Ⅰテモテ4章7~16節「敬虔のための鍛錬」

先週は、世の終わりが近づくとどういうことが起こるかを学びました。世の終わりが近づくと、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。だから、そういうことがないように正しい聖書の教えを教えなければなりません。これらのことを教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者です。りっぱな奉仕者とは神のみことばを教える人、また、このみことばを教えることができるように整える人のことなのです。

きょうの箇所はその続きです。ここには、ただ教えるだけでなくそれを実行することの大切さが語られています。それが敬虔のための鍛錬です。鍛錬というのは訓練とか、トレーニングということですね。敬虔のための鍛錬、すなわち、神を敬い、神を恐れるといった霊的、信仰のための鍛錬ということです。

Ⅰ.敬虔のために鍛錬しなさい(7-11)

まず、7節から11節までをご覧ください。7節をお読みします。「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。」

「俗悪で愚にもつかぬ空想話」とは何でしょうか。新改訳聖書第二版では、「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。」と訳されています。第三版では「年寄女がするような」という言葉が抜けています。詳訳聖書を見ると、ここは「俗悪な、汚れた、神を知らない作り話、つまらぬおばあちゃん話やばかげた神話を避けなさい。」となっています。やはり年寄女とか、つまらぬおばあちゃん話といった内容になっています。別におばあちゃんの話がつまらないという意味ではありません。おそらくこれは2章からの流れを受けて、「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」とありましたが、そうした人たちの教えを指しているのではないかと思われます。エペソの教会にはそういう年配の婦人たちがいて、違った教えを説いたり、果てしのない空想話に花を咲かせていたようです。彼らの話は神を知らない不敬虔な作り話でした。こくこくと話をするのはいいのですが、何を言っているのかさっぱりわからない。それはまるで空想話のようだったのです。そういう話を避けなさいというのです。

Ⅱテモテ4章を見ると、世の終わりになると、そういう話が蔓延するようになるとパウロは警告しています。4章1節から5節です。

「1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

世の終わりになると、空想話にそれていくようになるのです。自分に都合の良いことを言ってもらうために、自分の考えに合ったことを言ってもらうために、そういう教師たちを捜しては、教会を渡り歩くようになるというのです。「聖書はこう言っている」と言われるのが嫌で、自分たちに都合のいいことを言ってもらえる教師を捜し歩くのです。それでも見つからないと、じゃ、自分たちで教会を作っちゃおうと、そこにスピーカーを呼んで集会まで始めちゃうのです。家の教会だとか言って…。これは世の終わりのしるしです。自分に都合のいいことを言ってもらおうと、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくようになっているからです。

もしかすると、これはエペソの教会に蔓延していた異教的な習慣に汚染された教えのことだったのかもしれません。エペソには豊穣の女神アルテミスを祭った神殿、アルテミスの神殿がありましたが、そうした異教的な教えによって神の教えが汚されていたということがあったのかもしれません。いずれにせよ、そうした俗悪で、愚にもつかぬ空想話を避けるように、そして、むしろ、敬虔のために自分を鍛錬するようにと命じたのです。

敬虔のために鍛錬するとはどういうことでしょうか。敬虔とは神を敬うということですが、言い換えると、信仰のため、霊的なことのためにということです。信仰のため、自分の霊のために鍛錬するようにと勧めたのです。なぜでしょうか。8節をご覧ください。8節にはこうあります。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」

皆さん、肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。もっと、もっと有益です。それは比べものにならないくらいの、計り知れない益をもたらすのです。

2015年2月10日、米国心臓病学会誌(Journal of the American College of Cardiology:JACC)で報告された、デンマークのコペンハーゲンの研究者らによると、「『軽い、適度』なジョギングが座りがちの生活や『過度』なジョギングをするよりも、長生きにつながる」という研究報告を発表しました。つまり週に2~3回、1回30分くらいのゆっくりとしたペースの軽いジョギングか、もしくは適度な運動をする人の死亡率が低いというのです。また、激しいジョギングをする人の死亡リスクと、長時間座りジョギングの習慣がない人の死亡リスクが変わらないという意外な結果も示されました。運動をすれば必ずしも長生きするとは限らないというのです。運動のしすぎはかえって体に良くないというのです。軽いジョギングが健康にはいいというわけです。

