先週のところでパウロは、教会のさまざまな問題で苦しんでいたテモテに対して、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさいと勧めました。そして、キリストの恵みによって強くされた人はどのような人なのかについて、三つの例を用いて説明しました。それは兵士のようであり、アスリートのようであり、農夫のようです。この三つに共通していたのは、苦しみの後に勝利が、栄冠が、収穫がもたらされるということでした。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫び踊りながら刈り取るのです。そのことを思うなら、今置かれている苦しみに耐えることができます。そのように勧めたのです。きょうのところでは、イエス・キリストをいつも思っていなさいと勧めています。
Ⅰ.イエス・キリストをいつも思っていなさい(8-9)
まず8節と9節をご覧ください。8節には、「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」とあります。
パウロは牧会で苦しんでいたテモテに対して、その苦しみに耐えるために、ここではイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、と勧めています。なぜいつもイエス様のことを思っていなければならないのでしょうか。なぜなら、私たちの問題がどのようなものであれ、すべての答えはイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずその苦しみに耐えることができるのです。
ではキリストはどのような方なのでしょうか。ここには二つのことが言われています。一つはダビデの子孫として生まれた方であるということ、そしてもう一つは、死者の中からよみがえった方であるということです。
ダビデの子孫として生まれ、というのはどのような意味でしょうか。それはこの方がメシヤ、救い主であるということです。救い主が生まれることは旧約聖書にずっと預言されていましたが、キリストはそのとおりに生まれました。それはこの方こそ旧約聖書に約束されていたメシヤ、救い主であるということなのです。
また、キリストがダビデの子孫からお生まれになられたというのは、神が人となって来られたということを表しています。神は霊ですから、私たちの肉眼によっては見ることはできませんが、その目に見えない神が見える形で現れてくださいました。それがイエス・キリストなのです。私たちは単なる霊や、霊的存在を信じているのではなく、実際に人となってこの地上に来られ、この地上での道を歩まれ、この地上で味わうであろうすべての苦しみを経験された神、イエス・キリストを信じているのです。この方は半分神で、半分人間だったということではありません。この方は100%神であり、100%人間として生まれてくださったのです。それゆえに、私たちが経験するすべての痛み、弱さ、苦しみといったものを十分理解することができるのです。ヘブル4章15節、16節にはこうあります。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
私たちの大祭司とはイエス・キリストのことですが、キリストは私たちの弱さに同情ではない方ではありません。なぜなら、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みに会われたからです。だから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。
それは私たちも経験があるのではないでしょうか。自分が苦しい体験を通ったことがあれば、他の人がそれと同じ苦しみを通っている時に、「ああ、本当にそれは大変だよね」と心から同情することができますが、苦しんだことがない人は、「そんなの大丈夫よ」と言って、余計にその人を苦しめてしまうことがあります。イエス様はご自分が苦しみを通られたので、同じように苦しみの中にある人を完全に理解することができるのです。しかもイエス様が通られた苦しみは私たちのそれとは全然比べものにならないくらい大きなものでした。それは十字架の苦しみでした。そのことを思うと、私たちが受けている苦しみなんて爪の垢のようにちっぽけなものでしかありません。そのイエスのことを思うなら、私たちに力と励ましが与えられます。
そればかりではありません。ここには、死者の中からよみがえったイエス・キリスト、とあります。死者の中からよみがえったイエス・キリストを思うとはどういうことでしょうか。それはイエスが死者の中から蘇ったという復活の事実を思っていなさいということではありません。それは。イエスが死から復活して、永遠に生きておられるということを思っていなさいということです。永遠ですから、今も生きておられるということです。今も生きてあなたに力を与え、あなたのために働いておられるのです。そのことを覚えなさい、というのです。クリスチャンが重大な任務に召される時、そしてそれが自分の力ではできないと思う時でも、あなたはそれを一人で行うのではないということを覚えなければなりません。死からよみがえり、永遠に生きておられる主イエスがあなたとともにいて、あなたに力を与え、あなたを助けてくださるのです。
