Ⅱテモテ3章1~9節 「終わりの日には」

きょうは、「終わりの日には」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、困難に耐えるためにどうしたらよいかを語ってきました。そしてそのためにはまず、神が私たちに与えてくださったものがどのようなものかを思い出さなければなりません。神が与えってくださったものは、おくびょうの霊ではなく力と愛と慎みとの霊です。(1:7)このことを思い起こすなら力が与えられ奮い立つことができます。それから、イエス・キリストの恵みによって強くならなければなりません。それは兵士のようであり、またアスリートのようです。そして労苦して働く農夫のようです。確かに目の前には戦いがあり、労苦がありますが、その先にもたらされるのは勝利であり、栄光であり、収穫の分け前です。このことを知っていれば、困難の中にあっても強くなれるのです。

それからパウロは、ダビデの子孫であり、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい(2:7)と勧めました。私たちは決して孤独の戦いをしているわけではありません。そこにはいつもイエス様がおられ、イエス様の助けがあることを忘れてはなりません。

これらのことを人々に思い出さなければなりません。そして、聞いている人々を滅ぼすような無意味な話を避けなければなりません。そのような話は聞いている人々を滅ぼし、人々の信仰をくつがえしてしまいます。むしろ、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければなりません。

そして今日の箇所では、特に終わりの日にはそうした俗悪な無駄話というか、信仰からそれていくような時代になることを警告しています。なぜなら、終わりの日にはどのようなことが起こるのかを前もって知っていると、それに備えることができるからです。

Ⅰ.困難な時代がやって来る(1)

まず1節をご覧ください。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」

ここには、終わりの日には困難な時代がやって来る、とあります。いったい終わりの日とはいつのことなのでしょうか?ヘブル人への手紙1章1,2節にはこうあります。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ここには、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、神のことばを語られた時を、終わり日と言っています。

また、ペテロはペンテコステの時に聖霊が下られたのを見て、驚き、あやしんでいた群集に、預言者ヨエルのことばを引用してこう言いました。使徒の働き2章16~21節です。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」

ですから、ヨエルが終わりの日に起こることとして預言したことは、ペンテコステにおいて成就したことがわかります。いや、もっと正確に言うなら、このペンテコステの時に成就しましたが、やがてもっと完全な形で成就するということです。ですから、終わりの日とはイエス様が最初にこの地上に来られた時に始まり、再び来られる時までのことを指しているということです。キリストが最初に来られた時は救い主として来られましたが、二度目に来られる時にはさばき主として来られます。そのときが終わりの時です。その時にはどんなに「時間よ、止まれ」と叫んでも、止まることはありません。終わりの時が来て、すべての人がさばかれるのです。

ですから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。イエス様が最初に来て救いの御業を成し遂げられて天に昇られ、さばき主として再び来られるのを待っている時なのです。だれでもイエス・キリストを信じるなら救われます。救われて天の御国に入ることができるのです。過去においてどんなに大きな罪を犯した人でも、また、生まれた環境がどうであれ、もう自分なんか生きる価値もないと思えるような人でも、だれでも救われます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス・キリストを信じるなら、あなたも罪から救われて、新しい人生を始めることができるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、この恵みの時にイエス・キリストを信じて救われてほしいと思います。やがて信じたくても信じることができない時がやってくるのですから。そして終わりの時がやって来ます。キリストが再びこの地上に来られるとき、彼を信じるすべての人は救われて永遠のいのちを頂き、そうでない人はさばかれます。永遠の滅びへと突き落とされるのです。そういうことがないように、あなたもイエスを信じて救われてください。今は、この終わりの日に限りなく近づいている時なのです。聖書の預言がことごとく成就し、主イエスがいつ来られてもおかしくないような、そういう時に生かされているのです。その恵みの時に、神の救いを受け入れていただきたいのです。

では、その終わりの日には、どんなことが起こるのでしょうか。ここには「困難な時代がやって来る」とあります。悲観的に聞こえるかもしれませんが、これが聖書の言っていることです。なぜ終わりが近づくと困難な時代になっていくのでしょうか。なぜなら、神はその後で新しい天と新しい地を創造されるからです。出産の前には産みの苦しみがあるように、新しい天と新しい地が創造される前にも苦しみがあります。それは産みの苦しみなのです。