しかし、最期はだれでもみな死にます。どんなに適度な運動をしても、どんなに軽いジョギングしてもみな死ぬのです。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。それは肉体の鍛錬とは比較にならないほどの益をもたらすのです。体育よりも霊育の方がはるかに重要であり、有益なのです。フィトネスクラブもいいですが、霊的トレーニングジムこそ私たちが通うべきところなのです。勿論、肉体のトレーニングジムが不要だとか、フィットネスクラブが必要ないと言っているのではありません。私も男だけのフィットネスクラブがあれば、ぜひ参加したいと思っているのですが、今のところ、そういうものがないのが残念です。肉体的にも健康体でいることは大切なことです。ご老人になっても病気やけがをしないように、80歳になっても自分の歯で食べたい、生活習慣病にならないように、食生活には気を付けるなど注意しなければならないし、いろいろな努力もしなければなりませんが、それだけでなく、その先においても、次に来る世のことも考えなければならないのです。

有名な詩篇の90篇にはこうあります。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちは飛び去るのです。」(詩篇90:10)

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうした私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

「自分の日をかぞえる」とは、自分に与えられている人生がどれほど短いものであるのかを悟り、そのいのちを握っておられるまことの神を信じて、神を恐れて生きるということです。つまり、敬虔のために自分を鍛錬するということなのです。

C.S.ルイスは、「永遠に続かないものはみな、役に立たないものである。」と言いました。言い換えるとそれは、永遠に続くものこそ価値があるということです。

皆さん、私たちは永遠に続かないもののために、あまりにも時間と労力を使いすぎてはいないでしょうか。肉体の鍛錬のために、今の生活をもっと向上させることのために、もっと老後を楽に過ごせるために、何一つ不自由のない生活をするために身を粉にして必死で働いても、敬虔のためにどれだけ鍛錬しているでしょうか。それ自体が悪いということではなく、それと同時に、いやそれ以上にやらなくてはならないことがあるということです。それはあなたに大きな益をもたらすものなのです。

9節をご覧ください。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに価することばです。」これはパウロの常套句です。1章15節でも使われています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」ここでも、「肉体の鍛錬もいくらか有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばであると言っているのです。皆さん「アーメン」でしょうか。それとも、首をかしげながら「う~ん」とうなりながら、「私にはちょっと受け入れがたいなぁ」と言うでしょうか。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばなのです。アーメンと言って、そのまま受け入れましょう。そして、聖書が教える未来のいのちを大切にしながら、天国に向かって進む者でありたいと願わされます。

10節をご覧ください。「私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」

なぜパウロはこのことをアーメンと言って受け入れているのでしょうか。それは、パウロはそのために労し、また苦心しているからです。「労し」というのは特に肉体的に労するという意味のことばであり、「苦心し」というのは、精神的に苦しむことを指しています。パウロが労し、また苦心しているのは、すべての人々のほんとうの救いであり、ほんとうの望みは、この救い主なる生ける神にあるからです。ここにこそ、真の希望なのです。

神が与えてくださった肉体をベストコンディションに保ち、整えることは大切なことでありますが、しかし、どんなに肉体を鍛えても人間のからだは年とともに衰えていくものです。しかし、ここに決して衰えることのないものがあります。それが神の救い、永遠のいのちなのです。この神の救いの中に主とともに生かしていただくのでなければ、たとえ五体満足であっても、肉体の健康など意味がありません。それはむなしいものにすぎないのです。敬虔のための鍛錬こそ、私たちに真のいのちと希望をもたらしてくれるものなのだということをわきまえ、このために生きる者でありたいと願わされます。

Ⅱ.信者の模範になりなさい(12-14)

第二のことは、信者の模範になりなさいということです。12節から14節までをご覧ください。12節には、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」とあります。

パウロは11節のところで、「これらのことを命じ、また教えなさい。」と言いました。命じること、教えることはだれにでもできることです。しかし、それを実行することは簡単なことではありません。しかし、本当に聖書を教えるということは、その教えたことを自らが実践して模範を示すことによってこそ説得力があるのです。イエス様は命じられたことを実践し、それを弟子たちの前に現して模範を示されました。たとえば、ヨハネの福音書13章には、イエス様が弟子たち一人一人の足を洗ったという出来事が記録されています。夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれて、弟子たちの足を洗い、その手ぬぐいでふかれたのです。いったいなぜそんなことをされたのでしょうか。それは模範を示すためです。イエス様は、自分がしたように彼らもまたするようにと、その模範を示されたのです。イエス様は単に神の御言葉を教えられただけではなく、それを実践されたのです。だから説得力があったのです。だからパウロはここでも同じようにテモテに、これらのことを命じまた教えるだけでなく、それを実践して模範を示すようにと言っているのです。それが、神の働き人が人々から尊敬と信頼を勝ち取る道でもあるからです。

ここには、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。」とあります。この時テモテが何歳くらいだったかは書いていないのでわかりませんが、長老たちがたくさんいたエペソの教会では、比較的若く、見られていたのでしょう。このような若い人が教会で霊的リーダーシップ(霊的権威)を持つということは並大抵のことではありません。こうしたものは人間的な資格や条件、あるいは身分や年齢によっては与えられるものではないからです。こうしたものは、御霊のみわざによってのみもたらされるのです。

