民数記16章

きょうは民数記16章から学びます。私たちは前回、イスラエルがカデシュ・ベルネアまで来たとき、「上って行って、そこを占領せよ」との主の御言葉に背き、上って行かなかった姿を見ました。不信仰のゆえに、恐れてしまったからです。その結果、二十歳以上の者はみな荒野の中で死ぬことになってしまいました。そして、イスラエルが40年にわたる荒野での生活を始めようとしていたとき、もう一つの大きな事件が起こりました。

1.  コラの子たちの反抗(1-3)

「1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

まず1節から3節までをご覧ください。ここには、レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラが、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かいました。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と言ったのです。

いったいなぜ彼らはそのように言ったのでしょうか。レビの氏族には三つの氏族がいました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。ここで問題になっているのはケハテの子、イツハルの子のコラという人物です。彼はルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ者250人とともに、モーセに立ち向かったのです。

ケハテ族は、他の二つの氏族に比べ、もっと聖なる奉仕に携わっていました。ゲルション族は幕を運搬する奉仕が与えられ、メラリ族は板とか、土台、柱、横棒などを運搬しました。それに対してケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇などを、幕屋の聖具を運ぶ最も聖なる奉仕に召されていました。ですから、ケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中でも最も主のご栄光に近いところで奉仕する特権が与えられていたのです。それなのに、彼らは主の幕屋で奉仕することが許されていませんでした。幕屋で奉仕するのは祭司だけであって、祭司だけが聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげることができたのです。それゆえ彼らは祭司たちをねたみました。なぜアロンの家系だけがそのような特権が与えられているのか、なぜ自分たちにはそれができないのか・・・。それを間近で見ていたコラは、自分にもこの務めを行う権利があるものと思ったのです。

しかも、その理由がもっともらしいのです。彼らは、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言っています。あなただけが特別なのではない、主にとってはここにいるみんなが同じように大切なのであって、あなたたちが、主の集会の上に立っているのはおかしいというのです。皆さん、どうでしょうか。もっともらしい意見ではないでしょうか。私たちの教会はバプテストの教理に立っていますが、その一つの特徴は会衆性にあります。会衆性とは、教会政治が牧師や長老によって決められるのではなく会衆みんなの総意によって決められるべきであるというものです。牧師も会衆と同じ立場であって、特別に権力があるのではないという考えです。ここでコラたちが言っていることはそういうことです。彼らは自分たちが支配したいというねたみによって突き動かされていたのに、そのようなことを理由にあたかもそれが正当であるかのように言いました。

ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀したのも、さらには二百五十人の有力者たちが共に立ち上がったのも、本質的には同じ理由からでしょう。ルベン族はヤコブの長男だったので、自らが第一の者であるという自負があったものと考えられます。また、二百五十人の有力者たちも、彼らが人々に認められているという自負があったので、モーセとアロンに立ち向かったのでしょう。

また、そこには、イスラエルが荒野を四十年間放浪しなければならなくなったということも、その大きな要因の一つであったと思います。人は物事が順調に進んでいる時はこうした肉の思いが抑えられがちですがいざ苦難や困難に直面すると、不満や反抗という形ですぐに表に現れてくるのです。彼らにとって必要だったのはそのような状況にあっても不平や不満をぶちまけることではなく、力強い主の御手にへりくだることでした。Ⅰペテロ5:6には、こうあります。「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」

2.慎み深い考え方をしなさい(4-11)

それに対してモーセはどうしたでしょうか。4節から7節までをご覧ください。

「4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、7 あす、の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

モーセはこれを聞いて、主の前にひれ伏しました。彼は、このようなことも主の許しの中に起こっていることを認め、主がこの問題を解決してくださるように祈り求めたのです。そして、コラとそのすべての仲間とに、主は、だれを選ばれ、ご自分に近づけられるのかを知るために、火皿を取って、その中に火を入れ、その上に香を盛るようにと言いました。

火皿とは、神の前で香をたく際に、燃える炭火を入れる特別な道具です。祭司だけが祭壇で香をたくことができました。祭司でない者が香をたいたり、祭司が規定に反して香をたいたりすると、だれであれ死罪とされました。ですから、もし生き残ることができれば神に選ばれた物であるということです(レビ10:1-2)。

