Ⅰテモテ5章1-16節「教会は神の家族」

きょうは、Ⅰテモテ5章1節から16節のみことばから、「教会は神の家族」というタイトルでお話したいと思います。4章でパウロは、教会の奉仕者として、りっぱな奉仕者とはどのような者なのかについて語りましたが、この5章では、神の教会においてどのように仕えたらよいかについて語っています。パウロは、3章15節で教会は神の家、神の家族だと言いました。家族の中にはいろいろな人たちがいます。おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さん、息子たちや娘たち、そして孫たちもいます。教会は、いろいろなメンバーで構成されているわけです。その教会においていったいどのように仕えていったらいいのでしょうか。

Ⅰ.家族に対するように(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。」

1節には「年寄をしかってはいけません」とあります。人間は年を取ると若い時のように活発に、あるは敏速に行動することができなくなります。そのため若い人は年寄りを見てイライラしたり、つらく当たってしまったりすることがありますが、そういうことがあってはならないというのです。「しかってはいけない」というのは、厳しく叱ってはいけないという意味です。年寄りでも失敗したり、過ちに陥ったりすることがありますが、そのような時でも叱ったり、厳しく咎めるようなことがあってはいけないのです。お年寄りが安心していられるような環境を整えることが大切です。

よく年をとると次の三つの思いに支配されると言われています。一つは過去の生活とその思い出です。それは成功や失敗、喜びや悲しみなどの喜怒哀楽が交差した複雑なもので、過去のことを思い出して一瞬喜んだかと思ったら、次の瞬間には悔しがったりといろいろな思いが突然湧いてきたりして、情緒的に不安定になることがあるのです。

二つ目は未来に関することです。これは死の恐れ、肉体が衰えていくことの不安と恐怖、そして天国の希望といった絡み合った思いです。

そして三つ目は現在の状態に対する思いです。これは退職しての無力感、孤独などから来る気持ちです。このような気持ちは元気でバリバリ働いている人にはなかなか理解できないことですが、そうした複雑な心情にあることを理解し、自分のペースをお年寄りに押し付けたりして、つらくあたるようなことがあってはならないのです。

レビ記19章32節にはこうあります。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。」老人を敬うことは神を恐れることでもあり、旧約の昔から教えられてきた真理なのです。

では、こうしたお年寄りにはどのように接したらいいのでしょうか。ここには、「むしろ、父親に対するように勧めなさい。」とか、「年をとった婦人たちには母親に対するように、勧めなさい」とあります。父親に対するように、また、母親に対するように勧めなければなりません。父親に対するように勧めるとか、母親に対するように勧めるとはどういうことでしょうか。十戒には、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)とあります。ですから、父親に対するようにとか、母親に対するようにとは、尊敬をもって勧めるということです。それは、お年寄りのこれまでの人生経験と、その中から練り上げられてきた人格に対する尊敬の念を失わないことでもあるのです。

ところで、この「勧める」ということばはパラカレオーというギリシャ語ですが、これは、「そばにいて援助する」という意味があります。これは「助け主」(聖霊)を表す「パラクートス」ということばの語源となった言葉です。もし年をとった方が間違いを犯したり、過ちに陥いるようなことがあれば、そばにいて援助するようにして励まさなければならないのです。

次に、若い人たちにはどうあるべきでしょうか。ここには、若い人たちには兄弟に対するように、若い女性たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい、とあります。若い人たちの中には結構いい加減で自堕落な生活をしていたり、面倒ばかりかけるような人もいるかもしれませんが、兄弟に対するように切っても切れないような親しい間柄として勧めなければなりません。上から目線で「まったくなっていない」と吐き捨てるようにではなく、そばにいて助けるようにして支え、励ましてあげなければならないのです。

特に若い女たちには真に混じりけのない姉妹に対するようにとあります。これは4章12節にも使われていた言葉ですが、そこでは「純潔」と訳されています。つまり、下心のない純粋な心で、実の姉妹に対するように勧めなければならないということです。

3節をご覧ください。次に出てくるのは「やもめ」です。やもめとは未亡人のことです。何らかの理由で夫に先立たれた妻のことです。当時のやもめは、夫を失うことで生活の基盤を失いました。今日のような社会保障制度がなかったので、文字通り、大黒柱を失うと生活の柱を失ったわけです。そのようなやもめたちを援助するということは、教会にとってとても重要なことでした。いや、やもめに限らず、社会的弱者を助けることは、教会の務めでもありました。ヤコブの手紙1章27節にはこうあります。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」

神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。孤児ややもめが困っているときに世話をすることは、教会にとって大切な務めだったのです。

パウロは、そういうやもめに対しても「敬いなさい」と言っています。この敬うという言葉は単に尊敬するということ以上に、大切にすることも含まれています。彼らを大切にして、その必要に答えてあげるようにということです。テモテという名前は「神を敬う」という意味ですが、神を敬う人は神の家族を敬います。そして、神の家族の中でも、特に弱い者を敬うのです。