ですから、パウロはここで、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにするために、「かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも信者の模範となりなさい。」と勧めているのです。それは生き方によって示されなければならないからです。しかもその生き方というのは、ある事柄においては模範的でも、ある事柄においてはそうではないということではなく、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも、すなわち、すべてのことにおいて信者の模範でなければならないのです。無理です!そんなことできるはずないじゃないですか。そうです、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神は、弱い私たちをご自身と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。主は栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たち自身を主にゆだね、そのような模範となれるように助けてください!と謙虚に祈り求めましょう。そうすれば、主は必ずあなたを変えてくださるのです。

それからもう一つのことは、与えられた御霊の賜物を軽んじてはならないということです。13節と14節にはこうあります。「13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」どういうことでしょうか。

「聖書の朗読と勧めと教え」とは、聖書の教えのことです。それに専念しなさいというのです。なぜなら、それはテモテに与えられた神の御霊、聖霊の賜物だからです。その賜物を軽んじてはいけません。その与えられた賜物に従って、その与えられた務めに忠実に励むとき、そうした霊的リーダーシップも自然についてくるのです。こうした霊的な権威は年齢とか立場、あるいは、学歴や社会的な身分といったものによってもたらされるものではなく、ただ自分に与えられた使命に集中し、敬虔な生き方を実践することによってのみもたらされるものなのです。

旧約の預言者エレミヤも若くして選ばれました。彼は主から次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)

「若い」ことが即、障害になるのではありません。むしろ、若いからこそできることもあるのです。若くてもキリストの大使になることができます。キリストの大使として神が遣わすどんな所へでも行き、神が命じるすべてのことを語らなければなりません。その与えられた務めを忠実に果たさなければならないのです。それは私たちを遣わしておられる方が、私たちの主なる神であられるからです。一国の大使は、たとえ年が若いからといってその権限や行動が左右されたり、制約されたりすることはありません。それと同じように、どんなに若くても神によって召され、神によって遣わされたのならば、その与えられた使命に集中し、それを忠実に果たしていかなければならないのです。そうすれば、年が若いからといって軽く見られることはないのです。

Ⅲ.これらの務めに心を砕き(15-16)

最後に、15節と16節をご覧ください。「15 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」

ここには、神の働き人が自分自身にも、教えることにも、よく気を付けなければならない、その理由が記されてあります。それは、自分自身をも、また自分から教えを聞く人たちを救うことになるからです。どういうことでしょうか?もちろん、ここで言っている「救い」とは罪からの救いのことではありません。ここで言っている救いとは、4章1節に書かれている「惑わしの霊、悪霊の教え」からの救いのことです。そうでないと、こうした教えによって信仰から離れるようになってしまうからです。敵である悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら歩き回っています。ですから、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かわなければなりません。自分自身に気を付けて、また、自分が教えていることにも気を付けて、これらの務めに心を砕かなければならないのです。

「心を砕く」とは、直訳では「留意する」とか「考慮する」、「実行する」ということです。つまり、御言葉に関する務めを、よく祈り、よく考えて、ある時は喜びながら、またある時は悲しみや痛みを覚えながら、神のみこころにそった奉仕として全うしなさいということです。神の御言葉につかえる奉仕者は、「心を砕いて」これにあたらなければなりません。そうすれば、自分自身をも、またその教えを聞く人をも救うことになるのです。そのような人こそりっぱな奉仕者なのです。

クリスチャンはいつも二つの影響を受けながら生きています。一つは神からの影響で、もう一つはこの世からの影響です。神のくださる御言葉と恵みの中でクリスチャンは強められ、キリストの兵士としてりっぱに訓練されていきます。しかし、この世からも別の影響を受けています。この世の中で耳にし、学習する俗悪で愚にもつかない空想話から悪影響を受けることもあるのです。結局、クリスチャンの敬虔さはだれから多くの影響を受けるかによって決まるのです。もちろん、神からの影響を受ければ敬虔に生きることができますが、神は私たちに無理矢理影響を及ぼそうとはなさいません。私たちの意思によって敬虔に生きるようにと願っておられるのです。救いは神がくださるものですが、救われた後の敬虔は私たちが努力して身につけていかなければならないものなのです。

この作業は簡単なことではありませんが、この作業をし続けていくなら、必ずや自分自身を救うだけでなく、他の人を救うことになります。敬虔のための鍛錬こそ、今のいのちと未来のいのちにおいて有益なものであることを覚え、そのために労ししていく者でありたいと思います。