この「困難」と訳された言葉は、マタイの福音書8章28節にある「狂暴」という言葉と同じ言葉です。イエスがガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地に行くと、そこに悪霊につかれた人がふたり墓から出て来ました。彼らは墓場に住みついていました。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどでした。その「狂暴」と同じ言葉が使われているのです。ですから、世の終わりの時は、悪魔や悪霊が猛威を奮うときなのです。テモテへの手紙第一にもありましたね。後の時代には、ある人たちが惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われる・・と(4:1)。この時代は単に、悪いことが起こるというだけでなく、悪霊がはびこるのです。世界で起こっている事柄が、まさに悪魔的な様相を呈するのです。

パウロは、終わりの日にはこうした困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい、と言いました。なぜなら、そのような困難な時代がやって来るということを覚えているなら、それに備えることができるからです。パウロ自身も、彼の人生の終わりの日が、もう目の前に迫っていました。彼は何度も牢の中に入れられました。別に何か悪いことをしたからではありません。福音のために、良いことのために捕われていたわけです。この手紙を書いた時には打ち首になることが決まっていて、ローマの地下牢に閉じ込められていました。しかし、パウロの心は少しも萎えませんでした。むしろ希望を持っていました。そうした困難な中にあっても、牧会で苦しんでいたテモテを励ますことができたのです。なぜでしょうか?それは、終わりの日にはそうした困難な時代になるということをちゃんと知っていたからです。そして、そのような時代の中にあっても、イエス・キリストが再び来られ、彼を信じるすべての者たちに報いてくださると信じていたからです。ですからパウロは、そうした困難な時代にあっても勇気を失うことなく、苦難の中にあったテモテを励ますことができたのです。

皆さんはどうでしょうか。終わりの日には困難な時代がやって来ることを知っていましたか。日々突然襲って来る苦難に、「なんでこうなるの」と嘆いてはいないでしょうか。でも心配する必要はありません。焦らなくても大丈夫です。それはずっと前から聖書で言われていたことですから・・。「ああ来たな」と思ったら、これが聖書で言われていた患難かと思い、すべてを神様にゆだねて祈ればいいのです。そうすれば主が守り、患難に耐える力を与えてくださいます。

新聖歌247番の2番の歌詞にこうあります。

「来なば来たれ試みよ 襲いかかれ悪しき者

主に隠れし魂の などで揺らぐことやある

主の手にある魂を 揺り動かいものあらじ」

主の手にある魂を、揺り動かすものはありません。ですから、そういう困難は来るということを十分覚えながら、その時には岩なる主に隠れればいいわけです。主の手にある魂を、揺り動かす者は何もないのですから。

Ⅱ.そのときに人々は(2-8)

では、そのとき人々はどのようになるのでしょうか。それが2節から8節までに記されてあります。まず2節から5節までをお読みします。

「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

ここでパウロは、そのとき人々はどうなっていくのかを具体的に18のリストを挙げて説明しています。その最初にリストアップされているのは、自分を愛する者です。世の終わりが近くなると、人々は自分を愛するようになります。ここでは特にイエス様を信じていない人のとこが言われているのではありません。イエス様を信じているはずのクリスチャンのことが言われているのです。そのクリスチャンが自己中心になり、神から離れて行くようになるというのです。

イエス様はマタイの福音書24章の中で世の終わりの兆しを語っておられますが、その最大のしるしは何かというと、多くの人たちの愛が冷たくなるということでした。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです(マタイ24:12)。神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も冷えるのです。なぜでしょうか?不法がはびこるからです。聖書に教えられていることとは違うことを教えたり、聖書に反するようなことを言ったりすると、愛が冷え、自己中心になるのです。世の終わりが近くなると、そういう人たちが多くなるのです。今はそのような傾向が強くなっているのではないでしょうか。

では、このことについて聖書ではどのように教えているでしょうか?マルコの福音書8章34節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」

また、こうも言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マルコ12:30-31)

だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスについて行かなければなりません。自分を愛するのではなく自分を捨てて、イエスについて行く、それがクリスチャンの信仰の土台です。そして、神を愛し、隣人を愛します。自分を愛するようにということは、聖書には書かれてありません。健全なセルフイメージを持つことは大切なことですが、それと自分を愛することは違います。自分を愛することができなければ神を愛することもできないし、隣人を愛することだってできないのだから、まずは自分を愛さなければならないと言う人がいますが、それはこの世の知恵が教えていることで、聖書が言っていることではないのです。聖書が言っていることは、あなたが神である主を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよということです。そうすれば、あなたに真の自由と平和がもらされるのです。なぜなら、真理はあなたがたを自由にするからです。真理のみことばに従うなら、その真理があなたを自由にするのです。

