創世記15章

1.神様の約束(1-5)

1節を見ると、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちに亜プラムに臨み・・・」とあります。「これらの出来事」とは何でしょうか。そのすぐ前の章には、アブラハムが諸王を破って帰還して後、ソドムの王がこの世の財宝を差し出しましたが、アブラハムはそれを拒んだという内容が記されてありました。その出来事の後でということです。その時に神様が語られたのは、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きい。」ということでした。これは神様が、ご自分が恵み深い方として彼を守り、彼に報いを与えという約束です。ソドムの王が提示した物質的な財宝を拒んだアブラハムに、神様が慰めを与えてくださったのでしょう。

これに対してアブラハムは何と答えたでしょうか?彼は恵み深い神様の語りかけに対して、「神、主よ。私に何を私にお与えくださるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマス子のエリエゼルになるのでしょうか。」(2)と言いました。まさに打てば響くとはこのことです。アブラハムは「あなたの受ける報いは大きい」と言われた主の約束に対して、「じゃ、何を与えてくださるのですか」と答えたのです。ここに神様の報いに期待していた彼の信仰が読み取れます。そして、彼が最も心配していたことは、彼の跡取りに関することでした。ですから、彼はすぐにこう言ったのです。「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」12章3節、13章15~16節で語られた神の約束が全く実現する雰囲気が感じられず、絶望の中にいたのです。アブラハムもサラも年をとっていて、もう新しいいのちを生み出す力がなくなっていました。ですから、ダマスコのエリエゼルを養子にしてでも、その子孫をと考えざるをえなかったのです。

すると主は言われました。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出る者が、あなたの跡を継がなければならない。」えっ、ウソでしょう。人間的に考えたら、普通の常識で考えたなら無理です。なぜ?その時期はもうとっくにすぎていたからです。ローマ4章19節には、「自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても」とあります。もう胎は「死んでいた」のです。ですから、これからいのちを生み出すなどということは全く考えられない状態でした。にもかかわらず神は、「ただ」、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」と言われたのです。

そして神は、アブラハムを外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

あなたの子孫はこのようになる、とビジュアル的に示してくださいました。これほどわかりやすいことはありません。「ああ、こうなるのか」とアブラハムは思ったでしょう。でも、現実的に考えると、それは全く不可能なことでした。

2.神の約束を信じたアブラハム(6)

それに対して、アブラハムはどのように応答したでしょうか。6節をご覧ください。ここには、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。どういうことでしょうか?彼は、自分のからだは死んだも同然だけれども、神にはできないことはないと信じたのです。すなわち、自分のからだのことや人間的な考えで判断することをやめ、天地万物を創造された全能の神様を、イエス・キリストを死者の中から復活させることのできる全能の神様を信じたのです。そして、その力がこどもを宿す力である以上、神様の約束は必ず実現すると信じたのです。

このような信仰を持つことが重要です。なぜなら、このような神への信仰が私たちの心を満たされる時、その人は真の自由を得るからです。そこには全く限界はありません。この神様がどんなことでもしてくださるという喜びが溢れます。反対に人間的になって限界もうけるとむると、心配が募り、顔色が悪くなってしまいます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。私たちは、私たちの力や思いではなく、すべてをこの神様にゆだねなければなりません。死人をよみがえらせることができる方は、どんなことでもすることができるお方だからです。そうでしょ。もし、今、皆さんに心配や悩みがあるなら、この全能の神に信頼してください。信仰とはそういうことなのです。すなわち、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4:18)、「死者を生かし、無から有を呼び出される神(ローマ4:17)と信じることです。アブラハムは復活の力をもっておられる神様を待ち望み、いのちの源でいます神が、自由にいのちを与えられる方であるということを信じたのです。信仰とは、神が神でいますこと、人間は人間でしかないことを、そののまま認めることなのです。神様は、神様であられるがゆえに、人の思いをはるかに越えたことをなされるのです。