モーセはさらにコラに言いました。8節から11節までをご覧ください。

「8レビの子たちよ。よく聞きなさい。16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

これはどういうことかというと、コラは、レビ族として荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役割を担っていました。特にケハテ族は、聖所の中の用具を運搬するということで、他のレビ族の氏族よりも、さらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていたのです。それなのに、コラはそれで満足することができず、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕までを要求したのです。それは分を越えていることでした。モーセが分を越えていたのではなく、コラたちが分を越えていたのです。

ローマ12章3節には、「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。神はご自身のみからだてある教会を建て上げるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それは一方的な神の恵みによるのであって、神がそのようにお選びになられたのです。モーセがイスラエルの上に立って指導したかったのではなく、神が彼をその働きに召し、賜物を与えてくださったのです。そのモーセに反抗するということは、それは神に対する反抗でもあるのです。ですから、ここでコラたちがモーセに、「あなたがたは分を越えている」と言ったのは、このことを全く理解していないからであり、神が定めた秩序を無視したことだったのです。神が定めた秩序とは人間主体の民主主義ではなく、神が恵みによって与えられた賜物にしたがって、慎み深い考え方をすることなのです。

3.神のさばき(12-19)

「12 モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。13 あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」15 モーセは激しく怒った。そしてに申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」16 それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、の前に出なさい。17 あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおのの前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。18 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。19 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、の栄光が全会衆に現れた。」

モーセは使いをやって、ダタンとアビラムを呼び寄せようとしましたが、彼らの答えはノーでした。その理由は何でしょうか。モーセが自分たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、この荒野で死なせようとしたということです。あれっ、乳と蜜の流れる地とは神が約束されたカナンの地のことなのに、彼らはここでかつて自分たちが住んでいたエジプトのことを、そのように言っているのです。また、「それでも不足があるのか」という言葉も、先ほどモーセが、コラに対して言った言葉をもじっています。さらに、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、とモーセたちの失敗をあげつらっています。

それでモーセは激しく怒り、彼らのささげものを顧みないようにと、主に申し上げました。そして、コラに言いました。コラとその仲間たち、そしてアロンとは、明日、主の前に出るように・・・と。するとコラたちは、おのおの火皿を取り、それに火に入れて、その上に香を盛りました。そしてイスラエルの全会衆を会見の天幕の入り口に集めて、ふたりに逆らわせようとしたのです。

それに対して、主はどのようにされたでしょうか。20節から24節までをご覧ください。

「20 はモーセとアロンに告げて仰せられた。21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」22 ふたりひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」23 はモーセに告げて仰せられた。24 「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」

主はモーセに、この民から離れるようにと言われました。彼らをたちどころに滅ぼされるからです。モーセが怒っている以上に、主がお怒りになっておられました。そして、主はそのような反逆の民を滅ぼそうとされたのです。

するとモーセとアロンはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

何と、彼らは、イスラエルのためにとりなして祈りました。ここまで反抗する民のためにとりなすこと人間的にはなかなかできないことですが、モーセは地上のだれにもまさって謙遜な人でした。そのような中にあっても冷静に、あわれみの心をもって主にとりなしたのです。

すると主は、「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」と言って、会衆を滅ぼさないようにされたのです。しかし、そのようにモーセに反抗し会衆を扇動したダタンとアビラムに対しては、きびしいことばを語りました。25節から35節です。

「25 モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、26 そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。」モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのはであって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのはではない。30 しかし、もしがこれまでにないことを行われて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちがを侮ったことを知らなければならない。」31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。33 彼らとすべて彼に属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。34 このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからである。35 また、のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。」

モーセは、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、まず会衆に、彼らから離れるように告げると、これが自分の考えによるのではなく、主が遣わして、これらのことをさせたのであることを示すために、地がその口を開いて、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとく呑み込み、生きながらよみに下るようにさせると言いました。そして、モーセがこれらのことばを語り終えるや、彼らの下の地面が割れて、彼らとその家族、またコラに族するすべての者が、呑み込まれたのです。彼らは、生きながら、よみにくだったのです。よみとは死者の住む世界です。死んだ人が行くところなのです。ところが、そのよみに生きながら、下って行ったのです。これはおそろしいことです。

このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げました。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからです。しかし、神はあわれみ深い方です。モーセとアロンのとりなしによって、彼らが滅びないで済むようにしてくださったのです。 また、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった二百五十人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。このように神によって遣わされたモーセに反逆した彼らは、おそろしい神のさばきを受けたのです。