次に挙げられているのは、金を愛する者です。終わりの日が近くなると、人々は金を愛するようになるというのです。金を愛して何が悪いのか?世の中すべてが金じゃないですか?しかし、聖書はこう言っています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:10)金を愛することがすべての悪の根であり、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通すことになります。必要であれば、必ず神が与えてくださいます。ですから、金を愛するのではなく、神を愛さなければなりません。お金を何に使うかによってその人の心がどこにあるか、何に関心があるのかがわかります。自己中心的になると神のために使ったり、人のために使ったりということがなくなり、自分のために使うようになります。なぜなら、だれもふたりの主人に仕えることはできないからです。神にも仕え、また富にも使えるということはできません。神を愛すれば、神に仕えるようになり、金を愛すれば、金に仕えるようになるのです。その結果、信仰から迷い出て、悲惨な結果を見に招くことになるのです。

第三のことは、大言壮語する者です。大言壮語とは何でしょうか。それは自慢することです。できそうにもないことや威勢のいいことを言って誇るのです。終わりの日が近くなると、多くの人がこのように大言壮語するようになります。

第四に、不遜な者です。不遜な者とはギリシャ語で「ヒュペレーファノス」という言葉ですが、これは自分を高く示すという意味です。自分を高くするので、そこには当然相手を見下す態度が生まれます。このような心があると、上から目線で言ったり、やったりするようになるのです。

ルカの福音書18章には、有名なパリサイ人の祈りが紹介されています。彼は、立って、心の中でこう祈りました。「神よ。私はわかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

このパリサイ人は、自分を高い所に置きました。そして、取税人をはじめとする罪人をいつも見下していました。それがこの祈りによく表われています。「ことにこの取税人のようでないことを感謝します」と、祈っています。これが傲慢な者、不遜な者の姿です。

次に、神を汚す者です。つまり、神を侮辱する者です。このような人は神を敬うことをしません。神を敬うのではなく自分を敬います。そうした自尊心は常に神への侮辱を生み出します。神よりも自分の方がもっと知っているとか、神を信じて何にもならないと豪語するのです。こうした思いはやがて人を軽蔑し、人を傷つける言動となって表われます。

次は、両親に従わない者です。終わりの日が近くなると、だんだんと両親にも従わなくなる人が増えてきます。両親のことより自分のことが大切だと思うからです。でも、モーセの十戒では何と言っているでしょうか?モーセの十戒の最初の四つの戒めは神との関係について、後半の六つの戒めは対人関係について言われていますが、その対人関係の最初に言われているのは両親に対する戒めです。そこには、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12)とあります。それが「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるため」なのです。なぜこのように言われているのでしょうか?なぜなら、あなたの両親は神の代理者として立てられているからです。目に見える親を愛することのできない人が、どうして目に見えない神を愛することができるでしょうか。きょうは奇しくも父の日ということですから、両親から離れて住んでいる方は、ぜひ両親に電話なり、メールなりで感謝を表したいものです。

次は、「感謝することを知らない者」です。終わりの日が近くなると感謝することを知らない人が増えてきます。皆さんは感謝していますか?ブツブツ文句ばっかり言ってはいないでしょうか?不平不満ばかり漏らしてはいないでしょうか?なぜ感謝することができないのでしょうか?それが当たり前だと思っているからです。でも、あなたが生きているのは決して当たり前のことではありません。生きたくても生きられない人がたくさんいます。だから、生きていること自体が奇跡であり、感謝であり、恵みなのです。そればかりか、神はあなたを罪から救ってくださいました。永遠の滅びから、永遠のいのちへと移してくださったのです。神はこんな者でも救ってくださったと思うと、本当に感謝ではないでしょうか。いや、私は自分で頑張って生きてきたんです!誰の世話にもなっていません!自分で一生懸命努力して生きてきたんです!そういう人は感謝することができません。それが当たり前だと思っていたり、自分の力でやって来たと思っている人は感謝ができないのです。そういう人は感謝することをしないばかりか、与えられてもまだ足りないと言って文句を言います。終わりの日が近くなると感謝することを知らない者が増えてきますが、そのような中でも私たちは神を覚え、神によって生かされていることを感謝したいと思います。