昨日、桂珍姉が召天されました。数年前に子宮頸がんを患い抗がん剤の治療をしていましたが、今月に入ってからみるみるうちに体が衰え、昨日の朝早く息を引き取られ主の許に行かれました。桂珍さんから最後にメールが来たのは、先週の日曜日でした。お祈り感謝します。その二日前にもメールが来て、それは中国語で書かれてあったので王さんに訳してもらったら、「私は大橋牧師によって洗礼を受けました。私は永遠の命を受けることができます。神様の子どもになったのですから。」という内容でした。死を前にした苦しみの中で桂珍さんを支えていたのは永遠のいのちの約束と、今も生きて助けてくださるイエス・キリストだったのです。日本に来て13年、福島県三春町のご主人の家で仕えることはどんなにご苦労があったことかと思います。しかし、そのような中で聖書を読んでは祈り、主イエスから力をいただいて、50年のこの地上での生涯を全うしたのです。桂珍さんが洗礼を受けた時のことを、私は忘れることができません。水から上がった彼女は両手を高らかにあげ、満面の笑顔で「ハレルヤ」と叫びました。それは彼女が永遠のいのちをいただいたことの喜びと、死からよみがえられた主イエスの力を確信した瞬間だったのです。
主イエスのことを思うなら、たとえあなたが苦しみの中にあっても必ず乗り越えることができます。私たちは日々、さまざまな恐れと不安にさいなまれ、自分の無能力さで心をふさぐことがありますが、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを思うなら、あなたは苦しみをも乗り越えることができる力を受けるのです。
テモテは、エペソ教会の牧会に疲れ果てていました。度重なる教会内の問題で落ち込み、外からの迫害に苦しんで、体調も崩していました。このままでは牧会を続けることができないと感じていたそのとき、パウロはこのイエスのことをいつも思っていなさい、と勧めたのです。彼にとって必要だったのは、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、ということでした。
それは私たちも同じです。私たちもテモテのように福音のゆえにさまざまな苦しみを受けることがありますが、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえらイエスを、いつも思っているなら、あなたも力を受け、その苦しみに耐えることができるのです。
Ⅱ.選ばれた人たちのために(9-10)
次に9節と10節をご覧ください。まず9節には、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」とあります。今度はパウロです。パウロも福音のために苦しみを受けていました。何度も投獄され、鎖につながれました。今回は、特にローマの地下牢で打ち首にされるという最悪な状況にありました。しかし、神のことばは、つながれることはありません。たとえ自分がこのように鎖につながれて身動きできないような状況でも、神のみことばはつながれることはありません。なぜなら、神ご自身は全能であって、鎖につながれるようなお方ではないからです。その神の働きを留めることはだれにもできません。
ですから、パウロは10節でこう言っているのです。「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」
「ですから」というのは、9節で語ったように、どんなにパウロが福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれることがあっても、神のことばは、つながれてはいないのですから、ということです。ですから、パウロは選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍ぶのです。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。
皆さん、聖書は、救われるようにと神に選ばれた人たちがいると言っています。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられますが、かといって、すべての人が信じるわけではありません。信じる人とそうでない人がいるのです。でも、私たちは誰が救われるのかがわからないのでとにかくみことばを伝えるわけですが、そのような中から神の恵みに応答して救われる人がいるのです。その人が神に選ばれた人たちです。しかし、こればかりは伝えてみないとわかりません。「あの人は難しいだろうな」と思う人が以外と素直に信じたり、表面的に柔らかそうな人が以外と頑固だということもあります。だれが救われるのかは全くわからないのです。救われるようにと選ばれた人たちがいるとは言っても、そういう人たちが何もしなくても自動的に救われるということはないのです。だから私たちはとにかくみことばを伝えなければならないのです。そのことをパウロはローマ10章13~17節でこのように言っています。
「「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
福音を聞かなければ信じることはできません。私たちもそうですよね。聞いて理解したから信じたわけです。私も18歳のとき初めて聖書のことばを聞きました。小さい頃から日曜学校に行っていたので聞いたつもりでいましたが、実際は全くわかっていませんでした。あることがきっかけで、「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」という聖書のことばを聞いたとき、ああそうか、イエス・キリストを信じることによって新しくされるんだ、ということがわかったのです。それまでは信じる人は信じたらいいじゃないか、自分は自分の道を行くみたいな感じで、別に信じている人を非難するわけではないし、かといって自分がその中に入ろうとも思いませんでした。それはキリストについてのことばを聞いたことがなかったからです。キリストについてのことばを聞き、神のことばである聖書を読んでわかったのです。そしてよくわかって私たちは信じることができました。だから信仰は聞くことから始まるのです。聞くことはキリストについてのみことばによるのです。宣べ伝える人がいなかったら、私たちは聞くことができませんでした。したがって、キリストにある救いを受けることはできなかったのです。しかし、あるとき、みことばを宣べ伝える人がいて、その人が語るのを聞いて、信じることができました。神が選んでいてくださったからです。しかし、伝道のことを考えるとわかりますが、そのためにはどれほどの苦しみが伴うことでしょうか。パウロはその福音を語る人で、そのために彼は苦しみがありました。けれども、そのように選ばれていた人が救われて、とこしえの栄光を受けるようになるのなら、たとえそれがどんなに苦しくても耐え忍ぶことができたのです。その喜びのゆえにです。
