前回は、モーセとアロンに立ち向かったコラたちに対する神のさばきと、そのことを受け入れられず、同じようにモーセに反抗したイスラエルの会衆に臨んだ神罰について学びました。きょうのところには、さらに、神が選ばれた祭司はだれであるかということを、神は別のしるしをもって現されます。まず1節から7節までをご覧ください。
1.族長たちの杖(1-7)
「1 主はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。」(1-7)
主はモーセに、イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ取り、その杖におのおの名を書いて持ってこらせ、それをあかしの箱の前に置くようにと言われました。何のためでしょうか。神が祭司としてお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。
「杖」は、かつてモーセまたアロンが、エジプトから出て行く時にエジプトに神が災いを下すときに用いられたものです。それは羊飼いの杖ではありますが、主はそれを用いてご自分の力ある働きを行なわれました。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置きます。神はその中から、ご自分が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。死んだはずの杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司であるということをはっきりと表そうとされたのです。そして、イスラエルがモーセに向かってつぶやくのを主ご自身が静めようとされたのです。それで、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡したので、モーセはそれらを、至聖所にある契約の箱の前に置きました。
2.アロンの杖(8-13)
その結果、どうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。
「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがその杖をみな、主の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」11 モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。」(8-11)
その翌日、モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。そして、モーセはそれをイスラエル人の前に示しました。これではっきりと、神の箱にまで近づくことのできる選ばれた者がアロンであることを示されたのです。ヘブル語で「アーモンド」は、「目覚める」とか「見張る」という意味の動詞と語源が同じ言葉です。主がこれを見張っている、はっきりと見つめていることも表しているのです。
死んだ木からいのちを芽生えさせる働きは、神にしかできないことです。これは、その神によって選ばれた者だけができる御業であって、人がどんなに望んでも、それなりのふりをしても、できることではないのです。形ではそのようにふるまっても、そこにいのちの実を実らせることはできません。人を永遠のいのちに導くのは主であって、主によって立てられ、主によって賜物が与えられた者によってのみなのです。
神は、死んだ杖から実を結ばせることのできるお方です。死者の中から人を復活させることができるのです。神はそれをイエス・キリストによって示してくださいました。十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせました。私たちにはこの復活のいのちが与えられており、祭司の務めはこのいのちの恵みを分け与えることなのです。
それで主は、アロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。神に反逆した者たちへの警告のしるしとして保管しておくためです。このしるしを見て、イスラエルが神に対して不平を漏らすことをなくして、彼らが死ぬことがないためです。 それに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。
3.神の恵みにお頼りして(12-13)
「12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。13 主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは、ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」(12-13)
彼らはまだ、自分たちが主の幕屋に近づくことに対する恐れを抱いています。なぜでしょうか。神の恵み、神の慈しみを理解していないからです。神が祭司を通してどのような恵みをあえてくださるのかを理解していないのです。そして、ただ神の裁きの恐ろしさだけを見て恐れているのです。彼らにとって必要なことは、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを知り、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れること、つまり、信仰を持つことなのです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人、いつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。
「15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白するなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れは締め出されるのです。そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司であられるイエス・キリストです。そして、ここでもそのために立てられていたのが大祭司アロンでした。神はイスラエルが死なくてもよいように、アロンの家とレビ人を幕屋の奉仕に立ててくださったのです。それなのに彼らはそのことに気づきませんでした。まだ自分たちの行いによって救われようとしていたのです。それで彼らは怯えていたのです。この後18章には、このアロンの家の祭司職と、レビ人の幕屋の奉仕についての定めが語られます。それは、彼らがしっかりとその務めを果たすことによって、イスラエル人が死ななくてもよいように守ってくださるためです。そして19章には、完全な赤い雌牛を罪のためのいけにえとして用意して、死体をさわった者たちのきよめが完全に行なわれます。会衆にはすでに、14,700人の死者が出ているので、その死体によって汚されている者たちが大勢いたからです。ちなみに、この完全な赤い雌牛は、宿営の外で焼かれて、その火の中に、杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を投げ入れます。これらはみな、それぞれ、私たちの主イエス・キリストの十字架の木と、罪のきよめと、血を表しています。このようにして、主は、イスラエルの民のために、徹底的にご自分の恵みとあわれみのわざを、行なわれているのです。
このように、神は私たちのために祭司の務めをしておられます。私たちはそれを受けなければならないのです。祭司の務めとは、神のあわれみと恵みを分かち合うことです。キリストが来られた今、それはすべての信者に与えられ、それぞれ信仰の量りにしたがって、賜物が与えられています。互いに仕え合うことによって、私たちは主から恵みとあわれみを受け続けることができるのです。それぞれが、どのような働きに召されているのか、どのような賜物が与えられているのかを知るのは、私たち一人一人の責任です。そして、何よりも、私たちには今、神の右の座におられる大祭司なるイエス様がいます。この方が、アロンのように、私たちと神との仲介となってくださり、神の右の座において執り成しをされておられます。このことに対し、私たちは、約束の地にはいって穀物やぶどう酒をささげるイスラエルの民のように、感謝と賛美のいけにえをおささげするのです。