この6節のみことばは、聖書の中で最も重要な聖句の一つです。新約聖書には、この聖句を引用して、アブラハムの信仰について教えている箇所が三箇所あります。(ローマ4:3,ガラテヤ3:6,ヤコブ2:23)聖書において、人が義と認められる方法は、旧約、新約を通してただ一つだけです。それは、「信仰による」ということです。信仰以外にはありません。

ダビデも信仰によって義と認められる人の幸いについて語っています。(詩篇32:1,2、ローマ4:7,8)ハバククも「義人はその信仰によって生きる」ことを語っています。(ハバクク2:4,ローマ1:17,ガラテヤ3:11,ヘブル10:38) パウロも徹頭徹尾、この教理に貫かれていました。 聖書のどこを見ても、人間の功績が救いにあずかる力とはなり得ないことを教えています。たとえ人間が難行・苦行をしても、どんなに信仰心が深くでも、どんなにあわれみ深く慈善事業を行ったとしても、信仰によらなければ義と認められることはできません。それははアブラハムが信じていなかったときのように、死んだからだのようで、何の役にも立たないのです。その心が新しく生まれ変わらなければならないのです。それは人間によるのではなく、神によらなければならないのです。アブラハムが自分のからだは死んでいても、神にはどんなことでもできると信じて新しく生まれ変わったように、聖霊によって、新しく生まれかわらなければならないのです。自分の力ではどうにもならないのです。ただ神に信頼するしかないのです。このように、自分の罪に対する人間性への絶望があってのみ、初めて神への信頼が生まれてくるのです。これが神の義と認められる信仰なのです。

ついで神は土地についての約束をされました。7節と8節です。「また彼に仰せられた。・・・・カルデヤのウルから連れ出した主である。」アブラハムがカルデヤのウルから連れ出され、カナンに着いた時、神は「この地を与える」(12:7)と約束されました。あれから何年になるでしょうか。約束を与えたままで、それがなかなか実現しない現実に、アブラハムもどれだけまだるっこい思いが拭えなかったかと思います。彼は、その確証を求めていました。それで、「神、主よ。それが私の所有であることを、どうやって知ることができるでしょうか。」と問うているのです。

3.神様の約束(9-21)

すると、神は言われました。9節と10節をご覧ください。「すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし鳥は切り裂かなかった。」

これは契約を結ぶ時のセレモニーです。真っ二つに切り裂かれた動物を互いに向かい合わせ、契約を交わした両者がその間を通ることによって、契約が締結されました(エレミヤ34:18)。鳥が切り裂かれなかったのは、小さかったからでしょう。犠牲の家畜を二つに裂き、血を流し、それを両側に一つずつおき、その間を契約した両者が通るということは、その「間」を埋めることであり、二つのものを一つにすることを表していました。そうやって契約が結ばれたのです。これは、神が私たち人間と契約を結ばれた時と同じです。神はそのひとり子イエス・キリストを十字架で引き裂かれ、血を流されることによって、埋めてくださいましたるそれで神と私たちの契約を成し遂げてくださったのです。

17節には、「煙の立つかまど」と「燃えているたいまつ」が、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎたとあります。これは神の臨在の象徴です。神の跡にアブラハムが通ったというのは、この契約が神様の全くの恵みによるものであることを表しています。人間はそのために何もせず、努力も協力もしなかったのに、神様だけがすべてをしてくださいました。人間はその受益者にすぎません。救いは神様の一方的な賜物なのです。

11節を見ると、「猛禽がその死体の上に下りて来た」とありますが、この「猛禽」とは、アブラハムの子孫がその約束の地を受け継ぐ前に経験しなければならない試練や困難を表しています。その具体的なことは、13~16節までに記されてあることです。それはエジプトでの400年間にわたる奴隷としての生活を指しています。けれども神様は、その四代目の者たちによって再び帰ることも預言されました。これはモーセとヨシュアの時代のことです。ここにイスラエルのエジプト滞在について預言されていることは、実に驚くべきことです。本当に、神様の約束の実現までには多くの困難や苦しみがありますが、しかし、神が語られたことは必ず実現するのです。私たちはただ神様が約束してくださったことを信じて、神の御国に向かって前進していく者でありたいと思います。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なことは忍耐です。」(ヘブル10:36)