パウロはこれまで兵士のように、アスリートのように、農夫のようにと語ってきた後で、イエス・キリストもそうだったということを語りました。イエス様もご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。それはパウロも同じでした。パウロも多くの苦しみがありましたが、しかしそれを耐え忍ぶことかできました。それは、神に選ばれた人が救われて、とこしえの栄光を受けるようになるということを知っていたからです。
それは私たちも同じです。たとえ、福音のために苦しむことがあっても、そのことによって神に選ばれた人たちが救われ、とこしえの栄光を受けるようになるということを思うとき、たとえ目の前の苦しみがあったとしても、それに耐えることができるのではないでしょうか。
Ⅲ.彼は常に真実である(11-13)
最後に11節から終わりまでを見て終わりたいと思います。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」
この「」の内容は、当時一般に広く知られていた賛美歌の一部であったと言われています。もし私たちが、キリストともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。これは洗礼、バプテスマのことを言っているかのように感じますが、それよりもここでパウロの心にあったのは殉教のことでした。なぜなら、12節のところでパウロは、「もし耐え忍んでいるなら、キリストともに治めるようになると言われています。反対に、もしキリストを否んだなら、キリストも私たちを否まれます。」と言っているからです。パウロは打ち首になることが決まっていました。しかし、たとえ殺されたとしてもキリストとともに生きるようになるということです。彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになるのだから、いったい何を恐れることがあるでしょう。死はもはや私たちを支配することはありません。たとえ肉体が滅んでも、たましいはさらにすばらしいところ、神の御国に入るのです。そこで永遠に生きるようになるのです。そうした確信がパウロにあったのです。
それとは裏腹に、もしキリストを否むようなことがあるとしたらどうでしょう。12節には、もし彼を否んだら、キリストも私たちを否まれる、とあります。この地上にあってキリストともに苦難をともにするなら、やがてキリストにある栄光をともにし、この地上にあって、苦しみを免れようとして、福音を恥と思い、キリストを否むようなことがあれば、キリストも私たちを否まれるのです。
キリストははこう言われました。「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:33)」
だから私たちは、たとえこの地上で苦しみがあってもその先に何が待っているのかをよく考えるべきです。この地上の一時的な苦しみのために主を否み、永遠の世界で主に知らないと言われることがないように、キリストとともに生きることの幸いを見なければなりません。
では私たちが主を否むようなことをしたら、もう赦されないのでしょうか。そうではありません。13節をご一緒に読みましょう。13節にはこうあります。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」神が真実な方であることは、旧約聖書の時代から変わることがありませんでした。初めの人アダムが罪を犯すと神様は救いの計画を実行されました。創世記3章15節には、女の子孫から出てくるキリストが、へびである悪魔を完全に滅ぼすと語られました。それが具体的な形として現れるのが創世記12章です。神はアブラハムを選び、彼を通してすべての民族が祝福されると言われました。しかし、アブラハムには子供がありませんでした。いったいどうやって神の約束が実現するでしょう。しかし、神は人間的には不可能だと思われたとき、ひとり子イサクを与えてくださいました。そしてイサクにヤコブが与えられ、ヤコブに12名の息子たちが与えられ、そこからイスラエル民族が生まれるのです。その子孫から約束のメシヤを贈られるのです。それがイエス・キリストでした。
けれども、そこに至るまでにもイスラエルは何回も神に反逆します。エジプトに下って行ったイスラエルはそこで400年間奴隷として過ごしますが、神はモーセを立てて、彼らをエジプトの奴隷から救い出しました。しかし、彼らが荒野に導かれると、主に文句ばかり言いました。食べ物がない、飲み物がない、あれがない、これがないと文句たらたら、いつもブツブツ言いました。そればかりか、自分たちを導いてくれる神を造ろうと、金の子牛を造って拝んだりもしたのです。それで山から下りて来たモーセは怒って、「主につく者は私のところに」と言うと、何人かの人たちが悔い改めたので、彼らを神のさばきから救われました。イスラエルの大きな罪にもかかわらず、神の約束は変わらなかったのです。イスラエルは何度も何度も神に反逆し、罪を犯しますが、神は彼らを赦し、彼らの子供たちをご自分が約束された地に入れられました。なぜでしょうか。それは、神は真実な方だからです。神の約束されたことを忠実に守られる方なのです。