4.祭壇のための被金(36-40)

すると主は、モーセにつげて次のように言われました。36節から40節までをご覧ください。

「36 はモーセに告げて仰せられた。37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。38 罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らがの前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺される者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、40 イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。―がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」

新共同訳聖書では、ここから17章になっています。新共同訳聖書が、なぜここから17章にしたのかはわかりません。もともと章節は人間が便宜的に作ったものでそこに霊感が働いたわけではないので重要なことではありませんが、ここから17章にしたのには何か意図があったのではないかと思います。17章には「アロンの杖」についての言及があるので、祭壇の被いについて記されてあるここから17章にしたものと思われます。しかし、49節にはイスラエルに下った神罰に対する言及があるので、これはコラやダタンとアビラム、また、二百五十人のリーダーたちに対するさばきの続きと見た方がよいかと思います。

そしてこのところで主は、罪を犯していのちを失った者たちの火皿を取り、それを打ちたたいて、祭壇のための被金(きせがね)、これは被いのことですが、それを作るようにと言われました。何のためでしょうか。それは「しるし」のため、「記念」のためです。アロンの子孫でないほかの者たちが、主の前に近づいて煙を上らせるようなことがないために、そのようなことをして主の怒りをかい、滅びることがないようにするためです。私たちにもこのようなしるしが必要ですね。繰り返し、繰り返し主に反抗しては罪を犯す者だからです。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10:11-12)とありますが、このようなことを教訓として、倒れることがないように気を付けたいと思います。

ところで、ここには焼き尽くすささげものの祭壇がどうして青銅で覆われるようになったのかが記されてあるのです(出エジプト27:1-2,38:1-2)。それは、このコラの罪のためです。それを見て、自分たちへの戒めとするためだったのです。それはまさに私たちの罪のために焼き尽くすささげものとなられた十字架のキリストを指し示すものだったのです。キリストの十字架を見る時、私たちの罪がいかに大きいものであるかを知ります。その罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されたのです。これはそのためのしるしなのです。私たちはこのしるしを見て、キリストの贖いの恵みに感謝しつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいと願わされます。

5.さらなる神罰(41-50)

最後に41節から50節までのところを見て終わりたいと思います。

「41 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたはの民を殺した。」42 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、の栄光が現れた。43 モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、44 はモーセに告げて仰せられた。45 「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」47 アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真ん中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。49 コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。50 こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。」

これほど恐ろしい神のさばきを目の当たりにし、そのさばきを免れたイスラエルの民はさぞ感謝したかと思いきや、全く違っていました。その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいたのです。「あなたがたは主の民を殺した。」と。言い換えると、「愛がない」ということでしょうか。彼らはコラたちに同情していたのです。主の指導者たちにつぶやくことは主につぶやくことであり、そのことに対するさはぎがどれほど恐ろしいものであるかを目の当たりにしたのに、彼らはそこから学ぶことをせず、同じような過ちを犯しました。

それで、モーセとアロンが天幕の方を振り向くと、雲がそれをおおい、主の栄光が現れました。そして、モーセとアロンに、彼らから離れるようにと言われたのです。主が彼らをたちどころに滅ぼされるからです。するとモーセはひれ伏しました。そして、アロンに、彼らの罪の贖いをするようにと命じます。けれども、すでに神罰は始まっていました。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰でイスラエルの一万四千七百人が死んだのです。しかし、アロンが死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみました。これは、神と人間の間に立たれたイエス・キリストを表しています。罪のゆえに神に滅ぼされてもいたしかたない私たちのために、神は御子イエス・キリストをお遣わしくださり、私たちと神との間に立って罪の贖いをしてくださったので、神の怒り、神罰はやんだのです。

彼らはいつまでも自分の感情に流されていました。何が神のみこころなのかを知り、それに従うということよりも、たとえそれが罪であっても、自分の思いや感情に従って歩もうとしたのです。これはクリスチャンにとって陥りやすい過ちでもあります。神のみこころがどうであるかよりも、あくまでも自分の考えや思いを優先するのです。自分が滅ぼされるまで、自分の肉に従って生きようとするのです。その結果は、このように滅びる以外はありません。私たちは自分の感情がどうであれ、神のみこころが何であるかを知り、それに従うことが求められます。それが信仰の歩みなのです。