次に、汚れた者です。汚れた者とは何でしょうか?汚れた者という言葉はギリシャ語の「アノシオス」ということばですが、これは成文化された法律を破るということでよりも、成文化されていない法律を犯すということです。たとえば、ギリシャ人にとっては、死者を埋葬することを拒むことはアノシオスでした。また、兄弟が姉妹と、もしくは、息子が母親と結婚することもアノシオスであったそうです。つまり、律法の文言に書かれているかいないかということと関係なく、その人が生きていく上での基本的な倫理観や道徳観、マナーやモラルといった面で欠如している人のことを言うのです。

そして次は情け知らずの者です。これは家族や友人への愛情がなくなることです。人は自己中心的になると、もっとも親密なはずの家族のつながりも無くなってしまいます。自己中心的な喜びを追及するあまり、自分の人生がそうした基本的なつながりの上に建てられていることも認めようとしなくなるのです。

M兄から聞いたお話ですが、お借りしている畑の近くの小さな池にカモが親子で泳いでいるそうです。しかし、M兄が近づくと近くの茂みに隠れます。すると突然親カモ傷ついたふりをするのだそうです。M兄の関心を自分に向けさせて、子カモを守ろうとするのです。そしてM兄がそこから離れるとまた子カモのところに戻ります。カモでさえこんなに愛情があるのに人間はどうでしょう。そこに傷ついた人がいても知らんふりをするのです。カモ~ン!私たちはカモよりももっとすぐれたものじゃないですか。困った人や苦しんでいる人を見たら、深い同情心、あわれみの心をもって接したいものです。

次に、和解しない者です。これは「アスポンドス」というギリシャ語ですが、憎悪のあまり、争った相手を決して赦そうとしない態度のことです。この語は精神的な残酷さ、冷酷さを述べることばであって、無慈悲な冷酷さのゆえに、相手を分離しようとすることです。どこまでも執念深く、他の人と仲良くやろうとする心がありません。

次に、そしる者です。これは陰口をたたく者、中傷する者のことです。これはギリシャ語では「ディアボロス」という言葉ですが、英語の「devil」(悪魔)の語源になった語です。ですから、もし人を中傷する人がいれば、それは悪魔から来ているのです。終わりの日には、こうした中傷者が増えてきます。

次は、節制のない者です。節制がない者とは、欲望を抑えられない人のことです。人はその心の願望を叶えたい存在なのです。そしていつの間にか習慣や欲望の奴隷になってしまい、その人自身を滅ぼしてしまいます。銀貨30枚でイエスを裏切ってしまったイスカリオテのユダは、この欲望を抑えることができませんでした。彼は節制のない者でした。その結果、彼は自らそのつけを受けることになってしまいました。しかし、それはユダだけのことではなく、私たにも言えることです。

次は、粗暴な者です。粗暴な者とは野蛮な者、獣のように残忍な者のことです。このような人には人間としての同情心やあわれみの心はありません。犬でさえも、自分の主人を傷つけると申し訳なさそうな動作をしますが、粗暴な人にはこのような感情すらありません。

次に、善を好まない人です。善を好まないで悪を好みます。そんな人がいるのでしょうか。いるんです。このような人は、良いことが煩わしく感じます。光よりも闇を愛するのです。その方が安心するのです。このような人は精神的な味覚、感覚を失っているのです。そして、終わりの日には、このような人がだんだん増えてくるのです。

次は、裏切る者です。いつも近くにいて親しい友人だと思っていたら、ただのふりだったとか、自分に都合が悪くなるとすぐに見捨ててしまう人たちのことです。

向こうみずな者とは、無謀なことをする人のことです。その人は、わがままで分別がありません。一見情熱的に見えますが、それはただ自分がやりたいからやっているだけで、そういう人はもはや他の人の意見を聞く耳を持ちません。情熱的であることと無謀であることはまさに紙一重です。

次は、慢心する者です。慢心する者とは、うぬぼれる人、思い上がる人のことです。原語の「テトュフォーメノス」は、自負心で膨張する者という意味です。俺はこんなにすごいんだと、風船が膨張するように心が膨張するのです。

そして、神よりも快楽を愛する者です。趣味やレジャーが悪いというのではありません。それはリフレッシュするために、リラックスするために、神が与えてくださった祝福です。でも、それを神よりも大事にすれば問題が生じてきます。

ここにあるリストの最後は5節に書いてあることです。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」です。どういうことでしょうか?イエスは主です!救い主です!と言いながら、それと矛盾するようなことをやっている人のことです。こういう人は、結局はイエス・キリストに従うのではなくて、自分の肉に従って生きています。宗教の形を気にしているだけで中身が伴わないのです。神のことばがどれだけ私たちの生活を変える力があることを理解することができませか。こういう人を避けなければなりません。