それは彼らが神に反逆しバビロンによって滅ぼされた時も同じです。彼らはそこで70年の時を過ごしますが、神はペルシャの王クロスを立てて彼らを救い出し、カナンの地に帰還させてくださいました。
また、A.D.70年にローマによって滅ぼされた時、イスラエルは世界中に散らされましたが、神はご自身の約束を反故にされることはありませんでした。20世紀になると世界中からユダヤ人を集め、1948年にはついにイスラエル共和国を建設するに至りました。
いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか。私たちは真実でなくても、神は常に真実な方だからです。神の賜物と召命とは変わることがありません。神はどこまでも真実な方なのです。
その神の真実さは、放蕩息子の父親の姿にもはっきりと見ることができます。放蕩した息子が家に帰って来たとき、父親は彼をどうしましたか。まだ彼が遠くにいるのに、父親は彼を見つけるとかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけをしました。「何でお前はこんなことをしたんだ」ととがめることもせず、それどころかしもべたちに一番良い着物を持って来させ、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせ、子牛をほふらせて、お祝いしました。これが私たちの信じている神です。私たちの神は、放蕩息子の父親のように、自分から離れた息子が帰ってくるとき、喜んで迎え入れてくれる方なのです。
このように、私たちは真実でなくとも、彼は常に真実です。神の愛、神の恵みは決して変わることはありません。私たちが救われたのはこの神の恵みによるものです。救いは神からの賜物です。決して私たちががんばって獲得したものではありません。神が私たちを愛し、ご自身の御子を遣わし、その方が十字架で私たちの罪の身代わりとなり、死んでくださいました。それだけでなく、その死から復活され、この方を信じる者はだれでも救われるとしてくださいました。これが福音であり、私たちはこれを信仰によって受け取ったのです。この信仰さえも神からの賜物です。
では一度救われたらずっと救われているのですか。そうです。少なくとも神はあなたをお見捨てになることは絶対にありません。ヨハネ10章28節に、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と約束されているからです。本当に救われているのなら、救いは決して変わることはありません。けれども、その一方で信仰から離れて行ってしまうという現実があるのも事実です。神は決して見離さず、見捨てることはなさいませんが、私たちの方で自分から離れてしまうことがあるのです。放蕩息子のようにどこかで離れてしまうということもあり得るわけです。では、それで終わりかと言うとそうではありません。私たちは真実でなくても、神は常に真実なのです。だから、私たちは帰ってくるところを知っています。それがイエス・キリストです。たとえ信仰から離れることがあったとしても、たとえキリストを否むということがあったとしても、それでもあなたが神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、あなたを喜んで受け入れ、あなたに愛と恵みを注いでくださいます。だから、この神の愛に立ち返ってください。この神の愛を信じていただきたいです。私たちは真実でなくても、神は常に真実な方だからです。
イエス様の一番弟子といったらシモン・ペテロですが、彼は一番弟子でありながら、イエス様を簡単に裏切ってしまいました。「主よ、他の者があなたを知らないと言っても、私は決してそういうことはありません」と言ったのに、いざイエス様が捕えられると、彼はイエス様を知らないと否定しました。それは「ペテロ、あなたは鶏が鳴く前に三度私を知らないと言います」と言われたイエス様のおことばどおりでした。
大祭司カヤパの家の庭に行くと、「あなたはあの人と一緒にいましたね」と言いますが、彼は「何のことを言っているのか私にはさっぱりわからない」ととぼけるのですが、別の人が「確かにこの人はあの人といっしょにいた人だわ」言われると、「そんな人は知らない」としらを切りました。「いや、ぜったいこの人はあの人の仲間だわ。ことばのなまりでわかるもん。」と言われると、今度はのろいをかけて誓ったとあります。するとすぐに鶏が鳴いたのです。ペテロはイエス様が言われたあの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。いったいこの時ペテロはどんな気持ちだったでしょう。どんなに自分を責めたかわかりません。あれほど誓ったのに、こんなにも簡単に裏切ってしまうのかと、自分の気持ちの弱さに情けなく思ったかもしれません。しかし、聖書のすばらしいところは、そこで終わらないところです。イエス様はペテロに言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)そして見事に彼は悔い改め、信仰を回復したばかりか、初代教会の指導者として用いられていったのです。
だから、失敗したからそれで終わりではありません。それでも神はあなたを赦してくださいます。そして、あなたをもう一度用いてくださるのです。それはあなたが真実だからではありません。彼、キリストが常に真実だからです。ですから私たちは何度失敗しても、何度主を裏切るようなことがあっても、その度に悔い改めて、神に立ち返りたいものです。そうすれば、主は赦してくださいます。苦しみのために、私たちももしかしたら主から離れてしまうこともあるかもしれませんが、何度離れても主のもとに立ち返り、主の赦しと愛にあずかりたいと思います。主はあわれみ深く、恵み深い方だからです。私たちは真実でなくても、彼は常に真実です。この真実な方に信頼して、私たちも何度も立ち上がっていく者でありたいと思います。