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も、失われていくたましいに対する愛も冷めてしまうというのです。いったいなぜ神様に対する愛が冷めてしまうのでしょうか。それは不法がはびこるからです。聖書のことばに反するようなことを言ったり、教えたりするのからです。神のみことばから離れると、愛が冷えてくるのです。信仰から離れるようになるのです。「聖書なんて、そんなに熱心に学ばなくてもいいじゃないですか。」「教会にそんなに足しげく通う必要なんてないですよ。」「好きな時に行くだけで十分です。」「今はインターネットもありますから、いつでも好きな時に、好きなメッセージを聞けばいいんです」教会に対する愛も覚めてきます。これは世の終わりのしるしなんです。不法がはびこるので、多くの人たちの愛が冷たくなるのです。今はまさにそのような時代ではないでしょうか。刻一刻と世の終わりに近づいているのです。

この「信仰から離れるようになります」の「信仰」には定冠詞がついています。定冠詞というのは、英語で言うところの「The」です。その信仰です。その信仰とはどの信仰かというと、文脈を見ておわかりのように3章16節の信仰です。キリスト教信仰のことです。その信仰から離れるようになるのです。ただ不信仰に陥るとかということではありません。キリスト教信仰そのものから離れるようになるのです。これは救いから離れていくようになるということです。つまり、救いを失うようになるということなのです。ですから、この信仰から離れるというのは、非常に重いことです。ただ誤解がないように整理しておきたいと思いますが、クリスチャンが救いを失うことは決してありません。これはヨハネの福音書10章28節、29節のイエス様のことばを読めば明らかなことです。一度キリストに捕えられた者は、その救いを失うことは絶対にありません。ヨハネの福音書にはこうあります。

「28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

「永遠のいちの」とは言い換えると「救い」のことです。イエス様は彼らに救いを与えます。だれもイエスの御手の中から彼らを奪い去るようなことはありません。イエスばかりでなく、父なる神からもあなたを奪い去るようなことはできません。あなたはイエスと父なる神の両方の手によってしっかりとガードされ、守られているのです。だれもそこからあなたを奪い去ることはできないのです。これ以上安全なところはありません。救いは絶対保障、完全保障なのです。

他にも、ローマ書8章1節で、パウロはこう言っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

言い換えれば、クリスチャンが、再び永遠の滅びに定められるようなことは絶対にないということです。キリスト・イエスのうちにあるならば、本当の意味でクリスチャンであるならば、地獄に行くようなことは絶対にないのです。その刑罰は、イエス・キリストが二千年前に十字架の上で肩代わりしてくださったからです。すべての贖いは完了済みなのです。

これは絶対に外せないところです。ある人たちはクリスチャンでも救いを失うことがあると言う人もいますが、それは違います。聖書が教えていることは、救いは絶対に失われることはないのです。これが聖書の教えです。

その一方で、同時に聖書はこうも言っているのです。ある人たちは、その信仰から離れるようになる・・・と。どういうことですか?ここでは離れることもあり得る、と言っているのです。ちょっと矛盾しているかのように感じるところですが、その違いをしっかりと区分けして解する必要があるかと思います。

こういうことです。クリスチャンは絶対に救いを失うことはありませんが、しかし、その一方でクリスチャンは救いから離れることがあり得るということです。それは、私たち人間がロボットように造られたからではないからです。私たちは自由意志を持つ者として造られました。自由意思を持つ者というのは、自由に神を賛美し、喜び、ほめたたえることができるということです。逆に言うなら、自由に神から離れることもできるということです。仮に私たちがもうキリストの手の中にはいたくない、神の手の中に収まりたくない、私は自由に生きたいと思うなら、神から離れることができるのです。その人は実際に離れることができるのです。神様は、無理矢理に私たちをご自身の手の中にとどめておくようなことはなさらないのです。私たちの意志をもって神を愛し、神をほめたたえ、神に従うことを望んでおられるのです。ですから私たちは、自分の自由な意思によって神を信じることも、信じないこともできるのです。自由意思によって天国に行くことも選べるし、地獄に行くことも選べるのです。

ただ私は、個人的に思うのは、もしそのように思う人があるとしたら、すなわち、信仰から離れたいと思うようなことがあるとしたら、その人は本当の意味で救われていなかったのではないかということです。本当に救われていたなら、あるいは、本当に神の恵みを味わっていたのなら、この神の愛から離れたいなんてだれも思わないからです。そう思うとしたら、最初から信じていなかったのではないかと思うのです。わかりません。ただ聖書が告げていることは、そういう事実があるということです。クリスチャンは救いを失うことはないし、その一方で、その救いから離れることもあるということを教えているのです。