パウロは、教会はキリストのからだであると言いましたが、それはからだがどのようなものであるかをみればわかります。Ⅰコリント12章22~27節にはこうあります。

「22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官はことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

教会はキリストのからだなのです。からだは、比較的弱いとみられる器官が、かえってなくてはならないものです。そのように劣ったところを尊ぶことによって、からだ全体の調和が図られるからです。ですから、そうした弱いと思われるような人を敬うことによって、教会全体の調和が保たれるのです。

しかし、やもめならだれでもいいというわけではありません。ここには、「ほんとうのやもめを敬いなさい」とあります。それは16節にあるように、教会に負担をかけないようにするためです。教会といってもすべての教会が、経済的に余裕があるわけではありません。貧しい教会もあります。そうした貧しい教会が孤児ややもめを援助していくためには、ほんとうに必要なやもめはだれかを見分ける必要があるのです。そうしたやもめにはたとえ教会が貧しくても、全体でサポートしていく必要があるのです。ではほんとうのやもめとはどのような人なのでしょうか。

Ⅱ.ほんとうのやもめ(4-10)

第一に、ほんとうのやもめとは肉親も身寄りもいない人です。4節をご覧ください。

「しかし、もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。」

そのやもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬い、親の恩に報いる習慣をつけさせるべきです。おじいちゃんやおばあちゃんのところに行くのはお年玉やおこずかいをねだる時だけであって、そうでないと寄り付かないというのではよくありません。それは神の家族の中ではふさわしいことではないのです。

この「恩に報いる習慣をつけさせなさい」という言葉は、2章11節にも使われていた言葉です。そこでは「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。」とあります。この「教えを受ける」ということばが「習慣をつけさせる」という言葉が同じ言葉なのです。つまり、子どもや孫に自分の親やおじいちゃん、おばあちゃんを尊敬し、その恩に報いるように教えることは大切なことであるということを教えなければならないということです。中には親を尊敬できないという人がいるかもしれません。自分のことをちゃんと育ててくれなかった、平気で見捨てられたということもあるかもしれません。でも、産んでくれたということは事実です。今、あなたがここにいるのは、あなたを生んでくれた親がいるからなのです。その親はうまくあなたを育てることができなかったかもしれません。間違いや失敗もたくさんしたことでしょう。彼らにも弱さがあったのは事実です。だからと言って恨み続けて「こんな親は親じゃない。」とか、「尊敬に値しない」んていうことがあるとしたら、それは神に喜ばれることではないのです。

8節には、「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」とあります。どんな親であっても自分の親を顧みないということがあれば、それは信仰を捨てていることと同じであって、不信者よりも悪いのです。「あなたの父と母を敬」(出エジプト20:12)ことは神に喜ばれることであり、神のみこころであるということを、子どもたちにしっかりと教え込まなければならないのです。

第二に、ほんとうのやもめは神に望みを置いている人です。5節と6節をご覧ください。

「ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげていますが、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。」

ほんとうのやもめは、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげています。つまり、信仰の生活を送っている人です。そのような人は、10節に「良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」とあるように、良い行いによって認められていました。つまり、子どもをよく育て、旅人をもてなし、神の家族に仕え、困っている人がいれば助けていたのです。この人たちはいつも祈り、神と教会に仕えた人たちなのです。教会から何の謝礼も受け取らずに、教会のスタッフ同様、ただひたすら神に仕えた人たちなのです。そのような人たちを支えるのは、教会として当然のことではないでしょうか。

しかし、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。自堕落な生活をしているとは「快楽」と訳される言葉で、快楽のために生きているやもめのことです。そういうやもめは、生きてはいても死んだ者と同じだというのです。別にこれはやもめに限ったことではありません。自分の快楽のために生きている人は、自分の喜びと満足のために生きている人は、生きてはいても死んだ者と同じです。本来は年を重ねれば重ねるほど、信仰が長ければ長いほど、信者の模範となっていなければならないのに、自堕落な生活をしているとしたらもう目も当てられません。そういうやもめをサポートするようなことがあってはならないのです。

第三のことは、9節、やもめの名簿に載せるのは、六十歳以上の人で、ひとりの夫の妻であった人です。初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えると誓ったやもめには名簿に載せられました。そのような名簿に載せられたやもめに対して、教会はしっかりとサポートする義務があったのです。ではその名簿に載せる人はどのような人なのでしょうか。ここには、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、良い行いによって認められていた人」とあります。当時は六十歳でお年寄りの仲間入りとなりました。現代ではかなり寿命が伸びましたから六十歳でお年寄りなんて言ったら怒られます。「私はまだ若いです」なんて・・・。若いかどうかはともかくある程度の年齢に達していなければならなかったのです。なぜでしょうか。若いやもめは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。このことについては、この後のポイントで触れたいと思いますが、ここではもう一つのことが挙げられています。それは、「ひとりの夫の妻であった人」であるということです。これしどういう意味でしょうか。これは監督、執事の条件にもあげられていたことです。ここではそれと同じ言葉が使われています。すなわち、健全な結婚関係にあった人であるということです。当時は一夫多妻というのが当たり前の風習にあって、ひとりの夫の妻としてその務めを忠実に果たしてきたかどうかが問われました。