そればかりではありません。6節と7節にはこうあります。「こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」

どういうことでしょうか?「たぶらかす者たち」は、入り込む者たちです。彼らは、愚かな女たちがさまざまな情欲に引き回されていることを知っているので、そこに入り込み、自分の虜にします。大抵の場合、女性は家にいて、子育てと家事の平凡な日々の繰り返しにむなしさを感じています。いったい何のために生きているのかわからなくなったり、過去の罪責感などで悩んで落ち込むことがありますが、そんな時に「ピンポン」と玄関のチャイムが鳴るので行ってみると、優しそうな二人連れがニコニコしながら話しかけです。「聖書を学んでみませんか」「いいえ、私はいいです。」と一度は断るものの、何度か話をしているうちに、この人たち、「本当にいい人たちだわ、ちょっとくらいだったら聞いてみようかしたら」と思い始めます。すると、生きる目的とか、人生の意味など、これまで考えたこともないようなことを教えてくれるのでおもしろくなって、だんだんとのめり込んでいくのです。それがあからさまに間違っていたらすぐにおかしいと気づくのですが、そこにはちょっと真理が混ざっているので、それが聖書の教えとは違うということに気付かないのです。そして時間が経つうちに、聖書とは全く違うところに導かれてしまいます。だから、彼らはいつも学んではいても、いつになっても真理を知ることができません。パウロの時代にもそういう人たちがいました。彼らはいつも学んでいても、いつになっても真理を知ることができないのです。

8節をご覧ください。「また、こういう人たちは、ちょうどヤンネとヤンプレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」

この「ヤンネとヤンブレ」とはだれのことなのかははっきりわかりません。彼らのことは聖書の他のところには出ていないからです。でも確かなことはモーセの時代に生きていた人物で、モーセに逆らった人たちであるということです。多くの人たちは、ユダヤ人の伝承から、出エジプト記7~9章に登場するエジプトの呪法師のことではないかと考えています。あるいは、出エジプト記12章38節に出てくるイスラエルの民と一緒に入り混じってエジプトを出てきた外国人の中にいた人物ではないかとも考えられています。彼らは後に荒野に導かれたとき、激しい欲望にかられ、「ああ肉が食べたい。エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」と言って、モーセに激しくつぶやきました(民数記11:4-5)。確かなことはわかりませんが、彼らについてわかることは、彼らはだましごとにたけていて、人々を惑わしていたということです。彼らの知性は腐っていました。彼らは信仰の失格者です。

だから目を覚ましていなければなりません。敵である悪魔は、食い尽くすべき獲物を探し求めて歩き回っているからです。聖書は悲観的なことを教えているわけではありませんが、でも厳しい現実があるということを予め教えています。ですから、私たちはそのことを覚えて、そうした困難な時代に対処していかなければならないのです。

Ⅲ.しかし、これ以上は進むことはできない(9)

しかし、感謝なことに、聖書はそれだけで終わっていません。最後の9節には力強い約束が記されてあります。ご一緒に読んでみましょう。「でも、彼らはもうこれ以上進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりの場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。」

彼らとはだれのことでしょうか。このように知性の腐った人たちのことです。真理に逆らう人たちです。終わりの日にはそのような人たちがやって来て、狂暴な狼のように群れを荒らし回しますが、彼らはそれ以上進むことはできません。彼らの力もそこまでで、それ以上は進むことはできないのです。化けの皮がはがれるからです。それが真理の光に暴露されると、必然的にしぼみ、滅亡するからです。神の不動の礎は堅く置かれています。だから教会は決して揺り動かされることはありません。だからたとえどんな人が現れても、どんな困難な時代がやって来てもびくともすることはないのです。そのような時代にあっても、堅く立ち続けることができるのです。

ですから、私たちにとって必要なことは、この真理の上にしっかりと立ち続けていることです。そうすれば、どんなことがあっても揺り動かされることはありません。今は、終わりの日の終わりの時です。終わりの日が限りなく近づいています。このような時代には、ますます不法がはびこり、愛が冷えるでしょう。教会もそうした影響を受けることも少なくありません。けれども、私たちは神のものであり、神に属している者として、この神に従うのです。そうすれば、どんな時代にあっても神が守り、決して動かされることがないように支えていてくださいます。そのことを覚えて、終わりの日に困難な時代がやって来ても慌てることなく、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かっていきましょう。敵である悪魔はもうそれ以上は進むことはできないからです。