ヘブル3章12節にもこう書いてあります。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

「兄弟たち」とは、もちろん、クリスチャンたちのことです。ヘブル人クリスチャンたちに語っているのです。「あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」と。この「離れる」ということばはⅠテモテ4章1節で使われている「離れる」と全く同じ原語が使われています。気を付けるように。生ける神から離れるということがないように。こういうことがクリスチャンたちの間でもあり得るからです。そういう事実を事実として受け止めながら、そういうことがないように気を付けるようにと勧められているのです。

でも、仮にその人が信仰から離れることがあったとしても、それですべてがだめになってしまうわけではありません。そういう人でももう一度やり直すことができます。何度でもやり直すことができるのです。正しいキリストの福音を聞き、悔い改めて、イエスを救い主と信じればいいのです。そうすれば、救われるのです。

「私はただクリスチャンのふりをしていただけです。口先だけの信仰でした。心を込めて、意味がわかっていたわけではありません。何となく雰囲気に呑まれて、何となく人から勧められて、プレッシャーになって、感情的になって、人間的な思いでイエス様を信じますとは言ったけれど、よく考えてみたら、自分は全くイエス様のことがわかっていませんでした。救いについてわかりませんでした。イエス様と生きた関係もありませんでした。ごめんなさい。いま、あなたの救いかわかりました。私はいま、あなたを私の罪からの救い主として、私の人生の主として迎えます。どうか、あなたの喜ばれる者に変えてください。」

そう言って、イエス様を信じればいいのです。そうすれば、確かな救いを受けることができるのです。そう気づいたならば遅くはありません。もう一度やり直すことができるのです。もう一度真剣に神の前に自らの罪を悔い改め、そして神に立ち返って、イエス・キリストを信じればいいのです。やり直しはできるのです。ですから、仮に信仰から離れたとしても、もう一度信仰に戻ってくることができるのです。一度信仰から離れたらもう二度と救われないとか、そういういい加減なクリスチャンは救われないということはないのです。

このように、世の終わりになると、信仰から離れる人たちが起こることをパウロは警告しています。それは御霊が明らかに言われることなのです。だから、霊だからと言って、みな信じてはいけません。それが惑わしの霊や悪霊の教えによるものではないかどうか、みことばによって吟味しなければなりません。そして、惑わされることがないように、この信仰にしっかりととどまっていなければならないのです。

Ⅱ.うそつきどもの偽善(2-5)

では、悪魔はどのように惑わしてくるのでしょうか。次に2節から5節までをご覧ください。ここには惑わしの方法が記されてあります。

「2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、3 結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」

それは、うそつきどもの偽善によるものです。惑わす霊と悪霊の教えの特徴は、「偽り」にあります。悪魔は偽りの父であり、悪魔から真実を聞くことはありません。悪魔は偽教師を用いてそのわざを進めるのです。その偽教師について、ここでは二つの特徴があげられています。一つは、彼らの良心が麻痺しているということ、そしてもう一つのことは、彼らは禁欲主義的な傾向を持っているということです。

まず、良心が麻痺していることについてですが、この麻痺しているという言葉は、アイロンで自分のからだをやけどさせ、焦がしてしまい、ついには無感覚になってしまう状態のことを指しています。これが、良心が麻痺するという言葉です。パウロは、このテモテへの手紙の中で、「良心」という言葉をたくさん用いています。たとえば、1章5節では、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」とあります。また、1章19節にも、「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」と言っています。この良心が麻痺してしまうほど、つまり罪の意識を感じないほどに、平気で嘘をつくのです。いくら聖書の御言葉に「こう書いてあります」と言っても、「それで」とか、「それがどうしたんですか」、「みんながやっていることじゃないですか」、「おかしいのはあなたです」なんて開き直ったりするのです。聖書の御言葉を聞いても良心が痛むことがありません。それが罪だということもわからないのです。