しばしば教会では生活に困窮している人がいれば無条件で援助すべきだと考える方もおられますが、聖書で言われていることは必ずしもそうではありません。ほんとうに親切にするということはそれを受ける相手がどういう人でも構わないということではなく、ここにあげられているような人でなければならないというのです。私たちは教会でいったいだれを援助しなければならないのかということを、もっと真剣に考えていかなければなりません。

Ⅲ.若いやもめは断りなさい(11-16)

第三に、11節から16節をご覧ください。

「若いやもめは断りなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。」

ここには、「若いやもめは断りなさい」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。どういうことでしょうか。

古代教会における代表的な神学者たちの中にクリュソストモスとかテルトリアヌスといった人たちがいますが、彼らの記述によると、初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えるというやもめに規約を設けたり、教会の義務を課したりしていたようです。そして、やもめとして登録される者は、信仰をもって、生涯独身の約束をしなければならなかったのです。そのような誓約をした者は「やもめの衣装」を着用し、按手を受けたとされています。ですから、ここで言われているやもめとはただの未亡人のことではなかったのです。夫に先立たれ、その残された生涯を神のために仕えると誓約までしたのです。

しかし、若いやもめはそういうわけにはいきません。彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。この「キリストにそむいて情欲に引かれる」とは、彼女たちの情欲が、キリストへの献身を打ち負かしてという意味です。その若さのゆえに、その情欲と肉欲が、初めの誓い、初めの信仰を捨ててしまうことになるというのです。これは、くびきから逃れようとする若い雄牛のイメージです。昔、田畑を耕したのは、くびきによって結ばれた二頭の雄牛でした。ところが、そのうちの一頭がオレは嫌だとくびきから逃れようとするわけです。若いやもめも同じです。くびきから逃れて結婚したがるようになるのです。

結婚すること自体が悪いことではありません。問題はイエス様にすべてをささげますと誓ったにもかかわらず、その誓いを破って結婚することです。やもめになった以上は残りの生涯をあなたにささげますと、カトリックのシスターのように誓ったにもかかわらず、ちょっとでも優しい男性に出会ったりすると、ちょっとでも信仰的に尊敬できるような人に出会うと、すぐに結婚したがる。それが問題なのです。

結婚することはすばらしいことであり、神の祝福ですが、結婚がすべてではありません。何らかの理由で夫に先立たれてしまい、その残りの生涯を主にささげ、主に仕えることもすばらしいことなのです。なぜなら、結婚した男、女は、どうしたら相手に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれますが、独身の男、独身の女、夫を失った女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配ることができるからです。たとえ結婚したからと言って罪を犯すのではありません。でも、現在の危急の時には、そのままの状態にとどまるのがよいと思うと、パウロは勧めています。それは思う存分、主にお仕えすることができるからです。ですから、結婚することも良いことであり、そのままの状態、すなわち、独身のままでいることもすばらしいことです。大切なのは、自分の置かれた状況の中で、どのように主に仕えるかということです。もし若い女性が結婚して夫に先立たれ、未亡人になったとしたら、その後の生涯をどのようにすべきかをよく考えなければなりません。そして、もしその残りの生涯を主にささげますと言って誓うなら、それに背いてはならないということです。けれども、若いやもめは情欲に引かれるとすぐに結婚したがるので、そういう人を登録するのは断るようにと言われているのです。

そればかりではありません。彼らは怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話すようになるからです。これは初めの誓いを捨てた人のことです。夫が死んで、その残された生涯を主にささげますと誓ったのはいいものの、や~めた!と打算で結婚する人は、かえって時間をもて遊ぶようになり、家から家へと飛び回り、うわさ話やおせっかい話の花を咲かせ、おっと、話してはいけないことまで話すようになるのです。

だから、若いやもめに対しては、彼らが結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないようにすべきです。というのは、すでに、道を踏み外し、サタンのあとについて行った者があるからです。だから、若いうちはきちんと働いて、あるいは家庭の務めについて、落ち着いた生活をすることを心がけるべきなのです。

やもめだからといって、やみくもに援助することがあってはなりません。やもめの中でもほんとうのやもめを敬い、彼らを心から支えていくべきです。なぜなら、教会は神の家族だからです。