偽りの教師たちのもう一つの特徴は、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりすることです。これは律法主義、または禁欲主義と呼ばれるものです。これらはすべて惑わしの霊によるもの、悪霊の教えによるもの、または、パウロはこのⅠテモテの冒頭で「違った教えを説いたり」と言っていますが、本来のキリストの教えとは違った教えのことです。その背景にはグノーシス主義とか、ユダヤ主義といった異端がはびこっていました。グノーシス主義とは霊肉二元論で、「すべて肉体的、物質的なものは悪であり、霊的、精神的なものが善いものである」という教えです。したがって、結婚は肉体的なものですから悪いものとされ、結婚することを禁じたりしたのです。食べ物も物質的なものですから悪いものであると、食物を断つことを禁じたりしたのです。

ここからローマ・カトリック教会では、聖職者の独身性というものを強調するようになりました。司祭やシスターなど神に仕える者は聖くなければならないと、独身であることが求められたのです。独身でないと司祭になれません。結婚していると司祭にはなれないのです。それは肉であり、世俗的なことだからです。祭司やシスターなど神に仕える者たちはそうした世俗的なことから離れ、ただ神だけを求めなければならないし、それが聖いことだと考えられるようになったのです。

しかし、そこには一つの矛盾があります。というのは、このローマ・カトリック教会の最初の教皇であったペテロは、皮肉にも結婚していたことです。ローマ・カトリック教会では、初代法王をペテロにおいているのに、そのペテロは結婚していました。何という矛盾でしょうか。ですから、そうしたローマ・カトリック教会の教えの中にも、こうしたグノーシス主義の名残というか、そういう考え方が入り込んでいたのであって、それはもともとの聖書の教えではありません。聖書では、そもそも結婚を禁じてはいないのです。結婚は神の創造の初めに神が立てられた制度であり、それは祝福されたもの、聖なるものなのです。それを禁じるということは、まさに惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。勿論、だからと言って結婚しなければならないというものでもありません。結婚するのは神のためであり、しないのも神のためです。私たちは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現すためにするのです。したがって、結婚に関して言うならば、それはしてもいいし、しなくてもいい、ということです。それを禁じることは、聖書とは違った惑わす霊と悪霊の教えによるものになのです。

しばらく前に統一協会の合同結婚式が話題なりましたが、あれも問題です。確かに合同結婚式では結婚を禁じているわけではありませんが、教団の思惑でまだ一度も会ったことがない人が結婚させられるのですから・・。結婚を禁じているのではなく、無理やり結婚させるのも問題です。

それからもう一つの食物を断つことについでですが、ここにもユダヤ主義的な影響が強く見られます。ユダヤ主義というのは、クリスチャンになっても旧約聖書の律法を守らなければ救われないという教えです。その中心がこうした食べ物の規定であったわけです。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られたものです。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。それは、神のことばと祈り、すなわち、信仰によって感謝して受けるとき、すべては聖められるからです。それなのに、いったいなぜ食物を断たなければならないのでしょうか。もし、健康のために断つというのならわかります。食べ過ぎてメタボにならないように、少しどころか、かなりセーブしなければならない時もあるでしょう。あるいは、祈りのために一時的に断つというのもわかります。イエス様も、「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ17:21)と言って、断食して祈ることの重要性を教えられました。しかし、それ以外に、食物を断たなければならない理由はありません。旧約聖書のレビ記にそう書いてあるではないですか?レビ記には数々の食物に関する規定が書かれてあるのは確かです。しかし、それは次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。コロサイ書2章16,17節をお開きください。ここに何と書いてありますか。こうあります。

「16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16-17)

皆さん、本体はキリストにあるのです。旧約聖書にある律法の規定は影にすぎません。その影を必至に追い求め、本体を見失うことがあるとしたら、それこそ本末転倒です。律法の目的であるキリストが、旧約聖書の目的であるキリストが何と言っておられるのかということが重要なことです。そのキリストが、神が造られた物はみな良い物で。感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません、と言っているのです。いいえ、これはパウロのことばであってキリストのことばではありませんと言う方がいらっしゃるかもしれませんが、パウロはキリストのことばをここで語っているのです。イエス様は、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15)と言われ、すべての食物をきよいとされました。それゆえ、食物を断つことを禁じてはいけないのです。もし禁じることがあるとしたらそれは聖書とは違った教えであり、惑わしの霊、悪霊の教えなのです。

キリスト教の異端とされているモルモン教では、食べ物について細かな規定があります。コーヒー、紅茶、緑茶など、カフェインの入っている飲み物は全部だめです。もちろん、アルコールもご法度です。それは不健康をもたらし、霊的にも聖くなることができないと考えているからです。また、モルモン教では通常、月の初めの日曜日が断食の日に設定されていて、2食を断つことが推奨されています。その断食によって節約されたお金で困っている人を助けるというのです。その目的自体はすばらしいものですが、それが個人の信仰によってではなく、教団の教えによって強いられてやっているとしたら問題です。なぜなら、聖書では、食物を断つことを禁じてはならないと命じられているからです。もしそのように命じることがあるとしたら、それは偽りの教え、惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。

私たちが義と認められるのはイエス・キリストを信じる信仰によってのみであって、その他のどんな宗教的な行為も、どんな行いも義とすることはできないのです。私たちを救い、私たちをご自身と同じ姿に変えてくれるのはキリストのみであって、それは御霊なる主の働きによるものなのです。私たちの行いによるのではありません。ですから、私たちはいつも「この信仰」から離れることがないように注意しなければならないのです。

Ⅲ.これらのことを教えるなら(6)

第三のことは、これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になることができるということです。6節をご覧ください。

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。」

「これらのこと」とは、1節から5節までのところでパウロが語ってきた内容のことです。すなわち、後の時代になるとどのようなことが起こるのか、そこには惑わす霊と悪霊の教えが蔓延するようになるのでそれをよく判別し、聖書が教えている正しい教えとはどのようなものなのかを教えるなら、ということです。これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはりっぱな奉仕者になることができるのです。よい奉仕者とは、これらのことをよく教える人です。その信仰から離れることがないように、イエス・キリストのことをよく教える奉仕者のことなのです。イエス・キリストのことはそっちのけで全く言及しないというのでは、りっぱな奉仕になることはできません。

なぜなら、信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばによって養われているからです。信仰のことばと、テモテが従って来た教えのことばとは同じものを指していますが、パウロはここでそれをあえて強調してこのように言っています。信仰から出てないことば、つまり、聖書に書かれていないようなことば、そして、テモテがこれまで聞いたこともないような奇抜な教えは、惑わしの霊、悪霊の教えによるものであって、そういう教えは退け、この聖書のことば、昔からずっと教えられてことば、すべての教会が伝統的に守ってきた教えにしっかりととどまるように、そのことによって信仰が養われていくからです。何かこの世で流行っているから、人々がもてはやしているからといったものに目移りして、そういったものに飛びついたりしてはいけないのです。古いと言われようと、時代遅れだと言われようと、時代錯誤だと言われようと、同性愛がいまどき罪だなんてアホじゃないかと言われようとも、それでも、この信仰のことば、テモテがずっと従ってきた聖書の御言葉に立ち、これを教えなければならないのです。それによって私たちの信仰が養われていくからです。それ以外は惑わしの霊によるものであって、信仰から離れていくようになるのです。愛が冷えて、自分を愛するようになり、神から離れるようになるのです。ですから、私たちはこれらのことを教えなければなりません。教えるとは思い起こさせるという言葉ですが、何度も何度も繰り返し、繰り返し語って、思い起こさせなければなりません。そのような奉仕者こそ良いミニスター、りっぱな奉仕者なのです。

このように見て来ると、教会の牧会者の務めが何であるかが見えてきます。それは、これらのことを教えることです。これが教会の牧会者にとって最も重要な務めなのです。日本ではどちらかというと、教会のこまごまとしたことから、事務的なこと、教会員のケア、食べ物も飲み物に関することまで何でもする牧師が良い牧師であるかのように思われがちですが、聖書で言うところの良いミニスターとそうではありません。

使徒の働き6章には、最初の教会に起こった問題を対処するために御霊と知恵に満ちた7人の執事が選ばれたことが記録されています。ギリシャ語を使うユダヤ人たちがヘブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。食べ物の恨みは恐ろしいのです。たかが食べ物のことで・・・と思うかもしれませんが、食べ物のこと、飲み物のことは以外と重要なのです。

しかし、12人の弟子たちがこうした問題に関わっていたら、彼らがしなければならない大切なことがなおざりにされてしまいます。そりは祈りとみことばです。それで初代教会は、彼らが祈りとみことばの奉仕に専念するために、彼らにこの問題7人の解決をゆだねたのでした。もし彼らがこれらのことに振り回されて最も重要な奉仕ができなくなってしまったら、それは教会にとって不幸なことなのです。

りっぱな奉仕者とは、祈りとみことばに専念し、これらのことを教える奉仕者です。私たちはいつもみことばから教えられ、惑わしの霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れることがないように、みことばによって養われ、整えられていくことを求めていきたいと思います。