皆さんもご存じのように、先日南太平洋のバヌアツという小さな国が巨大サイクロンに襲われ大きな被害が出ました。実に国の70%の人たちの住宅が損壊し、避難所生活をしています。そこには私たちの友人で、ウィクリフ聖書翻訳協会から遣わされているGreg Carlsonという宣教師夫妻が住んでいますが、彼から現況の報告がありました。それによると、バヌアツの人たちにとって住宅よりも深刻な問題は食糧の問題です。彼らのほとんどは農業を営んで生活しているため、畑が被害に会うと収穫することができにいため、食べることができなくなるのです。これから種を植えても収穫するのは半年先のことです。幸いいろいろな国から食料が届いていますがどれもお米ばかりで、野菜などの食糧が不足しているとのことです。

私はこの報告を受けてどうすべきかと祈りましたが、神の答えは、ほんとうのやもめを敬いなさいということです。キリストのからだである神の教会に、そのような人たちがいるなら、私たちは敬うべきです。彼らの必要に少しでも答えられるように、できるだけのことをすべきではないでしょうか。ささげる額や量が問題なのではありません。大切なのは、神の御言葉に従い、それを実践することです。後ろにそのための献金箱を用意しておきましたので、志のある方はこのために祈ってささげていただきたいと思います。

 

数週間前に「アンビリーバボー」というテレビの番組で、中国の四川省から『2013年度の最も美しい隣人』として表彰された徐文建(シュ・ウェン・ジィェン)さんのことが紹介されていました。

1979年、中国四川省の小さな村に暮らしていたシュさんは、当時15歳でしたが、家が貧しく、豚のエサさえ買うお金さえもなかったので、毎日、街に出ては、エサとなる残飯を集めていました。

そんなある日、シュさんは一軒の食堂の前で目が奪われてしました。そこにおいしそうにワンタン麺を食べている人たちがいたからです。シュさんは、思わず立ち止まってしまいました。ワンタンのような肉の入った食べ物はとても貴重なもので、貧乏な者が払えるような金額では食べることができませんでした。

すると、そんな彼に声をかけてきた女性がいたのです。彼女は王子玉(ワン・ズーユー)さんと方で、当時60歳の方でした。「まだ、子供なのに残飯集めなんて大変だね」と、心を痛めたワンさんは、なんと彼にワンタン麺をご馳走してくれたのです。シュさんは、感謝の気持ちでいっぱいになりました。そして、自分はワンさんのような人間になりたいと思いました。

ところが、翌日、いつものように残飯集めをしていると、彼の前に荷物運びの仕事をするワンさんの姿がありました。しかも、後ろからリアカーを押していたのは、盲目の息子でした。さらに、彼女には、病気の夫もいて、自分と同じような貧しい境遇であった事を知るのです。それからも、ワンさんは、シュさんの事を何かと気にかけてくれました。

それから21年が経ち、少年だったシュさんも家族を持つようになりました。そして、大人になってからも頻繁にワンさんのもとを訪れては交流を続けていましたが、2002年、シュさんが38歳だったある日、ワンさんが不運にも夫と息子を亡くし、さらに、ワンさんが両足を骨折したため、敬老院に入居したという知らせを受けました。シュさんは、すぐに見舞いに行きました。敬老院と呼ばれる中国の老人ホームは公営のため、ほぼ無料で入居できましたが、ワンさんのように一人で入居した老人にとって最大の苦しみは孤独でした。このときワンさんは83歳になっていました。そこで、シュさんは、自身の母親や、妻、息子と相談し、ワンさんを自宅に引き取る事にしました。そして、実の母親のように尽くしたのです。血のつながりのない老人を引き取るなんて、何か見返りが欲しいのかと、回りの人からは理解されませんでしたが、彼女の唯一の財産は、拾った一本の竹の棒だけでした。彼はただ一杯のワンタン麺の恩返しがしたくてワンさんを引き取ったのです。

それから11年、2014年1月に王さんはこの世を去りました。95歳でした。生前ワンさんはシュさんに、「あなたは本当の息子ではありません。でも、本当の息子のように愛しています。どう恩返ししたらいいかわからないほどよくしてくれるあなたに、心から感謝しています。」と言っていました。

シュさんは、「最も美しい隣人」の授賞式でこう言いました。「隣人とは、ある意味、家族ではないでしょうか。彼女は若き日の私に対して、家族のように接してくれました。今も、私の心の中で生きています。」

私はこの「隣人とは家族ではないか」という言葉がとても強く心に響きました。教会は神の家族です。だから私たちは家族のように接することが求められているのです。教会にはいろいろな年齢、経歴、境遇の方がいらっしゃいますが、それがどのような人であっても家族のように接することが求められているのです。あなたは神の家族である教会の人たちを、どのように見ておられますか?教会は神の家族であるということをもう一度覚えながら、家族に対するように接していきたいと思います。